第四章 三つの道
夜が明けた。
起床時間を決めた者はいない。目覚まし時計も、朝のホームルームもない。今日中に提出しなければならない宿題もなければ、遅刻を記録する教師もいない。
それでも空が白み始めると、部室棟から生徒たちがぞろぞろと起き出した。
水道で顔を洗う。
寝癖を濡らして整える。
昨夜のバーベキューで使った食器を洗い、竈の周りへ残った串や灰を片づける。
誰かに命じられたわけではない。
不文律にもかかわらず、一糸乱れぬ行動だった。
もっとも、全員というわけではない。
三段ベッドの上段で毛布をかぶり、何があっても起きようとしない者もいる。顔を洗う順番を待ちながら、ぼんやり立っている者もいる。昨夜遅くまで話し込んでいたオタクトリオは、三人そろって寝不足の顔をしていた。
こんな非常事態でも、マイペースな者はマイペースであり、寝坊する者は寝坊するらしい。
森の方から、真田忍(忍)と瀧くれは(ビキニ)が戻ってきた。
二人とも軽く汗をかいている。
忍は木から木へ跳び移りながら、枝の強度や身体強化の感覚を確かめてきたという。
ビキニは岩を殴り、蹴り、拳と足の耐久性を確認してきた。
「朝から何をしてるの?」
花ちゃんが尋ねた。
「軽い訓練」
忍が答える。
「岩を殴るのが軽い訓練なの?」
「本気で殴ったら割れるかもしれないから、今日は軽くした」
ビキニの答えに、花ちゃんはそれ以上聞くのをやめた。
反対方向からは、委員長を含む男子五人が戻ってきた。
朝のランニングへ行っていたらしい。
委員長は昨日と同じ勇者姿である。赤いマントをなびかせて森の周囲を走ったことになるが、やはり誰も突っ込まない。
今日が異世界で迎える初めての朝とは思えなかった。
まるで、この生活がずっと続いてきたかのような、日常の一場面だった。
「起きている者は集まってくれ」
委員長が、作業広場の中央で声を上げた。
完全に起きている者。
まだ眠そうな者。
木製歯ブラシを口にくわえている者。
昨日の残りを朝から焼いて食べようとしていた者。
それぞれが委員長の周囲へ集まる。
「朝食は、そこにある果物を一個だ。水は各自、適宜飲んでくれ」
籠代わりの木箱には、昨日見つけた黄緑色の果実が積まれていた。
形は洋梨に似ている。
和樹が毒見を済ませており、食べても死なないことは確認されていた。
ただし、うまくはない。
硬い。
水分は多いが、甘味が薄い。わずかに渋く、後味には青臭さが残る。
「これ、本当に朝ご飯?」
「肉は?」
「昨日のウサギ、まだあるだろ」
そんな声が上がると、委員長は片手を上げた。
「その件について、昨夜考えた」
嫌な予感を覚えた者が何人かいた。
「一万年前の人類を想定すると、おそらく朝食は食べていない」
「いきなり何の話?」
「聞いてくれ」
委員長は真剣だった。
「人類が狩猟と採集で生活していた時代、起きた時点で食事が用意されていたとは考えにくい。朝は果物か、保存の利く野菜を少量食べて行動を開始する。そして獲物を捕らえた夕方、ようやく食事をする。おそらく、一日一食に近い生活だったと思う」
「保存の利く野菜って何?」
「生の大根とか」
「朝から生大根をかじるの?」
「例えだ」
委員長は説明を続けた。
「その証拠に、俺は朝から肉を食べたいと思わない。昨日あれだけうまかったバーベキューも、今は無理だ」
精神スキルを持たない委員長の場合、肉を見て昨日の解体を思い出しているだけかもしれない。
しかし、誰もそれを指摘しなかった。
「まあ、基本は身体が求めるものを食べる、だな。果物が欲しいなら果物。肉が欲しいなら肉。食えるときに、食えるものを食う。ただし、食料には限りがある。朝から全員で肉を焼くのはやめておこう」
「最初から、そう言えばよかったんじゃない?」
