第21話 忠誠は命令できない
夜のリース伯領の執務室。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、静かに響いていた。
レオンハルトは手にしていたグラスを置き、窓の外に広がる雪景色を見つめたまま、低い声で語り始めた。
「……王暦六〇七年。私がまだ二十三の時だ。父が急死してな。ヴァルグレンの軍も領地も、混乱の極みにあった」
「私が婚約した翌年ですわ」
彼は頷いた。あの頃、私は初めて渡された決裁書式に戸惑っていた。その同じ時間に、彼は軍と領地を引き継いでいたのだ。
「強大なカリスマで国境を束ねていた前当主が消えたんだ。兵士たちの間には、隣国の脅威や厳しい冬への不安から、すさまじい動揺が広がった。夜逃げ同然で脱走する者も少なくなかった。……軍の幹部たちは、私に『戒厳令を敷き、脱走者は見せしめとして厳罰に処せ』と進言したよ。恐怖で縛り付けなければ、国境軍は崩壊すると」
「……」
私は黙って彼の横顔を見つめた。
当時の彼の重圧は計り知れない。私でさえ、自分の領地の物流が数日止まっただけであれほど焦ったのだ。国家の防衛を担う国境軍の崩壊危機となれば、手段を選んでなどいられなかったはずだ。
「だが、私は幹部の進言を退けた」
レオンハルトはゆっくりと首を横に振った。
「私は全兵士を集めて、こう告げた。『残りたい者だけが再契約しろ。去りたい者は止めないし、路銀も払う』と。軍を縛り付けて無理やり維持するよりも、自らの意思で残る者だけを集めた方が、結果的に部隊は強靭になると信じたからだ」
結果として、どうなったか。
彼の言葉に、私は息を呑んだ。
「およそ半数の兵が、私を見限って軍を去った」
半数。国境防衛の要である部隊の規模が、一瞬にして半分になったのだ。
どれほどの絶望だっただろうか。残された兵たちの負担も、新当主である彼への非難も、想像を絶するものだったに違いない。
「私は去っていく彼らを裏切り者として追うことはしなかった。残った半数の兵士たちと共に、死に物狂いで国境を守り、体制を立て直すことだけを考えた。……最初の二年は、本当に地獄だったよ」
彼はそこで初めて、口元に微かな笑みを浮かべた。
「だが、数年後。一度は軍を去った兵士たちの多くが、自分の足で再びヴァルグレンへ戻ってきた。他所の領地で働き、様々な主君を見て……『やはり、あの人の下で戦いたい』と言ってな」
レオンハルトは私に向き直り、静かな、けれど熱を帯びた瞳で私を見た。
「その時、私は確信した。忠誠や信頼は、地位や命令で縛り付けるものではない。一度手放し、自由に選ばせるからこそ、本物になるのだと」
だからこそ彼は、私が移住者たちに「自由に選べ」と宣言した時、深く共感してくれたのだ。
彼の壮絶だが揺るぎない過去の経験を聞き、私の胸の奥で、ずっと隠し続けてきた固い氷のような感情が溶け出すのを感じた。
「……閣下は、強いですね」
私は手の中のグラスを見つめたまま、ぽつりとこぼした。
「私には、そんな強さはありません。王宮での私は……『役に立つこと』が自分の価値のすべてだと思い込んで生きてきました」
言葉にするのは恐ろしかった。だが、彼の静かな瞳を見ていると、不思議と素直な声が出た。
「各省庁の対立を丸め込み、誰もが損をしない調整を期限内にやり遂げる。そうして役に立ち続けている間だけは、私は王太子殿下の隣にいることを許されていました。だから……怖いのです」
「何がだ?」
「もし私が完璧な調整官でなくなれば。今回のように大きな失敗をして、あるいは過労で倒れて、誰の役にも立たなくなってしまえば……誰も私の隣には残ってくれないのではないか。皆、私を見限って去っていくのではないかと、ずっと恐れているのです」
絞り出すように吐露した私の弱さに、レオンハルトは何も言わなかった。
「君は立派にやっている」「誰も君を見捨てたりしない」といった、安っぽい慰めや無責任な励ましは一切口にしない。彼は私の「役に立たなくなることへの恐れ」を否定せず、説教がましく反論することもなく、ただ静かに頷きながら聞いていた。
そして、私の手から冷えたグラスをそっと取り上げ、机に置いた。
「それでも君は、彼らの退職の自由を奪おうとはしなかった。自分の不安よりも、彼らの権利を守ることを選んだ」
彼は深く、静かな声で言った。
「その決断だけで十分だ、ヴィクトリア。君が自分の弱さとどう向き合うかは、これからゆっくり考えればいい。……私は、君が完璧でなくなったとしても、ここにいるからな」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、私の胸の奥深くを貫いた。
成果を出さなくてもいい。弱い部分を見せても、この人は私の扱いを変えない。役に立たなくても、隣に座っていることを許してくれる。
彼という存在が、私にとって何よりも代えがたい『安全地帯』になりつつあることを、私ははっきりと自覚していた。
暖炉の火が、静かに私たちを照らし続けていた。
*
それから数日後のこと。
王宮が発した『帰還命令』の勅令案によって、リース伯領の移住者たちは重い決断を迫られていた。
彼らは各自で集まり、恩給の計算と家族の事情について連日話し合いを続けている。私は約束通り一切の介入を行わず、ただ彼らが答えを出すのを待っていた。
そんな折、王都の宰相府から、リース領主である私宛てに仰々しい封書の書状が直接届けられた。
受領したエレナの顔は青ざめ、書状を手渡す彼女の指先は小刻みに震えていた。
「ヴィクトリア様……これは」
封を切り、中身に目を通した私の目も、自然と細められた。
それは単なる通知書や命令書ではない。王国法務省と宰相府の連名で発行された、正式な法的文書。
『元官僚の不当な引き抜き、および不適切な雇用に関する疑義を正すため、王都の法廷において公開審理を行う。リース女伯ヴィクトリア・エルデン、ならびに関連する元官僚数名の出頭を命ず』
――『公開審理の召喚状』だった。
ベルク宰相は、もはや裏工作や間接的な嫌がらせではなく、法と権力を振りかざして直接的な牙を剥いてきたのだ。
私という個人の責任を追及するだけでなく、私のもとに集まった移住者たち全員を法廷に引きずり出し、彼らの選択を「不正」として断罪しようとしている。
「……ベルク宰相も、いよいよ後がなくなってきたようね」
私は召喚状を机の上に置き、冷たく言い放った。
彼らは私を屈服させられると思っている。だが、公開審理という表舞台を用意してくれたことは、ある意味で好都合でもあった。
私は執務室の窓から、分厚い雪雲に覆われた空を見上げた。
ここからが、本当の戦いになる。




