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第四章 三つの道


 夜が明けた。


 起床時間を決めた者はいない。目覚まし時計も、朝のホームルームもない。今日中に提出しなければならない宿題もなければ、遅刻を記録する教師もいない。


 それでも空が白み始めると、部室棟から生徒たちがぞろぞろと起き出した。


 水道で顔を洗う。


 寝癖を濡らして整える。


 昨夜のバーベキューで使った食器を洗い、竈の周りへ残った串や灰を片づける。


 誰かに命じられたわけではない。


 不文律にもかかわらず、一糸乱れぬ行動だった。


 もっとも、全員というわけではない。


 三段ベッドの上段で毛布をかぶり、何があっても起きようとしない者もいる。顔を洗う順番を待ちながら、ぼんやり立っている者もいる。昨夜遅くまで話し込んでいたオタクトリオは、三人そろって寝不足の顔をしていた。


 こんな非常事態でも、マイペースな者はマイペースであり、寝坊する者は寝坊するらしい。


 森の方から、真田忍(忍)と瀧くれは(ビキニ)が戻ってきた。


 二人とも軽く汗をかいている。


 忍は木から木へ跳び移りながら、枝の強度や身体強化の感覚を確かめてきたという。


 ビキニは岩を殴り、蹴り、拳と足の耐久性を確認してきた。


「朝から何をしてるの?」


 花ちゃんが尋ねた。


「軽い訓練」


 忍が答える。


「岩を殴るのが軽い訓練なの?」


「本気で殴ったら割れるかもしれないから、今日は軽くした」


 ビキニの答えに、花ちゃんはそれ以上聞くのをやめた。


 反対方向からは、委員長を含む男子五人が戻ってきた。


 朝のランニングへ行っていたらしい。


 委員長は昨日と同じ勇者姿である。赤いマントをなびかせて森の周囲を走ったことになるが、やはり誰も突っ込まない。


 今日が異世界で迎える初めての朝とは思えなかった。


 まるで、この生活がずっと続いてきたかのような、日常の一場面だった。


「起きている者は集まってくれ」


 委員長が、作業広場の中央で声を上げた。


 完全に起きている者。


 まだ眠そうな者。


 木製歯ブラシを口にくわえている者。


 昨日の残りを朝から焼いて食べようとしていた者。


 それぞれが委員長の周囲へ集まる。


「朝食は、そこにある果物を一個だ。水は各自、適宜飲んでくれ」


 籠代わりの木箱には、昨日見つけた黄緑色の果実が積まれていた。


 形は洋梨に似ている。


 和樹が毒見を済ませており、食べても死なないことは確認されていた。


 ただし、うまくはない。


 硬い。


 水分は多いが、甘味が薄い。わずかに渋く、後味には青臭さが残る。


「これ、本当に朝ご飯?」


「肉は?」


「昨日のウサギ、まだあるだろ」


 そんな声が上がると、委員長は片手を上げた。


「その件について、昨夜考えた」


 嫌な予感を覚えた者が何人かいた。


「一万年前の人類を想定すると、おそらく朝食は食べていない」


「いきなり何の話?」


「聞いてくれ」


 委員長は真剣だった。


「人類が狩猟と採集で生活していた時代、起きた時点で食事が用意されていたとは考えにくい。朝は果物か、保存の利く野菜を少量食べて行動を開始する。そして獲物を捕らえた夕方、ようやく食事をする。おそらく、一日一食に近い生活だったと思う」


「保存の利く野菜って何?」


「生の大根とか」


「朝から生大根をかじるの?」


「例えだ」


 委員長は説明を続けた。


「その証拠に、俺は朝から肉を食べたいと思わない。昨日あれだけうまかったバーベキューも、今は無理だ」


 精神スキルを持たない委員長の場合、肉を見て昨日の解体を思い出しているだけかもしれない。


 しかし、誰もそれを指摘しなかった。


「まあ、基本は身体が求めるものを食べる、だな。果物が欲しいなら果物。肉が欲しいなら肉。食えるときに、食えるものを食う。ただし、食料には限りがある。朝から全員で肉を焼くのはやめておこう」