花ちゃんの指摘に、委員長は少し黙った。
「明日は、もう少しうまい果物が見つかることを期待する」
何だかよく分からない演説だった。
それでも、校長先生の話よりは面白い。
何より、これは生活指導ではない。
今ここで生きるために必要な話だった。
◇
委員長は、昨日決めた三つの探索班を発表した。
第一班。
委員長、巧、熊川剛士(剛ちゃん)、吉見武志、高橋健三、中川謙太。
目的は、教室から直線方向へ距離を稼ぐこと。途中の地形と危険を記録し、一日で往復できる範囲を広げる。
第二班。
花ちゃん、御琴泡姫、五光聖子(聖女)、三崎彬子(お嬢)、忍、ビキニ。
目的は、岩塩を含む鉱物資源と、大型の獲物の探索。
第三班。
伊沢和樹、山ちゃん、拓斗、春樹、佐藤美穂、鈴木陽子。
目的は、食用植物、水場、岩塩、獣道など、生活に利用できる資源の探索。
「残る者にも課題がある」
委員長は、教室と部室棟を指した。
「結界の範囲を確認する。外周へ目印を置いて、生活圏をはっきりさせる。オタクトリオを中心に、調理場、解体場、薪置き場を整備してほしい」
「畑は?」
「食べられる植物が見つかったら始める。先に候補地を決めて、石と根を取り除いておこう」
「鍋が小さ過ぎる」
「それも課題だ。今は全員の鍋を集めて使う。もっと大きな調理器具が必要だが、森で作れるかは分からない」
「紙と布も欲しい」
「紙が手に入るまでは、薄い木板を作って炭で記録する。布は冒険者セットに入っていた服とタオルを大切に使う。作れなければ、どこかで調達するしかない」
指示は次々に出された。
高校生とは思えない統率力だった。
委員長は、何もかも知っているわけではない。むしろ昨日は、大きなウサギ一羽を前に動けなくなった。
それでも、分からないことを課題として切り分け、誰に任せるかを決める能力がある。
「日没前に全班戻る。危険だと思ったら、成果がなくても撤退する。戦闘より生還を優先。以上だ」
三つの班は、それぞれ違う方向へ出発した。
◇
委員長班の探索は、正攻法だった。
方角を決める。
できる限り直線に進む。
地形、獣道、魔物の痕跡を記録する。
時間を確認し、帰還に必要な時間を残して引き返す。
魔物と出会えば、委員長が前へ出た。
強剣、強盾、強服。
三つの強装備で固めた委員長は、現段階の魔物を相手にするには異常なほど硬かった。
最初に出会ったのは、牙の長い犬型の魔物だった。
委員長は盾を構え、正面から突進を受け止める。
衝撃で靴が地面を滑った。
それでも、倒れない。
「今だ!」
委員長の後ろから、高橋と中川が槍を突き出した。
二本の穂先が、犬型魔物の肩と脇腹へ刺さる。
吉見が横へ回り込み、剣で後ろ脚を切った。
魔物が向きを変えようとすると、委員長が盾を打ちつけ、注意を自分へ引き戻す。
敵の攻撃を受け止める。
仲間を守る。
その間に、後方から敵の体力を削る。
まだ誰もヘイトという言葉を使ってはいない。
だが、委員長班は自然に、盾役と攻撃役を分けた戦い方を始めていた。
犬型魔物の爪が、委員長の腕をかすめた。
「委員長!」
剛ちゃんのヒールが即座に飛ぶ。
傷というほどのものではない。強服の表面に爪痕がついただけで、皮膚には赤い線すら残っていなかった。
「熊川、俺は大丈夫だ」
「剛ちゃんでいいよ」
「そういう話ではなくて、MPを大切に――」
犬型魔物が再び飛びかかってきたため、会話は中断された。
数分後、魔物は地面へ倒れた。
高橋の槍が腹を貫き、中川の槍が肩へ深く入っている。それでも息はあり、脚を動かそうとしていた。
委員長が近づく。
剣を構える。
襲われている間は振れた。
仲間を守るためなら、迷いなく斬れた。
しかし抵抗できなくなった魔物を前にすると、腕が止まった。
「委員長。替わる」
