第16話 あなたの部下に払わせたくない
「……閣下。軍用路を民間商会に開放するだなどと、本気でおっしゃっているのですか」
リース伯領の執務室。レオンハルトの爆弾発言に対し、真っ先に声を荒げたのは、彼に付き従ってきたヴァルグレン国境軍の副官だった。
無理もない。軍用路とは、軍の迅速な移動や物資輸送のためだけに、山肌を削り、森を切り開いて作られた特殊な経路だ。一般の街道と違って石畳による舗装などはされておらず、馬車のすれ違いも困難なほど細い。
「軍用路はあくまで有事の際の命綱です! そこへ商人の重い荷馬車を何十台も通せば、数日で轍が深く抉れ、雨が降れば泥濘と化します。軍の機動力が著しく落ちるだけでなく、道の補修に駆り出される兵たちの負担がどれほど跳ね上がるか……お分かりのはずです!」
悲痛なまでの副官の訴えに、私は深く頷いた。
「私も、副官殿の意見に完全に同意しますわ」
私はレオンハルトに向き直り、強い口調で言った。
「王都の商務省が仕掛けてきた関税の嫌がらせを躱すのは、私自身の問題です。私の策の帳尻を合わせるために、なぜ、あなたの大切な部下たちに理不尽な負担を払わせなければならないのですか」
それは、私の本心からの拒絶だった。
王宮で政策調整官をしていた六年間、私は「誰かが理不尽な負担を背負うくらいなら、自分が泥を被る」というやり方ですべての数字の帳尻を合わせてきた。自分の決断が他者の……しかも、国境の厳しい環境で命を張っている兵士たちの過労に繋がることなど、絶対に許容できなかった。
「別の方法を探します。だから、この提案は却下させてください」
私がきっぱりと言い切ると、レオンハルトは腕を組み、冷ややかな、それでいて射抜くような鋭い視線を私に向けた。
「ヴィクトリア。君は一つ、大きな勘違いをしている」
彼の声は低く、執務室の空気を震わせた。
「私は、君の『策』を助けるために軍を動かすのではない。そして、君のために私の兵を犠牲にするつもりもない」
「……え?」
「これは、ヴァルグレン辺境伯としての決断だ。ハルヴァルトからの輸入品は、すでに我が領とリース領の民にとって、冬を越すための重要な糧となっている。王都の関税によってこの商流が途絶えれば、物価は跳ね上がり、領民が飢える。それを防ぐための『領主としての責任』において、私は最短距離である軍用路の開放を決めたのだ」
彼は一歩前へ出て、私を見下ろした。
「兵の負担が増えることは百も承知だ。だが、その負担をどう分散し、どう休息を与え、いかにして軍の機動力を維持するかは……軍司令官である私の専門領域だ」
「それは……」
「君の勝手な罪悪感で、私の兵を過保護に扱うな。それは君の越権だぞ、ヴィクトリア」
その言葉に、私は雷に打たれたように立ち尽くした。
――越権。
そうだ。私はまた、「誰も損をしない完璧な解」を探しすぎるあまり、彼の『軍事と現場における専門的判断』を頭ごなしに否定してしまっていたのだ。
彼は私に寄りかかっているわけでも、盲目的に尽くそうとしているわけでもない。自分の領地と部下を守るという確固たる責任の上で、対等な相棒として、彼にしか切れないカードを切ってくれたのだ。
「……申し訳ありません」
私は深く頭を下げた。
「私の思い上がりでしたわ。軍事と現場の判断は、閣下の領域です。……軍用路の運用について、すべてお任せいたします」
「分かればいい」
レオンハルトは短く頷くと、固唾を呑んで見守っていた商人のマティアスへ向き直った。
「マティアス殿。軍用路の通行を許可する。ただし、積載重量は通常の七割を絶対の上限とする。また、雨天時の通行は軍の許可を必須とし、道が大きく損壊した際は、商会側から補修用の砂利と木材を無償で提供してもらう。この条件が呑めるか」
「……距離が短縮でき、正規の軽減税率に加えて輸送の手間を減らせるなら、十分にお釣りが来やす。その厳しい条件、謹んでお受けいたしましょう」
マティアスはニヤリと笑い、深々と一礼した。
こうして、王都の仕掛けてきた関税の嫌がらせは、トーマスの法規の知識と、レオンハルトの軍用路の開放という二段構えの策によって、完全に無力化されたのだった。
◆
一方、その頃。
王都アレシア、王太子府の第一会議室。
「――ですから、財務省の秋季予算枠はこのまま据え置きます。その代わり、内務省管轄の第三倉庫からの救恤用備蓄の放出スケジュールを二日早め、市場の価格高騰を抑える。これで両省とも、規定に違反することなく目的を達成できるはずです」
長机の端で、透き通るような声が響いた。
声の主は、アルベルト王太子が新たに抜擢した若手の政策調整役だった。彼はヴィクトリアが残した引継ぎ書と過去の議事録を徹底的に読み込み、各省の妥協点を見事に突いた案を提示していた。
「……うむ。我々財務省としては、予算の追加拠出がないのであれば異存はない」
「内務省も、備蓄の放出を早めるだけであれば対応可能です」
つい先日まで怒号が飛び交っていた会議室が、嘘のように静まり返り、次々と決裁の署名が行われていく。
会議室の隅で立会いをしていたエミール・ローデン次官補は、手元の議事録を見つめ、長く重い息を吐き出した。
「(……少なくとも、会議は回った)」
補充の手配は残っている。それでも、止まっていた会議が動いたことに、エミールは安堵していた。
「見ろ、エミール」
会議の成立を見届けたアルベルト王太子が、エミールの肩を叩いて満足げに笑った。
「私が言った通りだろう? システムさえ整えれば、ヴィクトリアのような特異な個人に依存しなくとも、優秀な若い人材がちゃんと国を回してくれる。ベルク宰相の言う『権限の分散』は、正しく機能し始めたのだ」
「……はい、殿下。おっしゃる通りかと存じます」
エミールは深く頭を下げた。
アルベルトの笑顔に、エミールも頷いた。国はなんとかなる――そう思いたかった。
エミールは議事録の補充期限欄を見た。日付はなく、『次回協議』とだけ書かれていた。
*
北の空には、日に日に重く垂れ込める雪雲が増え始めていた。
軍用路の民間開放が始まり、リース伯領の執務室は新たな通行証の発行作業でごった返していた。
私がペンを走らせていると、半開きになっていた執務室の扉から、ひょっこりと顔を出す者があった。
「女伯様、お忙しいところすいやせん」
顔を出したのは、先日移住してきたばかりの職人、マルクだった。彼の手には、何枚かの帳簿のような紙束が握られている。
「どうしたの、マルクさん。車輪の補強資材が足りなくなった?」
「いや、作業のほうはすこぶる順調なんでさぁ。ただ……ちょっと、納品記録の見せ方について、女伯様に見てほしいものがありましてね」
彼は少し照れくさそうに笑いながら、執務室の中へと足を踏み入れた。




