第六章 城壁
人は、眠れば休める。
少なくとも、教室や自宅の布団で眠るなら、それで正しい。
しかし、魔物のいる森で眠る場合は少し違った。
◇
最初の野営訓練は、教室から三キロほど離れた森で行われた。
何かあれば一時間以内に拠点へ戻れる距離である。
参加するのは、委員長班の六人。
委員長、巧、剛ちゃん、吉見、高橋、中川。
目標は、森の中で一晩を安全に過ごすこと。
食料も、水も、寝床も、すでに用意されていた。
オタクトリオが木魔法で作った簡易小屋は、同じ大きさの木製パネルを組み合わせる方式になっている。
床板。
側面。
屋根。
入口。
それぞれを分解してマジックボックスへ収納し、野営地で組み立てる。
テントより重く、人力で運ぶのは現実的ではない。
しかし、マジックボックスがあれば重量を気にする必要がない。
雨を防ぎ、地面の湿気と虫を避けられる。薄い板なので防御力は期待できないが、布のテントより安心感があった。
椅子もある。
小さなテーブルもある。
夕食は拠点で作られ、温かいままマジックボックスへ収納されていた。
時間停止状態で保存されるため、昼に作った料理を夜に取り出しても、湯気までそのまま残っている。
「反則だな」
椅子へ座った吉見が、温かいシチューを食べながら言った。
「何が?」
「野営だよ。小屋があって、椅子とテーブルがあって、作りたての飯が出てくる。キャンプ場より快適じゃないか?」
「風呂がない」
中川が言う。
「明日帰るんだから我慢しろ」
「木の桶も持ってくればよかったな」
「そこまでやったら、野営訓練にならないだろ」
高橋の指摘に、巧が首を振った。
「持ってこられるものを、わざと持ってこない方がおかしいよ。マジックボックスを使えることが、俺たちの強みなんだから」
マジックボックスは、最強の兵站を実現していた。
大容量。
重量を無視した運搬。
食事の時間停止保存。
武器、薪、水、建材、寝具を、必要なときに取り出せる。
この能力があれば、長距離遠征の難易度は大きく下がる。
しかし、安全な寝床と温かい食事があっても、すべての問題が解決するわけではなかった。
「見張りをどうする?」
夕食後、委員長が尋ねた。
日は沈み、森は完全な暗闇に包まれている。
焚き火の光が届く範囲しか見えない。
昼間には鳥に似た声や葉の擦れる音が聞こえていたが、夜になると音の種類が変わった。
低い唸り声。
重いものが地面を踏む音。
甲高く短い鳴き声。
どれも遠くから聞こえる。
しかし、それが安全を意味する保証はない。
「三組に分けて、二人ずつ見張る?」
高橋が提案した。
「夜を三等分か」
「一人だと、眠ったときに気づけない。二人は必要だと思う」
「俺も賛成」
委員長は夜の時間を三つに分けた。
一番目が吉見と高橋。
二番目が巧と中川。
三番目が委員長と剛ちゃん。
問題は、すぐに明らかになった。
一番目の組は、見張りが終わってから朝まで眠れる。
三番目の組も、夜の前半をまとめて眠ってから起きればよい。
しかし、二番目の組は違う。
最初に少し眠る。
夜中に起きる。
二時間ほど見張る。
そのあと、もう一度眠る。
「眠れないな」
見張りを終えて簡易小屋へ戻った巧が言った。
身体は疲れている。
だが、暗い森を警戒し続けたため、神経が高ぶっていた。
毛布へ入って目を閉じても、わずかな物音が気になる。
「俺も無理だ」
隣で横になった中川が答える。
「あと二時間くらいで朝だろ。今から寝たら、余計に起きられない気がする」
二人は、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
教室へ帰還したあと、委員長班はすぐに反省会を開いた。
「三交代は駄目だ」
巧が断言した。
「二番目の組の睡眠が分断される。見張りのあと、もう一度眠るのも難しい」
「では、二交代にする」
委員長は、ホワイトボードへ新しい案を書いた。
前半三人。
後半三人。
見張り時間は長くなるが、残る三人は連続して眠れる。
前半組は見張りを終えたあと、朝まで眠る。
後半組も、見張りへ入る前に数時間まとめて休める。