吉見が言った。
「いや」
委員長は剣を握り直した。
一歩踏み出す。
刃を振り上げる。
それでも、最後まで下ろせなかった。
犬型魔物が苦しそうに息を吐く。
「……頼む」
吉見がとどめを刺した。
委員長は目をそらさなかった。
解体するときも、その場を離れなかった。
吐き気をこらえながら、山ちゃんから教わった手順を思い出し、ナイフを入れる位置を確認する。
「委員長。無理しなくていいぞ」
高橋が声をかける。
「次に必要になるかもしれない。見て覚える」
強くなったわけではない。
慣れたわけでもない。
ただ、逃げないことには成功した。
その日から委員長班は、毎日探索する角度を変えた。
教室を中心に、放射状に線を引くように進む。
一日目は北。
二日目は北東。
三日目は東。
木の密集した場所。
岩場。
深い谷。
湿地。
真っすぐ進めない場所があれば迂回し、地形を記録する。
巧の視力強化は、進行方向の確認に役立った。
高い木や岩場へ登り、遠くを観察する。
ある日、巧が森の向こうに、細く立ち上る煙を見つけた。
「委員長。あの方向、煙がある」
「山火事か?」
「煙が一本だけで、太さもあまり変わらない。火事というより、人が使っている火に見える」
さらに別の日、木の幹に刃物でつけたような傷を発見した。
自然に折れたものではない。
何者かが、以前この場所を通っている。
人間がいる。
集落か、街がある可能性が生まれた。
しかし、日帰りで往復できる範囲には限界がある。
「泊まりがけで行く必要があるな」
委員長は決断した。
「二泊三日を想定する。その前に、野営訓練を始めよう」
第一班の目的は、日帰り探索から、遠距離遠征の準備へ変わった。
◇
花ちゃん班も、最初は岩塩を探していた。
少なくとも、花ちゃんはそのつもりだった。
ところが忍が、木の上から魔物を発見する。
「左前方。二百メートルくらい。鹿が三頭」
「鹿なら食料になるわね」
花ちゃんが進路を変える。
しばらくして、忍が別のものを見つける。
「右の岩場に大きな魔物がいる」
「何の魔物?」
「見たことがない。鹿より大きい」
聖女が右の岩場へ意識を向けた。
彼女は拓斗と同じ希少な予感スキルを持っている。
「そっちは、少し嫌な感じがする」
花ちゃんは足を止めた。
「危険なら避けましょう」
「少しだけ」
忍が言った。
「見るだけ」
危険だと分かっている方向へ、忍は迷いなく進み始めた。
「忍、待ちなさい!」
花ちゃんたちも追いかけるしかない。
忍の索敵能力が上がるにつれて、この班は魔物との遭遇回数を増やした。
ウサギを十羽狩るより、大きな獲物を一頭。
小さな敵を何匹も倒すより、強い敵を一匹。
いつの間にか、目的が岩塩探索から強敵探しへ変わっていた。
数日後。
六人は、岩の多い斜面で牛型の魔物と遭遇した。
巨大な角。
盛り上がった肩。
地面を踏むたびに揺れるほどの巨体。
家畜として飼われているものなら牛と呼ばれるのだろうが、これは森に生きる魔物である。
それでも六人は、単純に牛と呼んだ。
「大きいわね」
花ちゃんが強短剣を抜く。
「五百キロくらいあるんじゃない?」
聖女が言う。
「もっとあるかもしれませんわ」
お嬢は強鈍器を肩へ担いだ。
牛が前脚で地面をかく。
鼻から荒い息を吐き、六人をにらむ。
「来る」
忍が言った。
次の瞬間、牛が突進した。
最初に前へ出たのは、ビキニだった。
「私が受ける」
「避けなさい!」
花ちゃんの警告は間に合わなかった。
牛の頭がビキニの身体を捉える。
鈍い衝突音が響いた。
ビキニの身体が宙を舞う。
岩場へ落ち、一度、二度と跳ねながら斜面を転がり落ちていった。
「くれは!」
聖女が叫ぶ。
花ちゃんは斜面の下を見た。
心配すべき場面である。
普通なら、即死していてもおかしくない。
