第五章 泉と楽園
教室と部室棟は、およそ二十メートル離れている。
建物の外壁から十メートルほどが結界の内側だと判明したため、二つの建物に挟まれた空間は、ほぼ全域が安全圏に含まれていた。
幅二十メートル、長さ四十メートルほど。
体育館よりは狭いが、三十九人が集まって作業するには十分な広さがある。
調理場。
竈。
薪置き場。
食器を洗う場所。
ウサギの肉を焼いた場所。
木材を加工する場所。
用途は日に日に増えているが、誰かが「作業場」と呼び始め、その呼び方が定着した。
少なくとも、当面はそれで困らない。
転移二日目から、クラスメイトの活動はほとんど屋外へ移った。
教室は朝夕の会議と、地図や記録の保管に使う。長時間の相談、班編成、全員へ知らせるべき情報の共有も教室で行う。
それ以外の時間は、皆が作業場か森にいた。
探索へ出る者。
狩りをする者。
薪を拾う者。
料理をする者。
木魔法で家具や道具を作る者。
食用候補の植物を選別する者。
冒険者セットのタオルを洗濯し、木々の間へ渡した蔓に干す者。
初日は異世界へ放り出された三十九人だった。
二日目には、森の中で生活する集団になっていた。
◇
校舎の周囲百メートルほどは、教室や屋上から見渡すことができた。
結界の外ではあるが、昼間なら魔物が接近しても早めに気づける。獰猛な魔物の痕跡も、今のところ発見されていない。
委員長は、この範囲までを当面の生活圏と定めた。
「畑を作ろう」
作業場で開かれた朝の会議で、委員長が言った。
「もう農業を始めるの?」
花ちゃんが尋ねる。
「すぐに収穫できるとは思っていない。ただ、見つけた植物を全部採って食べていたら、いずれなくなる。食用だと確認できたものは、少しずつ移植するべきだ」
和樹が毒見を終えた野菜。
山ちゃんが見つけた薬草候補。
食べられるが、あまりうまくない洋梨に似た果実。
探索班が持ち帰った植物の中には、根がついたままのものや、種を採取できるものもあった。
「果樹も近くへ移せないかな」
春樹が言う。
「木魔法なら、小さい木を根ごと動かせるかもしれない」
オタクトリオが顔を見合わせた。
「できなくはない」
大輔が答える。
「ただし、いきなり大きな木を動かすのは無理だ。若木から試す」
「味の悪い果物を増やすの?」
「今あるのは非常食だ」
委員長は真剣に答えた。
「もっと甘くてうまい果物が見つかったら、そちらを増やす。それまでは、食べられるだけで価値がある」
教室から少し離れた、日当たりのよい場所が農園予定地になった。
まだ畑と呼べるものではない。
草を刈り、石を拾い、木の根を取り除く。採ってきた植物を種類ごとに植え、木の板へ簡単な説明を書く。
食用確認済み。
毒性なし。ただし苦い。
加熱推奨。
根を食べる。
実に辛味あり。
用途不明。
毒性あり。触るな。
異世界の農園というより、野草の実験場だった。
「食べられないものまで植えるの?」
佐藤さんが、毒性ありと書かれた赤い実を見る。
「毒にも使い道がある」
和樹が答える。
「伊沢君が言うと、自分で食べるために育てているように聞こえる」
「俺だって、一度毒だと分かったものを二度も食わない」
「一度は食べるのね」
鈴木さんの指摘に、和樹は答えなかった。
◇
泉の整備は、畑作りより大がかりになった。
「この下に水がある」
山ちゃんが示したのは、教室から百メートルほど離れた緩斜面だった。
周囲より地面が湿り、苔と水を好む植物が集まっている。
見た目には、ただのぬかるみである。
「本当に掘れば出るの?」
花ちゃんが尋ねた。
「出る。ここに湧いていない方がおかしい」
説明になっているようで、なっていない。
しかし、山ちゃんは岩塩を見つけた。
獣道を読み、帰路の目印をつけ、狩りと解体を指導した。
すでに誰も、山ちゃんの判断を疑わなくなっていた。
土を掘る。
木魔法で根を避ける。
水が染み出したら、濁った水と泥をくみ出す。
作業を繰り返すと、穴の底から透明な水が湧き始めた。
「本当に出た」
「だから言っただろ」
水量は予想より多かった。
くみ出しても、すぐに溜まる。
オタクトリオは、湧水をそのまま大きな穴へ溜めず、木板で流路を作った。