「二交代が最適だと思う」
「見張りが三人いれば、一人が少し休んでも残り二人で対応できる」
「食事の時間もずらそう。後半組は先に寝る」
「毎回同じ組が後半だと負担が偏る。日ごとに交代する」
たった一晩で、課題がいくつも見つかった。
それこそが訓練の目的だった。
◇
次は、二夜連続の野営訓練になった。
教室から離れ、二日かけて進み、三日目に帰還する。
本番と同じ日程である。
二交代の見張りは、三交代よりうまくいった。
簡易小屋も問題なく使える。
温かい食事も十分にある。
戦闘でも、委員長班の連携は安定していた。
ところが三日目になると、全員の動きが目に見えて鈍くなった。
足が重い。
周囲への注意が散る。
小さな段差でつまずく。
普段なら気づく物音を聞き逃す。
吉見が鹿を発見したが、追跡中に見失った。
高橋は槍を構えるのが遅れ、中川と位置が重なった。
委員長も、帰路を確認するために何度も立ち止まった。
「二交代でも、疲労は残るな」
休憩中、委員長が言った。
「見張りそのものより、眠りが浅いんだと思う」
巧は木へ背を預けている。
「安全だと分かっている教室と違って、物音がするたびに目が覚める。簡易小屋があっても、壁一枚の向こうは森だから」
「慣れるしかないか」
「眠る訓練が必要だな」
「眠ることまで訓練するのか?」
「このまま遠征したら、街を見つける頃には全員へとへとになる」
剛ちゃんが、疲れ切った班員を見回した。
「ヒールを試していい?」
「怪我人はいないぞ」
委員長が答える。
「怪我だけに効くとは限らない。疲れが取れるようにイメージしてみる」
「説明では、身体の損傷を治療する魔法だったはずだ」
「筋肉痛も、身体の小さな損傷だよね」
理屈としては間違っていない。
剛ちゃんは委員長へ手を向けた。
「どうして俺から?」
「一番疲れてそうだから」
淡い光が委員長を包む。
傷を塞ぐときより弱く、温かな光だった。
「どう?」
委員長は肩を回した。
「少し軽くなった気がする」
「気のせいじゃない?」
吉見が尋ねる。
「もう一度やってくれ」
剛ちゃんは、今度は疲労そのものが薄れるよう意識した。
委員長の強張っていた表情が、わずかに和らぐ。
「効いている。完全ではないが、確かに楽になった」
「委員長だから効いたんじゃない?」
「どういう意味だ?」
「何でもない」
剛ちゃんは、残る班員にも同じヒールを使った。
疲れが消えるわけではない。
睡眠不足も治らない。
それでも、筋肉の張りや身体に残った重さが少し軽くなる。
「使えるな」
巧が評価した。
「遠征中は、夜と出発前に一回ずつ。ただし、ヒールに頼って睡眠時間を削るのは禁止」
委員長は新しい規則を加えた。
「ヒールは休息の代わりではない。疲労を少し補うものとして使う」
怪我を治す魔法にも、使い手のイメージによって応用の余地がある。
それは遠征技術だけでなく、魔法研究にとっても大きな発見だった。
◇
転移から二週間目。
委員長班は、ついに現地人との遭遇を目指して出発した。
目標は、巧が何度か目撃した煙の方向。
これまでの探索で、途中までの地形は分かっている。
完全な直線では進めないが、谷や湿地を避ける経路も用意した。
日程は二泊三日。
現地人の集落か街を発見しても、全員では接触しない。
まず遠くから観察し、その後の行動を決める。
委員長班の六人は、全員がレベル七へ届いていた。
一レベル上がるごとに、得られるポイントは五。
レベル七なら、初期状態から三十ポイントが追加されている。
初期ステータスの合計は、およそ百。
単純計算なら、身体能力を三割近く上げられる量である。
実際には、ポイントの一部を能力へ振り、一部を将来のスキル取得に残している者もいる。
それでも、転移初日と比べれば身体能力は明らかに向上していた。
委員長は、強装備を身につけたまま長距離を歩ける。
高橋と中川も、槍を持って一日移動してなお戦える。
吉見は、剣の間合いを身体で理解し始めている。
剛ちゃんは、戦闘中に味方の位置を見ながらヒールを使える。
巧は足が速く、森の中でも姿勢を崩さない。