だが、この数日で、全員がビキニは普通ではないと気づき始めていた。
「聖子。くれはは後。忍を援護して!」
「はい!」
牛が次の標的を探す。
忍が正面へ立ち、両腕を広げた。
「こっち」
牛が向きを変える。
忍は突進をぎりぎりまで引きつけ、岩へ足をかけて横へ跳ぶ。
牛は急に止まれない。
忍が立っていた場所を通過し、大きく旋回する。
まるで闘牛士だった。
忍が牛の注意を引きつけている間に、ビキニが斜面を登ってきた。
聖女が駆け寄る。
「あなた、怪我は?」
「怪我はない。しかし、あの突撃は痛かった」
ビキニは腹部を手で押さえている。
痛いと言いながら、歩き方に異常はない。
「普通は死にます」
「強服がいい仕事をした」
「あなた、崖を転がり落ちて、なぜ擦り傷一つないの?」
「身体強化もいい仕事をしている」
「身体強化は、そこまで都合のよいスキルではありません。私が階段を転がり落ちたときは、それなりに怪我をしました」
「そんな実験をしなくていいから!」
花ちゃんが怒鳴った。
「次は任せて」
ビキニは再び牛へ向かう。
「何を任せるの! 今度は避けなさい!」
「分かった」
返事だけは素直だった。
牛が再び突進する。
ビキニは今度こそ正面から受けず、半歩だけ身体をずらした。
通り過ぎようとする牛の角を、両手で握る。
「ふっ!」
足が地面を削った。
牛の勢いに押され、ビキニの身体が数メートル後退する。
それでも角を離さない。
腰を落とし、全身で牛の頭を押さえ込む。
「止めた?」
聖女が驚く。
「止める人、初めて見ましたわ」
お嬢は冷静に感想を述べ、強鈍器を両手で握った。
「お嬢、今よ!」
花ちゃんの指示で、お嬢が牛の横へ回り込む。
強鈍器を大きく振り上げ、頭部へ叩きつけた。
重い音が響く。
牛の脚が崩れた。
ビキニが角を離す。
巨体が地面へ倒れ、土煙が上がった。
まだ死んではいない。
脚が動いている。
「下がって」
花ちゃんが牛の後頭部へ回った。
強短剣を逆手に持ち、頭蓋骨と首の境目を探す。
「ここなら、脳まで届くはず」
刃を突き立てる。
一度では届かない。
身体強化を使い、両手で押し込む。
牛の身体が大きく痙攣した。
花ちゃんが刃を抜き、角度を変えてもう一度刺す。
牛が動かなくなった。
しばらく誰も近づかなかった。
完全に死んだことを確かめてから、花ちゃんが息を吐く。
「獲物が大きいと、短剣ではとどめを刺しにくいわね。槍か剣が必要かも」
お嬢は、牛の頭部に残った鈍器の痕を見る。
「レベルが上がったので、STRに五ポイント振りました」
「うん?」
「次は、私の鈍器が頭蓋骨を打ち砕き、脳漿を垂れ流すはずですわ」
全員がお嬢を見る。
「お嬢、その話し方で物騒なことを言うの、やめてくれない?」
「事実を述べただけですわ」
「まるで悪役令嬢」
忍の指摘に、お嬢が振り返る。
「誰が悪役令嬢ですの!」
反省会をしている間に、牛の死体に変化が起きた。
輪郭が淡く光り始める。
「何か光ってない?」
聖女が後ずさる。
「危険な感じは?」
花ちゃんが尋ねる。
「ない。でも、何が起きているのか分からない」
光は次第に強くなった。
討伐から、およそ五分。
五百キロを超える牛の巨体が、光の粒となって崩れた。
血も、皮も、肉も、骨も残らない。
あとには、握り拳ほどの黒い石だけが落ちていた。
「消えた」
「どういうこと?」
花ちゃんが石を拾う。
表面は滑らかで、わずかに温かい。
聖女が考える。
「大き過ぎて、持て余すからでしょうか」
「これなら、倒し放題ってことじゃない?」
ビキニが言った。
「倒し放題?」
「肉が残れば、食べ切れない。解体も保存も大変。でも消えるなら、無駄な肉の貯蔵を増やさなくて済む」
「そうよね」
花ちゃんは、残された石を見た。