「上流を飲み水と食材用にする」
大輔が木板へ用途を書き込む。
「少し下へ水浴び場。その下を道具の洗浄場所にする」
「解体場は?」
「さらに下流。血や汚れが水浴び場へ戻らないよう、排水路を分ける」
「洗濯はどこ?」
「水浴び場と解体場の間。洗剤がないから、今は水洗いだけだ」
「水魔法の練習場所も欲しい」
「下流側に作る。失敗しても、ほかの場所を水浸しにしないところ」
泉を中心に、いくつもの水場が並んだ。
飲料水は教室の水道から得られる。
部室棟にはシャワーもある。
それでも、屋外に大量の水を使える場所があることは大きかった。
調理器具を洗える。
解体に使ったナイフや木台を洗える。
洗濯ができる。
畑へ水を運べる。
火災が起きたときの備えにもなる。
水魔法を持つ者は、自分の生み出せる水量を気にせず試せる。
中央の水浴び場は、男子たちの要望によって広めに作られた。
木板で底を整え、縁へ座れるようにする。温泉ではないが、肩まで浸かれる深さがある。
「水浴びはロマンだよね」
建設理由を聞かれ、和樹はそう答えた。
「シャワーがあるのに?」
「シャワーは一人ずつだろ。こっちは何人か一緒に入れる」
「男子だけで入りたいの?」
「そういうわけじゃないけど」
その発言を聞いていた女子たちが、冷たい視線を向ける。
「そういう意味じゃない」
和樹は繰り返した。
女子用の時間帯も作られた。
目隠しは、木の柱へ大きな葉と布を張っただけの、かなり大ざっぱなものだった。
場所によっては隙間がある。少し高いところへ登れば、中が見えてしまう可能性もある。
そのため、女子の利用時間は、男子が水浴び場へ近づかないことになった。
違反者には、女子全員からの信用を失うという、刑罰より重い結果が待っている。
男子生徒はモラルを守った。
覗き見をする者は一人もいなかった。
ただし、百メートルほど先で女子が水浴びをしていると考え、作業に集中できなくなる者はいた。
「手が止まってるぞ」
「止まってない」
「さっきから同じ木を削ってないか?」
「これは精密作業なんだ」
「女子の声が聞こえるたびに顔を上げる精密作業?」
「事故が起きてないか警戒している」
「春樹の風魔法を使えば、声もよく聞こえるんじゃないか?」
「それをやったら、覗くより悪質だろ」
最後の一線だけは、誰も越えなかった。
男子の期待とは裏腹に、女子全員が利用したわけでもない。
水浴び場を使ったのは、女子の三分の一ほどだった。
冷たい水。
大ざっぱな目隠し。
虫のいる森。
それらを気にする者は、部室棟のシャワーを選んだ。
一方、水浴び場を気に入った女子たちは、男子が思っていた以上に堂々としていた。
◇
水浴びを終えたビキニが、部室棟へ向かって歩いてきた。
上半身には何も着ていないように見える。
腰には細い布を巻いていた。
お嬢が目を見開く。
「あなた、何で裸で歩いていますの!」
「裸ではない」
ビキニは立ち止まった。
「ちゃんとパンツをはいている。私はTPOを心得ている」
「パンツって、そのふんどしみたいなもの?」
「そう」
「どうやって作ったの?」
「冒険者セットの替えの下着を切って、結びやすくした」
「いや、パンツだけはいても裸ですから!」
「強服を装備すれば、すぐにビキニアーマーになる」
「なる前に服を着なさい!」
ビキニは不思議そうにお嬢を見た。
お嬢も、水浴びを終えたばかりだった。
身体を拭いたあと、冒険者セットの白いシャツだけを急いで羽織っている。濡れた髪から落ちる水でシャツが肌に張りつき、本人が思っているほど万全な格好ではない。
「お嬢も、人のこと言えないと思う」
忍が冷静に指摘した。
「私はシャツを着ていますわ!」
「下は?」
お嬢が黙る。
「部室棟まで近いから、少しくらい平気だと思ったのでしょう」
「あなたは、どちらの味方ですの?」
「事実の味方」
ビキニは話が終わったと判断し、再び歩き始めた。
「だから、その格好で歩かないで!」
お嬢の声が作業場まで響く。
近くにいた男子たちは、全員が建物と反対の方向を見た。
何も見ていない。
聞いてもいない。
