第17話 名前の残る納品書
「女伯様、お忙しいところすいやせん。ちょっと、納品記録について見てほしいものがありまして」
軍用路の民間開放に伴う新たな通行証の発行作業に追われていたリース伯領の執務室。半開きになった扉から顔を出したのは、王都から移住してきた職人のマルクだった。
彼の手には、何枚かの真新しい羊皮紙の束が握られている。
「どうしたの、マルクさん。何か書類に不備でもありましたか?」
「いや、その逆でさぁ。あまりにキッチリ書かれすぎていて、あっしの方が戸惑っちまってましてね」
マルクは照れくさそうに頭を掻きながら、その書類を私の机の上に広げた。
それは、彼に特別に発注していた『橇換装具』の納品書だった。
これから本格的な冬を迎えれば、馬車での輸送は困難になる。そのため、通年で使える代替路である『冬季低地回廊』を通る際には、車輪を外して橇の滑走部へと迅速に付け替える必要がある。マルクが設計したその換装具は、従来のものよりも軽量で強度が高く、着脱の時間を大幅に短縮できる見事な代物だった。
「この納品書の下のところなんですがね」
彼が太い指で示した先には、王国の公式な書式に則った記載欄があった。
『納入品:低地回廊用・橇換装具一式』
『製作責任者:マルク』
「この『製作責任者』って欄に、あっしの名前がデカデカと書かれてるでしょう。王都では、女伯様が記録を改めてくださった買付以外、個人の名前が公式の記録に残ることは滅多になかったもんで……。税の申告上、これだとあっしが組合を差し置いて勝手な商売をしてるってことにならないか、少し不安になりましてね」
彼の懸念は、王都の商売の常識からすれば当然のものだった。
王宮や大商会を相手にする下請けの職人たちは、どれほど画期的な発明をしても、どれほど精巧な仕事を行っても、納品書に記されるのは「元請け商会」の名前だけだった。手柄はすべて上の者が吸い上げ、問題が起きた時だけ下請けに責任を押し付ける。それが王都の合理性だ。
だが、ここでは違う。
「心配には及びませんわ、マルクさん。この領地では、領の調達規則で、売主と製作者を別々に記載することにしています。代金の支払い先は契約した工房、納品の責任もその契約どおりです。あなたの名を記しても、組合の権利を奪うことにはなりませんから」
私は彼が持ってきた納品書に、リース女伯としての承認印を迷いなく押した。
「あなたが知恵を絞り、汗を流して完成させた道具です。その成果に、あなたの名前が残るのは当然の権利ですわ」
「……」
「それに、何か不具合があればすぐあなたに修理をお願いできますし、他の御者たちが『この素晴らしい道具は誰が作ったのか』と知ることができれば、あなたへの次の注文にも繋がります。お互いにとって合理的な仕組みでしょう?」
私が微笑んで書類を返すと、マルクはじっと自分の名前が書かれたその紙を見つめ、やがて太い指で目元をぐいっと拭った。
「……へへっ。女伯様の言う『合理的』ってやつは、どうしてこう、人の腹の底まで温かくするんでしょうね」
「私は数字の計算をしているだけですわ」
「王都の冷てぇ数字とは大違いですよ。……ありがてぇ。これなら、あっしら職人はいくらでも腕を振るえまさぁ!」
マルクは満面の笑みで深く頭を下げると、意気揚々と執務室を出ていった。
彼がこの北を選んだ「自分の名前で仕事が残る」という願いが、明確な形となって実を結んだ瞬間だった。
*
それから数日後のこと。
リース領の共同倉庫前の広場で、マルクは完成した橇換装具を実際の荷馬車に取り付ける実演指導を行っていた。
私はオズワルドやトーマスと共に、視察を兼ねて少し離れた場所からその様子を見守っていた。
「ここにあるジョイントの留め金を外して、橇の滑走部を差し込む。カチッと音が鳴るまで押し込んだら、この安全ピンで固定する。これで吹雪の道でも絶対に外れねぇ! 分かったか!」
マルクが大きな声で説明すると、集まっていた御者たちから「おおっ」と感嘆の声が上がった。従来であれば数人がかりで一時間以上かかっていた車輪の交換作業が、彼の発明した器具を使えば、ほんの十数分で終わってしまうのだ。
そして、その換装具の側面には、小さな金属の銘板が打ち付けられていた。