「最初から、そう言えばよかったんじゃない?」


 花ちゃんの指摘に、委員長は少し黙った。


「明日は、もう少しうまい果物が見つかることを期待する」


 何だかよく分からない演説だった。


 それでも、校長先生の話よりは面白い。


 何より、これは生活指導ではない。


 今ここで生きるために必要な話だった。


     ◇


 委員長は、昨日決めた三つの探索班を発表した。


 第一班。


 委員長、巧、熊川剛士(剛ちゃん)、吉見武志、高橋健三、中川謙太。


 目的は、教室から直線方向へ距離を稼ぐこと。途中の地形と危険を記録し、一日で往復できる範囲を広げる。


 第二班。


 花ちゃん、御琴泡姫、五光聖子(聖女)、三崎彬子(お嬢)、忍、ビキニ。


 目的は、岩塩を含む鉱物資源と、大型の獲物の探索。


 第三班。


 伊沢和樹、山ちゃん、拓斗、春樹、佐藤美穂、鈴木陽子。


 目的は、食用植物、水場、岩塩、獣道など、生活に利用できる資源の探索。


「残る者にも課題がある」


 委員長は、教室と部室棟を指した。


「結界の範囲を確認する。外周へ目印を置いて、生活圏をはっきりさせる。オタクトリオを中心に、調理場、解体場、薪置き場を整備してほしい」


「畑は?」


「食べられる植物が見つかったら始める。先に候補地を決めて、石と根を取り除いておこう」


「鍋が小さ過ぎる」


「それも課題だ。今は全員の鍋を集めて使う。もっと大きな調理器具が必要だが、森で作れるかは分からない」


「紙と布も欲しい」


「紙が手に入るまでは、薄い木板を作って炭で記録する。布は冒険者セットに入っていた服とタオルを大切に使う。作れなければ、どこかで調達するしかない」


 指示は次々に出された。


 高校生とは思えない統率力だった。


 委員長は、何もかも知っているわけではない。むしろ昨日は、大きなウサギ一羽を前に動けなくなった。


 それでも、分からないことを課題として切り分け、誰に任せるかを決める能力がある。


「日没前に全班戻る。危険だと思ったら、成果がなくても撤退する。戦闘より生還を優先。以上だ」


 三つの班は、それぞれ違う方向へ出発した。


     ◇


 委員長班の探索は、正攻法だった。


 方角を決める。


 できる限り直線に進む。


 地形、獣道、魔物の痕跡を記録する。


 時間を確認し、帰還に必要な時間を残して引き返す。


 魔物と出会えば、委員長が前へ出た。


 強剣、強盾、強服。


 三つの強装備で固めた委員長は、現段階の魔物を相手にするには異常なほど硬かった。


 最初に出会ったのは、牙の長い犬型の魔物だった。


 委員長は盾を構え、正面から突進を受け止める。


 衝撃で靴が地面を滑った。


 それでも、倒れない。


「今だ!」


 委員長の後ろから、高橋と中川が槍を突き出した。


 二本の穂先が、犬型魔物の肩と脇腹へ刺さる。


 吉見が横へ回り込み、剣で後ろ脚を切った。


 魔物が向きを変えようとすると、委員長が盾を打ちつけ、注意を自分へ引き戻す。


 敵の攻撃を受け止める。


 仲間を守る。


 その間に、後方から敵の体力を削る。


 まだ誰もヘイトという言葉を使ってはいない。


 だが、委員長班は自然に、盾役と攻撃役を分けた戦い方を始めていた。


 犬型魔物の爪が、委員長の腕をかすめた。


「委員長!」


 剛ちゃんのヒールが即座に飛ぶ。


 傷というほどのものではない。強服の表面に爪痕がついただけで、皮膚には赤い線すら残っていなかった。


「熊川、俺は大丈夫だ」


「剛ちゃんでいいよ」


「そういう話ではなくて、MPを大切に――」


 犬型魔物が再び飛びかかってきたため、会話は中断された。


 数分後、魔物は地面へ倒れた。


 高橋の槍が腹を貫き、中川の槍が肩へ深く入っている。それでも息はあり、脚を動かそうとしていた。


 委員長が近づく。


 剣を構える。


 襲われている間は振れた。


 仲間を守るためなら、迷いなく斬れた。


 しかし抵抗できなくなった魔物を前にすると、腕が止まった。


「委員長。替わる」


 吉見が言った。


「いや」


 委員長は剣を握り直した。


 一歩踏み出す。


 刃を振り上げる。