それが、この拠点で平和に暮らすための正しい態度だった。
◇
転移から五日目。
朝から空が暗かった。
山ちゃんは、空気の湿り気と雲の流れを見て、雨が降ると言った。
昼前には、予告どおり大粒の雨が落ちてきた。
最初は皆、教室と部室棟へ駆け込んだ。
しかし、すぐに問題が起きた。
二つの建物は二十メートル離れている。
教室で会議をしたあと、寝床のある部室棟へ戻るには、雨の中を走らなければならない。
調理場には簡単な屋根があるが、作業場の大部分はむき出しである。
せっかく作った踏み板の周囲も、雨水でぬかるみ始めた。
「今日、何曜日だ?」
教室の窓から雨を見ていた春樹が尋ねた。
「転移したのが火曜日だったから、五日目なら土曜日」
花ちゃんが答える。
「じゃあ、今日は休みにしない?」
「異世界で曜日を守る必要ある?」
「必要はなくても、守った方がいいと思う。何日たったか分からなくなったら、生活が崩れる」
委員長は少し考えた。
「土曜日と日曜日を休日にしよう」
教室にいた全員が委員長を見る。
「休日といっても、何もするなという意味ではない。狩りへ行きたい者は行っていい。工作をしたい者も、訓練したい者も自由だ。ただし、全体で決めた探索や作業は行わない」
「休みなのに働いてもいいの?」
「趣味ならいい」
「狩りが趣味になるの?」
「なる人もいるんじゃない?」
全員の視線が山ちゃんへ向いた。
「俺を見るな」
休日制度の目的は、身体を休めることだけではなかった。
月曜日から金曜日。
土曜日と日曜日。
その区切りを守ることで、元の世界から続く時間の感覚を失わないようにする。
曜日がある。
休日がある。
次の土曜日が来る。
それだけで、終わりの見えない異世界生活に一週間という単位が生まれた。
「では、今日は休みだ」
委員長が宣言した。
その直後、オタクトリオが立ち上がった。
「渡り廊下を作るぞ」
「休みじゃなかったの?」
「これは趣味だ」
三人にとって、木魔法を使った建築は娯楽になり始めていた。
◇
教室と部室棟の間に、木製の渡り廊下が造られた。
両側を壁で塞ぐ必要はない。
雨を防ぐ屋根があり、水の流れ道より少し高い床があればよい。
均一な太さへ加工した柱を立て、梁を渡す。薄く切った木板を重ね、雨が流れる角度をつけて屋根にする。
木魔法があっても、一瞬で完成するわけではない。
寸法を測る。
形を決める。
部品を作る。
組み立てる。
失敗すれば外し、作り直す。
それでも、のこぎりも釘もない状態で造ることを考えれば、驚くほど速かった。
翌日の日曜日には、作業場の木床化も始まった。
「全部を一度に造るのは無理だ」
大輔が説明する。
「まず、調理場と竈の周辺。それから教室と部室棟の出入口をつなぐ。毎週少しずつ広げる」
「ウッドデッキみたい」
「最終的にはそうなる」
地面へ低い土台を組み、その上へ木板を並べる。
雨水は床下を流れる。
足元がぬかるまず、鍋や食器を地面へ直接置かずに済む。
子供が見れば、秘密基地と呼ぶだろう。
大人が見れば、設備の整ったキャンプ場に見えるかもしれない。
「校舎の屋根も使えないかな」
雄介が言った。
「あそこからなら、周辺を見渡せる」
「階段がない」
「作ればいい」
三人は、校舎の外壁に沿って木製の階段を組んだ。
転落防止の手すりをつけ、雨で滑らないよう踏み板へ溝を入れる。
屋上には柵を設けた。
面積の三分の一ほどへ屋根をかけ、木製の椅子、テーブル、長椅子を置く。
残りは空を見上げられる開放部分として残した。
「何に使うの?」
「見張り台」
大輔が答える。
「本音は?」
「オープンテラス」
「見張りは?」
「ついでにできる」
雨上がりの午後、何人もの生徒が屋上へ上がった。
森を渡る風が気持ちよい。
教室の窓から見るより、はるか遠くまで見渡せる。
椅子へ座って話す者。
長椅子へ寝転がる者。
柵にもたれ、森を眺める者。
屋根の下では、温かい飲み物を作れないかという相談まで始まっている。
異世界に取り残された者たちの拠点とは思えない。
傍から見れば、楽しそうなサバイバル生活だった。
◇
土曜日の夕食には、少し特別な料理を作ることになった。