スキルのレベルそのものは、まだ上がっていない。
それでも使い方の経験は、転移初日とは比べものにならなかった。
「行ってくる」
委員長が、作業場へ集まったクラスメイトへ告げる。
「三日目の日没までには帰る。遅れる場合でも、四日目の昼までには必ず戻る」
「無理はしないでね」
花ちゃんが言う。
「街を見つけても、いきなり全員で入ろうとしないこと。相手が友好的とは限らないから」
「分かっている」
「委員長は、分かっていても責任を感じると無理をするから」
「今回は、巧の判断を優先する」
巧が笑う。
「任された」
六人は森へ入った。
◇
一日目は、これまでに確認した地域を進んだ。
途中で犬型の魔物に遭遇したが、戦闘は短時間で終わった。
委員長が盾で受け止め、高橋と中川が槍で動きを封じ、吉見がとどめを刺す。
剛ちゃんがヒールを使う必要すらなかった。
「委員長、怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「強服に爪が当たっただけだ」
「少しくらい痛くない?」
「MPを温存しろ」
夕方、予定していた野営地へ到着した。
簡易小屋を組み立てる。
食事を出す。
前半と後半に分かれて見張る。
訓練と同じ手順だった。
違うのは、明日進む場所が、誰も足を踏み入れたことのない森だということだけである。
二日目。
日の出とともに出発した。
地面は次第に歩きやすくなった。
魔物の足跡に混じり、明らかに靴を履いた人間の跡が見つかる。
切り落とされた枝。
古い焚き火の跡。
荷車の轍らしい二本の溝。
「近いな」
巧が言った。
「人の活動範囲に入ってる」
森の密度も薄くなっていく。
午前中。
木々の間から、灰色の壁が見えた。
最初は岩山かと思った。
しかし上端が不自然なほど水平で、一定間隔に四角い塔が立っている。
「委員長」
巧が足を止めた。
「あれ、城壁だ」
六人は声を失った。
森を抜けた先に、広い草地がある。
その向こうに、高い城壁が延びていた。
壁の内側から、いくつもの煙が上がっている。
尖った屋根。
高い塔。
人の行き交う姿。
城壁の正面には大きな門が開き、荷車が出入りしていた。
「集落どころじゃないな」
高橋が言った。
「城塞都市か?」
「城壁があるからといって、常に戦争をしているとは限らない」
巧は、遠くの門を観察する。
「でも、人が大勢いることは間違いない」
委員長は、城壁と森の距離を確認した。
このまま六人で近づくべきか。
装備の整った若者が集団で現れれば、警戒される可能性がある。
言葉が通じる保証もない。
身分証を求められるかもしれない。
通行手形が必要かもしれない。
最悪の場合、拘束される。
「俺が一人で行く」
巧が言った。
「一人では危険だ」
「全員で行く方が危険だよ。俺一人なら、何かあっても逃げられる」
巧は班の中で、最もAGIが高い。
さらに身体強化、精神、自然回復、視力強化を持っている。
戦闘向きではないが、逃げることに徹すれば捕まりにくい。
そして何より、巧には数値に表れない能力があった。
相手の警戒を解く。
話を聞き出す。
自分がどの程度まで踏み込んでよいかを、相手の表情と声から判断する。
担任、後輩、店員、近所の老人。
誰を相手にしても、巧は自然に会話へ入れる。
尋常ではない対人能力。
クラスで渉外を任されてきた理由だった。
「俺が昼過ぎまでに戻らなかったら、ここを離れて森の野営地へ移動してくれ」
巧は委員長へ地図を渡す。
「夕方までに戻らなければ?」
「明日の朝まで待つ。それでも戻らなければ教室へ帰って、拓斗たちに報告」
「救出に向かうべきでは?」
「街の中で何が起きたか分からないのに、五人で入っても全員捕まるだけかもしれない」
委員長は反論できなかった。
不測の事態からの脱出を考えれば、最もAGIの高い巧が単独で入る。
当然の結論だった。
「無理はするな」
「買い物をして、少し話を聞くだけだよ」
「その少しで済ませないのが巧だろ」
巧は笑い、城門へ向かった。
◇
身分証。
通行手形。
入市税。
荷物検査。
いくつもの可能性を考えながら、巧は門へ近づいた。