「倒した魔物を食べられないのは少し気になるけど、この大きさでは教室まで運べないものね」
忍が周囲を確認する。
「同じ牛が、まだいるかもしれない」
「今日は帰ります」
花ちゃんが即答した。
「でも」
「目的を思い出して。私たちは岩塩を探しに来たの。強い魔物を全滅させに来たんじゃないのよ」
誰も反論しなかった。
少なくとも、その日は。
◇
拓斗班は、最初から本気の攻略モードに入っていた。
山ちゃんが地形と魔物の痕跡を調べる。
春樹が風魔法で遠くの音を拾う。
拓斗と聖女ほどではないが、佐藤美穂と鈴木陽子も視界の端に入った植物を記録する。
和樹は食べられそうなものを片端から試す。
「この辺り、かすかに危険を感じる」
拓斗が立ち止まった。
「何かない?」
六人が周囲を探す。
最初に見つけたのは、山ちゃんだった。
「あそこ。スズメバチの巣がある」
頭上の太い枝から、灰色の大きな巣が下がっていた。
周囲を飛ぶ蜂も、元の世界のものより大きい。
「危険の正体は、あれか」
「近づくな。刺されたらヒールがあっても危ない」
「目印をつけて、あとで火魔法を使える人に焼いてもらおう」
拓斗が言うと、春樹が首をかしげた。
「蜂蜜は取れないのか?」
「スズメバチの巣に蜂蜜はない」
山ちゃんが即答する。
「異世界のスズメバチなら、あるかもしれない」
「確かめたいなら、春樹が行け」
「やめておく」
危険を避けながら進むと、山ちゃんが地面へしゃがみ込んだ。
「この足跡は鹿だ」
前方へ、二つに割れた蹄の跡が続いている。
森に生息している以上、その鹿も魔物である。
ただし草食で、外見も鹿に似ているため、全員がそのまま鹿と呼んだ。
「大きな魔物は、塩を求めるんじゃないか?」
拓斗が言う。
「塩場へ向かっている可能性はある」
「じゃあ、足跡を追おう」
山ちゃんを先頭に、鹿の痕跡をたどる。
途中で和樹が赤い実を見つけた。
一つ摘み、臭いを嗅ぐ。
舌先で少し舐める。
そのまま小さくかじった。
「どう?」
春樹が尋ねる。
「甘い」
「当たり?」
「いや、待て」
数秒後、和樹が膝をついた。
「毒を食った。ヒールが効くまで待って」
「吐け!」
山ちゃんが背中を叩く。
和樹は口に残った実を吐き出し、自分へヒールを使った。
顔色は悪いが、意識ははっきりしている。
「うまい果物を探すのも命懸けだな」
春樹が言う。
「お前が毒耐性を持ったら困るな」
拓斗は、赤い実を枝ごと採取した。
「どうして?」
「毒見しても平気になったら、安全かどうか分からなくなる」
「毒見は俺の独占業務じゃねえ。ほかのやつにもやらせる」
「誰が希望するんだよ」
佐藤さんと鈴木さんは、そろって和樹から距離を取った。
「伊沢君。私たちを見ないで」
「まだ何も言ってないだろ」
「言う前に断ってるの」
しばらく休み、和樹の顔色が戻ってから探索を再開する。
鹿の足跡は、緩い斜面を下っていた。
地面の湿り気が増える。
周囲の植物も変わり、苔の量が多くなる。
やがて山ちゃんが立ち止まった。
「ここ、泉が湧く地形だ」
拓斗は周囲を見回した。
水面はない。
川も流れていない。
ただ、地面がわずかにくぼみ、湿った土が広がっている。
「何で分かる?」
「分かるんじゃなくて、ここに湧き水がないのがおかしい」
「同じ意味じゃないか?」
「違う。斜面の角度、土の湿り方、植物の種類。この下を水が通ってる。少し掘れば、必ず湧く」
「どれくらい掘る?」
「やってみないと分からない。深くても二メートルはいかないと思う」
「教室からの距離は?」
春樹が歩数を確認する。
「直線なら百メートルくらい」
「シャワーがあるのに、泉を作る必要ある?」
鈴木さんが尋ねた。
「水浴びはロマンだよね」
和樹が言った。