 それでも、最後まで下ろせなかった。


 犬型魔物が苦しそうに息を吐く。


「……頼む」


 吉見がとどめを刺した。


 委員長は目をそらさなかった。


 解体するときも、その場を離れなかった。


 吐き気をこらえながら、山ちゃんから教わった手順を思い出し、ナイフを入れる位置を確認する。


「委員長。無理しなくていいぞ」


 高橋が声をかける。


「次に必要になるかもしれない。見て覚える」


 強くなったわけではない。


 慣れたわけでもない。


 ただ、逃げないことには成功した。


 その日から委員長班は、毎日探索する角度を変えた。


 教室を中心に、放射状に線を引くように進む。


 一日目は北。


 二日目は北東。


 三日目は東。


 木の密集した場所。


 岩場。


 深い谷。


 湿地。


 真っすぐ進めない場所があれば迂回し、地形を記録する。


 巧の視力強化は、進行方向の確認に役立った。


 高い木や岩場へ登り、遠くを観察する。


 ある日、巧が森の向こうに、細く立ち上る煙を見つけた。


「委員長。あの方向、煙がある」


「山火事か?」


「煙が一本だけで、太さもあまり変わらない。火事というより、人が使っている火に見える」


 さらに別の日、木の幹に刃物でつけたような傷を発見した。


 自然に折れたものではない。


 何者かが、以前この場所を通っている。


 人間がいる。


 集落か、街がある可能性が生まれた。


 しかし、日帰りで往復できる範囲には限界がある。


「泊まりがけで行く必要があるな」


 委員長は決断した。


「二泊三日を想定する。その前に、野営訓練を始めよう」


 第一班の目的は、日帰り探索から、遠距離遠征の準備へ変わった。


     ◇


 花ちゃん班も、最初は岩塩を探していた。


 少なくとも、花ちゃんはそのつもりだった。


 ところが忍が、木の上から魔物を発見する。


「左前方。二百メートルくらい。鹿が三頭」


「鹿なら食料になるわね」


 花ちゃんが進路を変える。


 しばらくして、忍が別のものを見つける。


「右の岩場に大きな魔物がいる」


「何の魔物?」


「見たことがない。鹿より大きい」


 聖女が右の岩場へ意識を向けた。


 彼女は拓斗と同じ希少な予感スキルを持っている。


「そっちは、少し嫌な感じがする」


 花ちゃんは足を止めた。


「危険なら避けましょう」


「少しだけ」


 忍が言った。


「見るだけ」


 危険だと分かっている方向へ、忍は迷いなく進み始めた。


「忍、待ちなさい!」


 花ちゃんたちも追いかけるしかない。


 忍の索敵能力が上がるにつれて、この班は魔物との遭遇回数を増やした。


 ウサギを十羽狩るより、大きな獲物を一頭。


 小さな敵を何匹も倒すより、強い敵を一匹。


 いつの間にか、目的が岩塩探索から強敵探しへ変わっていた。


 数日後。


 六人は、岩の多い斜面で牛型の魔物と遭遇した。


 巨大な角。


 盛り上がった肩。


 地面を踏むたびに揺れるほどの巨体。


 家畜として飼われているものなら牛と呼ばれるのだろうが、これは森に生きる魔物である。


 それでも六人は、単純に牛と呼んだ。


「大きいわね」


 花ちゃんが強短剣を抜く。


「五百キロくらいあるんじゃない?」


 聖女が言う。


「もっとあるかもしれませんわ」


 お嬢は強鈍器を肩へ担いだ。


 牛が前脚で地面をかく。


 鼻から荒い息を吐き、六人をにらむ。


「来る」


 忍が言った。


 次の瞬間、牛が突進した。


 最初に前へ出たのは、ビキニだった。


「私が受ける」


「避けなさい!」


 花ちゃんの警告は間に合わなかった。


 牛の頭がビキニの身体を捉える。


 鈍い衝突音が響いた。


 ビキニの身体が宙を舞う。


 岩場へ落ち、一度、二度と跳ねながら斜面を転がり落ちていった。


「くれは!」


 聖女が叫ぶ。


 花ちゃんは斜面の下を見た。


 心配すべき場面である。


 普通なら、即死していてもおかしくない。


 だが、この数日で、全員がビキニは普通ではないと気づき始めていた。