しかし、何も起きなかった。
門は開いている。
荷車が通る。
旅人が歩いて入る。
壁の脇に詰め所はあるが、門番は表へ出ていない。
誰も巧を止めない。
「街が常に緊張しているわけじゃないものな」
城壁があるからといって、平時からすべての人間を検査するとは限らない。
人と物の出入りが多い街なら、毎回確認していては商売にならない。
巧は、周囲の旅人と同じ速度で門をくぐった。
異世界で初めての街だった。
石畳の道。
木と石で造られた建物。
荷車。
露店。
武器を持った冒険者。
頭部に獣の耳がある者も歩いている。
言葉は理解できた。
文字も、看板を意識して見れば意味が頭へ入る。
巧は、まず大通りを歩いた。
冒険者組合は、すぐに見つかった。
大きな剣と盾を組み合わせた看板があり、武装した者たちが頻繁に出入りしている。
その先には商工組合があった。
名称から小さな業界団体を想像したが、実態は違う。
商業。
工業。
宿屋。
鉱業。
運送。
飲食。
風俗。
不動産。
農業を除く、街のほとんどの産業を統括している。
農業だけは領主の直接管理だった。
土地と収穫量が納税へ直結するため、商工組合を通さないらしい。
それ以外の税は、商工組合を介して徴収される。
商人の団体というより、役所と業界団体と金融機関を一つにしたような組織だった。
商工組合の力は絶大である。
しかし、今必要なのは政治制度の研究ではない。
買い物と情報収集だった。
◇
巧は最初に、金貨一枚を両替した。
その威力を、すぐに理解した。
本当に百万円ほどの価値がある。
小金貨十枚。
大銀貨百枚。
小銀貨千枚。
銅貨一万枚。
夕食は銅貨七枚。
安い宿なら一泊小銀貨二枚。
少し上等な宿でも小銀貨五枚。
金貨一枚あれば、一人ならかなり長く暮らせる。
ただし三十九人分となれば、話は変わる。
全員が安宿へ泊まるだけで、一晩小銀貨七十八枚。毎日宿泊すれば、初期資金は急速に減っていく。
巧は大銀貨一枚を小銀貨と銅貨へ崩し、残りを分けて隠した。
マジックボックスの存在は見せない。
店へ入る前に必要な硬貨だけを、冒険者セットのショルダーバッグへ移す。
品物を買ったら、人目のない場所へ入る。
そこでマジックボックスへ収納する。
何度も繰り返した。
布は一軒で大量に買わなかった。
六店舗に分け、それぞれ少量ずつ買う。
麻布。
厚手の布。
肌着に使えそうな柔らかい布。
丈夫な糸。
縫い針。
一軒目は、客の服装を見て値段を変えようとする。
二軒目は、品質は悪いが安い。
三軒目の主人は無口だが、商品の説明は正確。
四軒目は、少量の客にも丁寧。
五軒目は、値引きに応じる代わりに不良品を混ぜる。
六軒目は、冒険者向けの丈夫な布に強い。
布を買うだけで、相場と商人の性格が分かった。
紙もあった。
白く滑らかな上等紙。
少し黄ばんだ一般的な紙。
包装や帳簿に使う粗紙。
インク。
羽根ペン。
そして、本。
書店へ入った巧は、棚に並ぶ書籍を見て足を止めた。
地理。
魔物。
薬草。
迷宮。
歴史。
法律。
知りたいことが、いくらでもある。
すべて買うわけにはいかない。
まず初等教本、街の簡単な地図、周辺魔物の図鑑を選んだ。
教室へ帰れば、拓斗や春樹、オタクトリオが内容を調べる。
紙と書籍の存在だけでも、大きな成果だった。
◇
武器屋には、短剣、剣、槍、盾、防具が並んでいた。
使い古された廉価品なら、小銀貨一枚前後。
実用的な新品は大銀貨数枚。
良武器と呼ばれる高級品は、金貨一枚ほどだった。
「ぼったくりではなかったのか」
キャラクター作成時、良武器は一ポイントで選べた。
一ポイントを金貨一枚へ交換できたことを考えれば、価格は現地相場と一致している。
良服を金貨一枚、強服を金貨十枚と判断したお嬢の金銭感覚も、半分は正しかった。
高価ではあるが、性能を考えれば不当な価格ではない。
「これより上の武器はありますか?」
巧は店主へ尋ねた。
「これより上?」
「良武器より高性能なものです」
「あるにはあるが、店へ並べる品じゃない。名工への注文か、迷宮で見つかる宝だ。領主や高位冒険者が手放すとも思えん」