そこにははっきりと『製作者:マルク』と刻まれている。
実演が終わった後、一人の若い男が、おずおずとマルクの前に進み出た。地元の職人組合に所属する、まだ年端もいかない徒弟だった。
「あ、あの! マルクさん!」
「おう、坊主。どうした?」
「俺……その、マルクさんの作った換装具を見て、感動しました。あんなに頑丈で、しかも使いやすい道具……それに、道具に自分の名前が刻まれてるなんて、すげぇかっこいいです!」
若い徒弟は、目をキラキラと輝かせてマルクを見上げた。
「俺も、そんな風に自分の名前で誇れるような仕事がしたいです。どうか、俺をマルクさんの下で働かせてください! 技術を教えてほしいんです!」
その言葉に、広場にいた者たちが水を打ったように静まり返った。
地元の徒弟が、王都から来た移住者の下で技術を学びたいと頭を下げている。それは、私が定めた『地元徒弟枠の雇用保証』という制度上の数字ではない、彼らの純粋な尊敬から生まれた絆だった。
オズワルドが、ふっと口元を和ませて私を見た。
「……女伯様。口を出されなくてよろしいのですかな? 雇用の手続きならば、こちらで進められますが」
「いいえ、オズワルド。私は彼らが正当に評価される『枠組み』を作っただけです。あの中で起きている成果は、すべて彼ら自身のものですわ」
私は首を横に振り、微笑んで彼らを見守った。
マルクはひどく驚いたような顔をしていたが、やがて鼻の下を擦り、大声で笑った。
「馬鹿野郎、職人の世界は甘くねぇぞ! だが……本気で俺の名前を超える気があるなら、しっかり見て技術を盗みな!」
「はいっ! ありがとうございます、親方!」
若い徒弟の元気な返事が、冷たい秋の空気に心地よく響き渡った。
王宮で評価されず、名前を消されてきた男が、北の地で確かな足跡を残し、その誇りが次の世代へと受け継がれていく。
彼ら移住者たちが自ら選んだこの場所は、確実に、温かい血の通った共同体へと育ちつつあった。
*
しかし、穏やかな成果を喜んでいられたのは、その日までだった。
翌日、空は昨日までの秋晴れが嘘のように、重たく冷たい鉛色に覆われていた。
急激な冷え込みと共に、北の厳しい冬が牙を剥き始めたのだ。
執務室で次の物流計画を練っていた私の耳に、慌ただしい足音と、切羽詰まった声が飛び込んできた。
バンッ、と勢いよく扉が開かれ、雪にまみれたヴァルグレン軍の伝令が血相を変えて駆け込んでくる。
「辺境伯閣下! 急報であります!」
執務室の窓際で資料を読んでいたレオンハルトが、即座に身を翻した。
「どうした。落ち着いて報告しろ」
「リース北端に近い山間部、国境軍の第三哨戒ルートにて局地的な雪崩が発生しました! 不運にも、付近を巡回中だった我々の部隊が巻き込まれた模様です! 道が完全に寸断され、安否の確認が取れません!」
室内の温度が、一気に数度下がったような気がした。
「雪崩だと……! 巻き込まれた部隊の規模は!」
「十名ほどの小隊です! 現在、現地の砦から一次救助隊が向かっていますが、二次災害の危険が高く、難航しているとのことです!」
レオンハルトの瞳に、瞬時に鋭い軍司令官の光が宿った。
彼は迷うことなく、椅子の背にかけてあった分厚い軍用の防寒外套を手に取った。
「本隊から雪上機動に長けた一個中隊を抽出、即座に出撃する。二次雪崩の予測図と、野営用の防寒テント、非常食、医療キットを限界まで馬に積め! 私も前線へ出る!」
「はっ!」
伝令が弾かれたように踵を返し、廊下を駆けていく。
レオンハルトは外套を羽織り、剣帯を締め直しながら私へ振り返った。
「ヴィクトリア。私は北端の現場へ向かう。道が塞がった以上、後続の物資輸送はすべてストップさせろ。ここから先の現場の指示は、君とトーマスたちに任せる」
「分かりましたわ。閣下……どうか、ご無事で」
私が絞り出すように言うと、彼は「ああ、すぐに行ってくる」と短く応じ、足早に執務室を出ていった。
遠ざかる軍靴の音を聞きながら、私の心臓は嫌な早鐘を打ち始めていた。
彼の背中を見送る私の胸の奥に、仕事の遅延への懸念でもなく、行政官としての責任感でもない、ただ純粋な『彼を失いたくない』という、名状しがたい不安が急速に広がり始めていた。




