第18話 帰ってこない二日間
レオンハルトが雪崩の救助へ出撃してから、丸一日が経過していた。
北の空を覆った鉛色の雲は、容赦なく猛吹雪を降らせ続けている。閉鎖中のレヴィン高地峠に加え、国境へ通じる軍用路と低地回廊の取り付け道も一時通行止めとなり、北行きの荷馬車が身動きを取れなくなっていた。
「ヴィクトリア様、関所で待機している馬車が五十台を超えました。これ以上の滞留は、馬の凍死を招きます」
「関所の手前にある旧迎賓館の厩舎を開放して。御者たちは広間の暖炉の周りに避難させて、温かいスープを配給するように。費用の全額はリース伯領の会計で持ちます」
リース伯領の執務室で、私は次々と上がってくる報告に対し、即座に決裁を下していた。
トーマスが計算する待機費用の見積もりを確認し、エレナに配給の手配書を急ぎ清書させる。物流が止まった今、最も優先すべきは人命と馬の保護だ。パニックを起こさず、冷徹に数字と手順を動かしていく。
私の思考は極めてクリアだった。調整官としての手腕は、非常時であっても一切の狂いなく機能している。
だが。
「……女伯様。少し、休まれてはいかがですか」
温かいお茶を淹れてくれたオズワルドが、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「ありがとう、オズワルド。でも大丈夫よ、まだ処理しなければならない書類が……」
「そうではありません。辺境伯閣下がご出立されてから、女伯様は一度もペンを置いておられない。少し、窓の外を見る回数が増えておいでですぞ」
図星を突かれ、私は言葉に詰まった。
オズワルドの言う通りだった。私は目の前の書類に集中しているふりをしながら、ふとした瞬間に、吹雪が吹き荒れる北西の窓へと視線を彷徨わせてしまっていた。
彼が率いていった救助隊の帰還予定時刻は、昨夜のうちに過ぎている。
吹雪による行軍の遅れか、あるいは二次雪崩に巻き込まれたのか。最前線からの連絡は一切途絶えていた。
「(……当然ですわ。彼に万が一のことがあれば、共同事業は崩壊し、この領地の経済が成り立たなくなります。私は事業の代表として、共同経営者の安否を案じているだけ……)」
頭の中で、必死に合理的な言い訳を組み立てようとする。
だが、その虚勢はすぐに崩れ去った。
私の脳裏に浮かぶのは、共同事業の採算でも、今後の政治的リスクでもなかった。
冷えた私の肩に、黙って分厚い軍用外套をかけてくれた彼の不器用な優しさ。秋祭りの夜、私服姿で並んで歩いた時の、飾らない笑顔。そして、「君とならやれるかもしれない」と言ってくれた、あの真っ直ぐな瞳。
――私は、彼を失いたくない。
有能な軍司令官としてでも、共同事業の相棒としてでもない。ただ、「レオンハルト」という一人の人間が、雪に埋もれて帰ってこないかもしれないという想像が、私の内側から体温を奪い去っていく。
王宮でどれほど理不尽な要求を突きつけられても、決して揺るがなかった私の芯が、音を立てて軋んでいた。
自分がこれほどまでに、誰か一人の存在に寄りかかっていたのだと、私は彼がいないこの空白の時間で初めて自覚させられていた。
*
それからさらに一日。
丸二日が経過した朝、ようやく空から雪が消え、雲の隙間から薄日が差し込み始めた。
「ヴィクトリア様! 関所の守備隊から連絡です! 辺境伯閣下の部隊が、北端の救助現場から帰還しました!」
執務室に飛び込んできたエレナの報告を聞いた瞬間、私は手元にあったペンを放り出し、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
護衛の騎士も伴わず、ドレスの裾が雪に濡れるのも構わずに領主邸を飛び出す。
邸宅の前の広場には、雪にまみれた数十騎の騎馬隊がちょうど到着したところだった。馬の息は荒く、兵士たちの防寒着には厚い霜がこびりついている。