「金貨十枚ほど出せば?」
「金だけで買えるなら苦労しない」
強武器は、一般の店では売られていない。
拓斗や委員長たちが持つ装備は、現地では金額をつけにくい希少品である可能性が高い。
安易に見せてはいけない。
巧は鍛冶場から上がる強い火を見た。
「あれも魔石を使っているんですか?」
「ああ。剣を一本打つなら、小型魔石を一個は使う」
「一個全部?」
「安定した高温を長く保つ必要があるからな。薪や炭だけでは手間がかかる」
小型魔石の買い取り価格は大銀貨二枚。
二万円相当。
剣一本につき、それだけの燃料費がかかる。
武器が高価なのは、職人の技術だけが理由ではなかった。
◇
魔道具店には、魔石を利用した製品が並んでいた。
照明。
冷蔵庫。
小型の炉。
コンロ。
オーブン。
風呂釜。
巧は店員へ質問し、魔石の働きを確認した。
魔石が示す性質は三つ。
発光。
発熱。
冷却。
魔石を複雑な機械の動力として使う方法は、まだ発見されていない。
回転運動を生み出すわけでも、荷車を自動で走らせるわけでもない。
単純に光り、熱を出し、物を冷やす。
それを用途に合わせて加工し、魔道具へ組み込むのが錬金術師の仕事だった。
小型魔石を一般家庭の照明へ使えば、約十年。
冷蔵庫なら、約五年。
発光と冷却の魔道具は維持費が安く、一般家庭にも普及している。
一方、発熱は消費が激しい。
台所のコンロやオーブンへ使えば、約一年。
風呂を毎日沸かせば、約三か月。
料理用の火力としては高価なため、一般家庭では薪や炭が主流だった。魔石式は宿屋、食堂、裕福な家庭で使われる。
浴槽へ湯を張る生活ができるのは、主に上級階級。
一般家庭では、必要な量だけ湯を使うシャワーが普通だった。
巧は、コンロとオーブンが一体化した小型の調理器具を購入した。
側面へ加工済み魔石を差し込む交換式。
火力調節もできる。
高価な買い物だが、三十九人分の料理を作るなら、拠点に一台は必要になる。
何より、オタクトリオが見れば必ず分解したがる。
壊される可能性まで考え、店員から簡単な取扱説明書も受け取った。
魔石は、杖へ組み込むこともできる。
杖に仕込んだ魔石は、魔法の威力を直接高めるのではなく、発動の精度を向上させる。
木魔法で飛ばす矢なら、狙いが安定する。
風魔法なら、遠くの音を集める範囲を絞り込み、矢を導く風道の精度も上げられる。
視認できる標的であれば、熟練者は二キロ先のウサギさえ狙えるという。
「二キロ先?」
巧は聞き返した。
「当てられる者は少ないけどな。目で見えなければ、狙いようがない」
視力強化。
木魔法。
風魔法。
魔石を仕込んだ杖。
それらを組み合わせれば、現地人が想定する以上の遠距離攻撃が成立するかもしれない。
巧は、その情報も覚えておくことにした。
◇
この街では、水道事情も元の世界と大きく異なっていた。
各家庭には水を蓄えるタンクがある。
一度満たせば、一般的な家庭なら二週間ほど使える。
水が減ると、給水屋を呼ぶ。
水魔法を使える給水屋が家庭を回り、一回小銀貨一枚でタンクを満たす。
一日二十軒を回れば、小銀貨二十枚。
二万円ほどの売上になる。
水魔法は、戦闘で敵を倒すための魔法ではない。
しかし街で暮らす限り、需要がなくならない。
転移者の中にも水魔法を持つ者がいる。
迷宮へ入らなくても、魔法で金を稼ぐ道があることになる。
◇
冒険者組合では、身分証の作り方、迷宮への入場条件、魔物素材の相場を確認した。
冒険者登録には、厳密な身元保証が必要ない。
氏名、年齢、出身地、得意分野を申告し、登録料を払う。
登録証は、街で身分証として使える。
迷宮への入場は、冒険者登録を済ませれば自由。
魔物の肉、皮、牙、角も買い取られる。
肉は鮮度が重要だが、時間停止機能を持つマジックボックスなら、新鮮なまま運べる。
ただし、その能力を知られれば目立つ。
売却時には、討伐時間を不自然に見せない工夫が必要だった。
巧は、花ちゃん班が牛型魔物から得た小型魔石を一個だけ預かっていた。
「これの買い取りをお願いします」
窓口の職員は慣れた手つきで大きさと色を確認し、重さを量った。
