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婚約破棄ですか。では、明日からの決裁はお任せします~北の領地で辺境伯と交易を始めたら、王宮から戻れと言われました~  作者: 他力本願寺


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第20話 相談役なら戻れるだろう

王家の封蝋を割り、私はアルベルト殿下からの手紙を広げた。


『ヴィクトリアへ。


 宰相府が元官僚への帰還命令の法案を進めていることは知っているだろう。だが、安心してほしい。私は君に強制的な命令を下して、無理やり引き戻すような真似はしたくない。


 ただ、君が去ってからというもの、どうにも各省庁の折り合いが悪く、秋季物資の輸送に遅れが出ている。民も不安に思っているはずだ。


 そこで提案なのだが、君には王太子府の「特別相談役」としてのポストを用意しようと思う。婚約関係は解消したままで構わない。君も窮屈な王室のしきたりや、次期王太子妃という重圧から解放されて自由になれるし、私も私生活での選択を尊重される。その上で、君の優れた実務能力だけを国のために振るってもらう。機能と私生活を分ければ、我々にとってこれほど合理的な解決策はないだろう。


 良い返事を待っている。』


 私は「機能と私生活を分ければ」という一節を、もう一度読んだ。


 以前の依頼を断った理由は、彼には届いていなかった。婚約という役割を外せば、私が喜んで同じ仕事へ戻ると思っている。


「ヴィクトリア様、お返事は」


 待っていたエレナへ、私は便箋を頼んだ。


『ご提案はお受けできません。私はリース女伯として、現在の職務を続けます。』


 理由をいくつも書き足すことはしなかった。条件を変えれば引き受ける、という返事にはしたくなかった。


 署名して封をし、急使へ渡すようエレナに託す。


 届いた手紙は返書の控えと共に保存箱へ入れた。何を求められ、どう答えたかは残しておく。


 蓋を閉めると、部下たちの進退を記す、まだ空欄のままの名簿が目に入った。


 私の答えは出た。彼らの答えは、彼らが決める。


 *


 その日の夜。


 日中の騒動が一段落し、冷え切った執務室で私が一人、明日の配給計画の見直しを行っていた時のことだ。


「……まだ起きているのか」


 低い声と共に、執務室の扉が開いた。


 国境軍の巡回から戻り、休んでいたはずのレオンハルトだった。彼はゆったりとした私服のシャツ姿で、手には温かい果実酒の入ったグラスを二つ持っていた。


「レオンハルト様。お身体はもうよろしいのですか?」


「ああ。昨夜は十分に休めたからな。すっかり元通りだ」


 彼は私の向かいの席に腰を下ろし、グラスの一つを私の前に置いた。スパイスの効いた果実酒の香りが、ふわりと部屋に広がる。


「今日の相談窓口は、もう閉めたのか」


「ええ。家で考えたい方もいますから、返事の催促はしないようにと伝えました」


「それがいい」


 レオンハルトはグラスに口をつけ、静かに頷いた。


「実は……夕方、私宛てにも王都から手紙が届いたのです」


「手紙?」


「アルベルト王太子殿下からの私信ですわ。帰還命令とは別に、私には王太子府の『相談役』というポストを用意するから、戻ってこないかというお誘いでした。婚約は不要だから、実務の機能だけを提供してくれ、と」


 私が隠し立てすることなく事実を告げると。


 ピタリと、レオンハルトの手元が止まった。


 グラスを口元に運ぶ動作が完全に静止し、彼の視線が私の顔に鋭く突き刺さる。執務室の空気が、一瞬にして凍りついたように重くなった。


 彼は何も言わなかった。


「そんなふざけた命令は無視しろ」と怒鳴ることも、「行かないでくれ」とすがりつくこともしない。机を叩くことも、私を問い詰めることもしない。


 ただ、恐ろしいほどの沈黙が、私たちの間に落ちた。


「……君は」


 やがて、絞り出すような、ひどく低い声が彼の喉から漏れた。


「君は、どう返事をしたんだ」


 グラスを握る彼の指が、白くなっていた。


 私がどこへ行くかを命じることはしない。けれど、どう返事をしたのかは知りたいのだ。


 私は彼の手へ、自分の手を重ねた。


「丁重にお断りしましたわ」


 私はふわりと微笑み、彼の目を見つめ返した。


「私生活を切り離して機能だけを提供しろだなんて、そんな虫のいい話に乗るほど、私はお人好しではありません。それに……私の居場所はもう、ここですから」


 私の言葉を聞いた瞬間、レオンハルトの全身から、ふっと目に見えるように力が抜けた。


 彼は深く、本当に深く息を吐き出し、グラスを机の上に置いた。


「……そうか」


 彼は片手で自分の顔を覆い、小さく自嘲するように笑った。


「すまない。私は、君の判断を信じているはずなのに……いざ彼から君を求める声が届いたと聞くと、ひどく冷静さを欠いてしまったらしい」


「閣下が焦るお姿なんて、初めて見ましたわ」


「笑ってくれて構わない。……私は、君を権力や同情で縛り付けるような真似はしたくない。君が自分でここを選ぶのでなければ、意味がないからな」


 レオンハルトは顔を上げ、執務室の窓の向こう、雪に覆われた暗い夜の領地を見つめた。


 その横顔は、ひどく寂しげだった。


「縛り付ければ、人は簡単に心を離す。私はそれを、身を以て知っている」


「……過去に、何かあったのですか?」


 私が静かに尋ねると、彼は窓の外から視線を戻さず、ぽつりと語り始めた。


「……私が辺境伯の当主になった年、親父が急死してな。ヴァルグレンの軍も領地も、混乱の極みにあった」


 それは、有能で決して弱音を吐かない彼が、初めて私に見せた、彼自身の脆い過去の傷跡だった。

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