その先頭に、彼の姿があった。
「……レオンハルト様!」
大勢の兵士の前で、役職名を忘れて叫んでしまった。
馬から降りようとしていたレオンハルトが、私の声に気づいて顔を上げる。
彼はひどく疲労困憊していた。漆黒の軍服は泥と雪に汚れ、額や頬には鋭い木の枝や氷で切ったのか、生々しい擦り傷がいくつもできていた。雪崩の現場がいかに過酷で危険なものであったかを、彼の姿が何よりも雄弁に物語っていた。
「ヴィクトリア……こんなに寒い中、外に出てきては駄目だ」
彼はひどく掠れた声で私をたしなめながら、ふらつく足取りで歩み寄ってきた。
いつもの私であれば、まず「雪崩の被害規模はどれくらいか」「主路の復旧には何日かかるか」と、現状把握のための数字を要求したはずだった。政策調整官にとって、情報こそが命なのだから。
しかし、私の口から出たのは、そんな冷たい数字の問いではなかった。
「ご無事で……本当によかった……っ」
自分でも驚くほど震えた声が漏れた。
気がつけば、私は無意識に両手を伸ばし、彼の凍てつくような冷たい革手袋を、自分の両手で強く握りしめていた。
怪我の報告を聞くより先に、ただ彼が目の前で生きて呼吸していることだけが、私にとってのすべてだった。
大勢の部下たちの前で、私が取り乱すように彼の手を握ったことに、周囲の兵士たちがわずかにどよめく。
だがレオンハルトは、そんな周囲の視線など意に介さず、驚いたように小さく息を呑んだ後、ひどく優しい表情で微笑んだ。
「……心配をかけたな。遭難した部隊の救助には成功したが、二次雪崩に道を塞がれて、身動きが取れなかったんだ」
彼は私の手からそっと手を引き抜くと、代わりにその大きな手で、私の頭に積もりかけていた雪を軽く払った。
「道が塞がっている間、君が完璧な代替手配をしてくれていると信じていたから、私は目の前の命を救うことだけに集中できた。ありがとう、ヴィクトリア」
その言葉に、胸の奥で張り詰めていた糸がふつりと切れ、目頭が熱くなるのを感じた。
役に立たなければ隣にいられないと恐れていた私が、ただ「無事でよかった」と安堵するだけの、ありふれた一人の女性に戻った瞬間だった。
*
レオンハルトたちが無事に帰還し、十分な休息を取った後。
ようやく落ち着きを取り戻したリース伯領の執務室で、私たちは二日分の遅れを巻き返すための被害規模の算定と、除雪作業のスケジュール調整に入った。
雪山の恐ろしさを身を以て知ったからこそ、私は物流の安全基準をより厳格に見直す決意を固めていた。
だが、私たちの前に立ちはだかるのは、大自然の脅威だけではなかった。
「女伯様! 至急の塔電です!」
午後。王都からリース、さらに国境交易都市まで延びる塔電網を使い、王都から公用の定型短文が送られてきた。
それを受け取ったトーマスの顔は、これまでにないほど険しく引き攣っていた。
「どうしたの、トーマス。商務省がまた関税の件で何か?」
「いいえ……今度は、宰相府からです」
トーマスは、震える手でその薄い紙片を私に差し出した。
「ベルク宰相が、『国家人材の緊急確保』を名目とした勅令案を提出しました。内容は……退職した元・国家官僚に対する、一時帰還命令です」
「なっ……」
私は紙片の文字を読み、血の気が引くのを感じた。
帰還者には王国勤続加算の再開を認めるという甘い餌と、拒否すれば国家への反逆とみなしかねない強権的な文言が短い文章に凝縮されていた。
軍務や機密職ならいざ知らず、文官の自由退職の権利を法的に捻じ曲げてまで、ベルク宰相は私の手足をもぎ取りに来たのだ。
エレナ、トーマス、アデル、そして多くの移住者たちを、王都へ強制的に引き戻そうとする、新たな圧力が私たちに襲いかかろうとしていた。