「大銀貨二枚です」
事前に店で確認した相場と同じだった。
「この辺りでは、一日にどれくらい採れるものですか?」
「狩り場と腕次第ですね。六人組で一日に二個取れれば、悪くありません」
「街の南東にある森は?」
「あそこは魔物が少ないですよ。安全ですが、狩り場としては実入りが悪い」
教室のある森林だった。
花ちゃん、聖女、忍、ビキニたちのように、強力な索敵能力と戦闘力を持つ六人でも、一日に得られる小型魔石は二個程度。
売却額は大銀貨四枚。
四万円相当。
高校生にとっては大金に見える。
だが六人で分ければ一人当たりは小さく、危険と移動時間も考えれば、決しておいしい狩り場ではない。
迷宮へ入る理由が、ここにもあった。
◇
冒険者組合の酒場で、巧は昼食を取った。
銅貨七枚。
パン。
肉と野菜の煮込み。
薄い酒。
味は悪くない。
教室で作る料理より調味料が多く、パンがあるだけで文明的に感じる。
隣の席にいた冒険者へ話しかけ、街と迷宮について聞いた。
「ここは、どれくらいの人が住んでいるんですか?」
「二万くらいじゃないか。出入りが多いから、正確には誰も知らん」
「冒険者は?」
「千人前後。迷宮があるからな」
人口の約五パーセントが冒険者。
想像以上に多い。
「迷宮は、この街の近くにあるんですか?」
「近くも何も、街の中だ」
冒険者は当然のように答えた。
迷宮の入口を囲むように街が発展し、その周囲へ城壁が築かれた。
ここは城塞都市であると同時に、迷宮都市だった。
巧は言葉を失いかけた。
創造主は、ボスAを倒させるために自分たちを転移させた。
転移地点から最も近い街が、目的の迷宮を抱えている。
分かりやすい。
あまりにも分かりやすい。
「最寄りの街を、そのまま目的地にするのか」
ゲームマスターとして手抜きではないか。
そう思う一方で、森の中へ放り出された高校生にとっては、これでも十分に難しい。
道も案内もなく、三十キロ離れた城壁を見つけるまで二週間かかっている。
「迷宮に入る冒険者は、どれくらいのレベルなんですか?」
「十台から二十台が多い。二十を超えれば一人前だ」
「三十台は?」
「この街に五十人もいないんじゃないか。三十を超えれば、もっと実入りのいい迷宮や大森林へ行くやつが多い」
「レベル四十は?」
冒険者は笑った。
「そんな化け物が、ここに何の用がある?」
この街に、レベル四十台の冒険者はいない。
大半がレベル二十前後。
三十台が五十人ほど。
上級者は、より危険で実入りのよい場所へ移っていく。
結果として、この迷宮を攻略できる者が育たない。
創造主の言っていた、世界が安定し過ぎてボスAを倒す者が現れないという説明に一致する。
目的の迷宮は、ここで間違いなかった。
◇
夕方までに、巧は必要な情報をほぼ集め終えた。
最後に宿屋を回る。
安さだけでは選ばない。
大人数の利用に対応できるか。
武装した客を嫌がらないか。
長期滞在の相談ができるか。
荷物を預けられるか。
主人や支配人が、客の事情へ必要以上に干渉しないか。
何軒か見たあと、城門と冒険者組合の中間にある宿へ入った。
中級程度の宿だった。
清潔だが、上品過ぎない。
一階に食堂があり、冒険者も利用している。
支配人は四十代ほどの女性だった。
巧の服装と荷物を一度見ただけで、旅慣れていないことを見抜いた。
「初めてこの街へ来たの?」
「分かりますか?」
「門から入ってきた人は、最初にそっちを何度も振り返るからね」
「仲間が何人かいます。今後、冒険者登録に来るかもしれません」
「何人?」
「最初は五人か十人。最終的には、もう少し増えると思います」
「全員を一度に泊めるのは無理だけど、事前に言ってくれれば部屋を調整するよ」
支配人は、事情を根掘り葉掘り尋ねなかった。
料金も相場どおり。
食事だけの利用もできる。
荷物の一時預かりにも応じる。
巧は、その宿を覚えておくことにした。
いずれクラスが迷宮都市へ進出するとき、最初の橋頭保になる。
なじみの宿にする価値があった。
◇
日が傾く前に、巧は街を出た。
門では、やはり誰にも止められなかった。