「毒で倒れた直後なのに元気ね」
「ヒールが効いたから」
山ちゃんは湧水候補地へ目印をつけた。
「オタクトリオに頼めば、木で土留めを作れる。洗濯や食材を洗う場所にも使える」
「決まりだな」
拓斗は地図用の木板へ記録した。
鹿の足跡は、さらに先へ続いている。
六人は追跡を再開した。
森を抜け、小さな岩場へ出る。
鹿の足跡は一か所へ集中していた。
岩の表面には、何かが繰り返し舐めたような跡がある。
山ちゃんがナイフで岩肌を削った。
欠片を指先へ載せ、慎重に舐める。
「塩だ」
「もう見つかった?」
春樹が、驚くより先に呆れた。
「岩塩だと思う。ほかの成分が混じっているかもしれないから、いきなり大量には使うな」
拓斗は岩場と鹿の足跡を見比べた。
大型の魔物は塩を求める。
足跡を追えば塩場へ着く。
考え方としては単純だった。
だが、異世界へ来て二日目で、本当に岩塩を発見してしまった。
「展開が早過ぎないか?」
拓斗がつぶやく。
「早く見つかって困るものでもないだろ」
山ちゃんは岩塩の採取を始めた。
「周辺も調べる。鹿が定期的に来るなら、狩り場にもできる」
「山ちゃん一人だけ、何年もこの森で生活してるみたいだな」
「地形と獣の行動は、世界が変わっても大きくは変わらない」
「魔物なのに?」
「魔物でも、鹿は鹿だ。塩が必要なら塩を舐める」
山ちゃんにとっては、それで十分だった。
◇
夕方、三つの班が教室へ戻った。
委員長班は、魔物の肉と、遠方に人の存在を示す痕跡を持ち帰った。
花ちゃん班は、五百キロを超える魔物が消滅する現象と、残された魔石を持ち帰った。
拓斗班は、岩塩、食用候補の植物、毒のある果実、地下水脈の位置を持ち帰った。
ホワイトボードの前に、三班の代表とオタクトリオが集まる。
山ちゃんが地図を描く。
委員長が人工的な煙を見た方向を示す。
花ちゃんが魔石を机へ置く。
大輔、智也、雄介の三人が、黒い石を取り囲んだ。
「五百キロを超える牛が、五分後に消えた?」
大輔が確認する。
「ええ。跡には、それだけが残った」
「死体が大き過ぎて、処理できないから自動的に消したのかもな」
智也が言う。
「魔石が確定報酬なら、低確率で別の物が出る可能性もある」
雄介が続けた。
「武器とか、防具とか?」
「特殊素材かもしれない」
「つまり、アイテムドロップだ」
三人の目が輝く。
委員長は嫌な予感を覚えた。
「先に言っておく。大型魔物を、ドロップ目的で無計画に狩るのは禁止する」
「無計画にはやらない」
「計画を立てれば狩っていい?」
「そういう意味ではない」
その横では、岩塩を見たクラスメイトたちが歓声を上げていた。
「今夜から塩が使える!」
「昨日の肉、まだ残ってるよね?」
「謎野菜にも入れよう」
「朝の果物にも塩を振れば、少しはうまくならない?」
「それはやめた方がいいと思う」
一日で手に入れたものは多かった。
食料。
塩。
水場。
魔石。
人間の存在を示す痕跡。
そして、自分たちにも魔物と戦い、森を調べ、生活圏を広げられるという実感。
委員長はホワイトボードに、新しい課題を書いた。
二泊三日の長距離遠征。
目的地候補――人工的な煙が見えた方向。
「明日から、泊まりがけで森を進む訓練を始める」
委員長が宣言する。
「日帰りで届かない場所に、人がいるかもしれない。集落か、街が見つかれば、紙も布も、大きな鍋も手に入る可能性がある」
異世界で迎えた、最初の朝。
その日の夕方には、教室の周囲だけだった世界が、いくつもの方向へ広がり始めていた。
生徒たちはまだ知らない。
煙の向こうにある街が、彼らの探している迷宮都市であることを。
そこまでの距離が、約三十キロあることを。
そして、その街を見つけるまでに、あと二週間近く森を歩き続けることを。