発案者は委員長だった。
「休日の夕食は、毎週同じ料理にしよう」
「どうして?」
「曜日を忘れないためだ。土曜日にこれを食べれば、一週間が終わったと実感できる」
「海上自衛隊みたいだな」
「違う」
委員長は即座に否定した。
「これは俺の発案だ」
誰かから着想を得たようにしか聞こえないが、委員長がそう主張するなら、そういうことになった。
食用確認済みの野菜を細かく切る。
鍋で長時間煮る。
柔らかくなったところで木べらを使い、形がなくなるまで潰す。
そこへ岩塩、胡椒に似た木の実、生姜に似た根を加える。
野菜のペーストが、濃い色のソースになった。
最後に、ブロック状へ切った赤身肉を入れて煮込む。
「ビーフシチューもどきだ」
委員長が完成品を発表した。
「牛肉なの?」
「牛に似た魔物の肉が少しある」
「五百キロを超えた牛は消えたよね?」
「これは、それより小さい牛だ」
「じゃあ、ビーフでいいの?」
「家畜化されたものを牛と呼ぶなら、森にいるものは牛型魔物だ。でも、名前まで厳密にすると食事がまずくなる」
「ウサギ型魔物の肉も入ってるよ」
「では、異世界シチューだ」
「ビーフシチューもどきでいいんじゃない?」
最終的に、ビーフシチューもどきという名前が残った。
冒険者セットの小さな鍋をいくつも竈へ並べ、同じ料理を作る。
紙のレシピはない。
木板へ材料と手順を書き、各鍋の担当者が味を調整する。
完成した料理は、見た目だけなら立派なシチューだった。
小麦粉も乳製品もない。
市販の調味料もない。
それでも、野菜の甘味と肉の脂、岩塩と香辛料が混ざり、濃厚な味になっていた。
「うまい」
「昨日までの焼き肉より料理っぽい」
「パンが欲しい」
「米でもいい」
「来週までに見つけよう」
来週も作る。
その言葉が、自然に交わされた。
全員が、少なくとも来週の土曜日までは生きるつもりでいた。
ビーフシチューもどきは、土曜日の固定メニューになった。
◇
転移から一週間が過ぎた。
作業場には木の床が広がり始めている。
教室と部室棟は、屋根つきの渡り廊下でつながった。
屋上にはオープンテラス。
百メートル先には泉と水浴び場。
そのそばには農園予定地。
調理場、解体場、洗浄場、排水路、水魔法の訓練場所もある。
果樹の若木が何本か移植され、食用植物が列を作って植えられていた。
紙も布も、大きな鍋もない。
塩以外の調味料も乏しい。
夜になれば森から正体不明の鳴き声が聞こえ、結界の外では何が起きてもおかしくない。
それでも、ここはすでに野営地ではなかった。
帰る場所になり始めている。
屋上の長椅子に座り、拓斗は作業場を見下ろした。
誰かが薪を割っている。
誰かが洗濯物を取り込んでいる。
オタクトリオが、次に何を作るか相談している。
水浴びを終えた女子たちが、笑いながら部室棟へ戻っていく。
勇者姿の委員長は、明日の探索予定を花ちゃんと確認している。
「楽園みたいになってきたな」
隣に座った春樹が言った。
「楽園にしては、毎日魔物を殺してるけどな」
「水も食料も寝床もある。週末にはシチューが出る。十分だろ」
「帰りたくなくなるやつが出るぞ」
「もう出てるんじゃないか?」
視線の先では、オタクトリオが屋上の増築について熱弁していた。
拓斗は少しだけ笑った。
そのあと、森の向こうへ目を向ける。
彼女は、今どこにいるのだろう。
この拠点を見つけられるだろうか。
自分はここで待っていて、本当によいのだろうか。
作業場から、委員長の声が飛んできた。
「拓斗、春樹! 明日の探索について相談したい!」
「今行く!」
拓斗は立ち上がった。
今は、目の前の世界を広げるしかない。
森を調べる。
人の痕跡を追う。
街を見つける。
こちらの存在を世界へ知らせる。
そうすれば、彼女へ届く情報も増えていく。
拓斗と春樹は階段を下り、明かりの集まる作業場へ向かった。
校舎と部室棟の間に造られた木の床には、三十九人分の足音が響いている。
森の中へ突然現れた小さな生活圏。
それはまだ名前を持たない。
だが、そこで暮らす者たちにとっては、すでに一つの故郷になり始めていた。