森へ入り、人目がなくなったところでマジックボックスを開く。
布。
紙。
筆記用具。
針と糸。
塩。
香辛料。
調理器具。
コンロとオーブンが一体になった魔道調理器具。
初等教本。
街の地図。
周辺魔物の図鑑。
一日で集めた品物と情報は多い。
巧は足を速めた。
野営地へ戻ると、委員長たちは簡易小屋を組み立て、二泊目の準備を終えていた。
「巧!」
最初に駆け寄ってきたのは委員長だった。
「無事か?」
「見てのとおり」
「問題はなかった?」
「むしろ、問題がなさ過ぎた。門番すらいなかった」
巧は椅子へ座り、買ってきた紙の束をテーブルへ置いた。
五人の視線が紙へ集まる。
「紙だ」
高橋が言った。
「本物の紙だな」
中川が触れる。
「本もある」
「布も買った。針と糸、塩、香辛料、大きめの鍋。それから魔石式の調理器具も一台」
「よく一人で、そこまで調べたな」
委員長は呆れている。
「大切なのは品物より情報だよ」
巧は、今日確認したことを順番に報告した。
冒険者組合。
商工組合。
身分証。
宿泊費。
魔石と魔物素材の買い取り。
武器、防具、調理器具の価格。
水道と給水屋。
紙、布、針、糸、塩、調味料。
迷宮への入場条件。
都市周辺の魔物。
冒険者の平均レベル。
そして、街の中に存在する迷宮。
「ここが、目的の迷宮都市だと思う」
巧が結論を述べる。
委員長は、城壁の方角を見た。
森の木々に遮られ、ここから街は見えない。
それでも三十キロ先に、自分たちの帰還条件となるボスAがいる。
「ボスを倒せそうな冒険者は?」
「いない。レベル三十台が五十人ほど。四十台は一人もいない」
「俺たちが倒すしかないということか」
「少なくとも、この街の人間が近いうちに倒してくれる可能性は低い」
委員長は、しばらく黙っていた。
絶望したわけではない。
目標が初めて、現実の場所と結びついた。
どこにあるか分からない迷宮。
正体の分からないボス。
それが今、三十キロ先にある。
「帰ろう」
委員長が言った。
「みんなへ報告する。都市へ進出する方法を考えよう」
◇
三日目の朝。
六人は野営地を片づけた。
木製パネルを分解し、マジックボックスへ収納する。
焚き火を消す。
残った灰へ水をかける。
ゴミを回収し、出発する。
帰路は、これまでにつけた目印をたどった。
一度歩いた経路である。
迷いがなく、進む速度は初日より速い。
身体強化された高校生にとって、三十キロは不可能な距離ではなかった。
今は途中で一泊している。
しかし経路を整え、荷物の配分を決め、歩くことに慣れれば、一日で踏破できるようになる。
午後。
森の向こうに、校舎の屋上が見えた。
見張りをしていた生徒が、六人へ気づく。
作業場にいた者たちが集まってくる。
「帰ってきた!」
「街はあった?」
「人はいた?」
「紙を買えた?」
「布は?」
質問が一斉に飛ぶ。
巧は、マジックボックスから紙の束を取り出した。
歓声が上がった。
続いて、布。
針と糸。
塩。
香辛料。
大きな鍋。
書籍。
街の地図。
そして、魔石式の調理器具。
手に入れた品物が、作業場のテーブルへ並べられていく。
最後に委員長が、全員へ告げた。
「街を見つけた」
歓声が少し静まる。
「人口は約二万人。冒険者が千人ほど滞在している。街の中に迷宮がある」
拓斗と春樹が顔を見合わせる。
オタクトリオは、すでに調理器具へ手を伸ばしている。
花ちゃんは、委員長の次の言葉を待った。
「目的の迷宮都市で、ほぼ間違いない」
三十九人の世界は、また大きく広がった。
教室と部室棟。
作業場。
農園。
泉。
森。
その先に、城壁で囲まれた迷宮都市が加わった。
生き延びるだけの生活は、ここで終わる。
これからは街と関わり、迷宮へ入り、ボスを倒すための力を手に入れなければならない。
転移から二週間。
三年間の期限に対して、使った時間はわずかだった。
しかし、目的地へたどり着いただけでもある。
委員長は、作業場へ集まったクラスメイトを見回した。
「明日から、迷宮都市へ進出する準備を始める」
森の中に築かれた小さな生活圏に、歓声が響いた。