「聖子。くれはは後。忍を援護して!」


「はい!」


 牛が次の標的を探す。


 忍が正面へ立ち、両腕を広げた。


「こっち」


 牛が向きを変える。


 忍は突進をぎりぎりまで引きつけ、岩へ足をかけて横へ跳ぶ。


 牛は急に止まれない。


 忍が立っていた場所を通過し、大きく旋回する。


 まるで闘牛士だった。


 忍が牛の注意を引きつけている間に、ビキニが斜面を登ってきた。


 聖女が駆け寄る。


「あなた、怪我は?」


「怪我はない。しかし、あの突撃は痛かった」


 ビキニは腹部を手で押さえている。


 痛いと言いながら、歩き方に異常はない。


「普通は死にます」


「強服がいい仕事をした」


「あなた、崖を転がり落ちて、なぜ擦り傷一つないの?」


「身体強化もいい仕事をしている」


「身体強化は、そこまで都合のよいスキルではありません。私が階段を転がり落ちたときは、それなりに怪我をしました」


「そんな実験をしなくていいから!」


 花ちゃんが怒鳴った。


「次は任せて」


 ビキニは再び牛へ向かう。


「何を任せるの! 今度は避けなさい!」


「分かった」


 返事だけは素直だった。


 牛が再び突進する。


 ビキニは今度こそ正面から受けず、半歩だけ身体をずらした。


 通り過ぎようとする牛の角を、両手で握る。


「ふっ!」


 足が地面を削った。


 牛の勢いに押され、ビキニの身体が数メートル後退する。


 それでも角を離さない。


 腰を落とし、全身で牛の頭を押さえ込む。


「止めた?」


 聖女が驚く。


「止める人、初めて見ましたわ」


 お嬢は冷静に感想を述べ、強鈍器を両手で握った。


「お嬢、今よ!」


 花ちゃんの指示で、お嬢が牛の横へ回り込む。


 強鈍器を大きく振り上げ、頭部へ叩きつけた。


 重い音が響く。


 牛の脚が崩れた。


 ビキニが角を離す。


 巨体が地面へ倒れ、土煙が上がった。


 まだ死んではいない。


 脚が動いている。


「下がって」


 花ちゃんが牛の後頭部へ回った。


 強短剣を逆手に持ち、頭蓋骨と首の境目を探す。


「ここなら、脳まで届くはず」


 刃を突き立てる。


 一度では届かない。


 身体強化を使い、両手で押し込む。


 牛の身体が大きく痙攣した。


 花ちゃんが刃を抜き、角度を変えてもう一度刺す。


 牛が動かなくなった。


 しばらく誰も近づかなかった。


 完全に死んだことを確かめてから、花ちゃんが息を吐く。


「獲物が大きいと、短剣ではとどめを刺しにくいわね。槍か剣が必要かも」


 お嬢は、牛の頭部に残った鈍器の痕を見る。


「レベルが上がったので、STRに五ポイント振りました」


「うん?」


「次は、私の鈍器が頭蓋骨を打ち砕き、脳漿を垂れ流すはずですわ」


 全員がお嬢を見る。


「お嬢、その話し方で物騒なことを言うの、やめてくれない?」


「事実を述べただけですわ」


「まるで悪役令嬢」


 忍の指摘に、お嬢が振り返る。


「誰が悪役令嬢ですの!」


 反省会をしている間に、牛の死体に変化が起きた。


 輪郭が淡く光り始める。


「何か光ってない?」


 聖女が後ずさる。


「危険な感じは?」


 花ちゃんが尋ねる。


「ない。でも、何が起きているのか分からない」


 光は次第に強くなった。


 討伐から、およそ五分。


 五百キロを超える牛の巨体が、光の粒となって崩れた。


 血も、皮も、肉も、骨も残らない。


 あとには、握り拳ほどの黒い石だけが落ちていた。


「消えた」


「どういうこと?」


 花ちゃんが石を拾う。


 表面は滑らかで、わずかに温かい。


 聖女が考える。


「大き過ぎて、持て余すからでしょうか」


「これなら、倒し放題ってことじゃない?」


 ビキニが言った。


「倒し放題?」


「肉が残れば、食べ切れない。解体も保存も大変。でも消えるなら、無駄な肉の貯蔵を増やさなくて済む」


「そうよね」


 花ちゃんは、残された石を見た。


「倒した魔物を食べられないのは少し気になるけど、この大きさでは教室まで運べないものね」


 忍が周囲を確認する。


「同じ牛が、まだいるかもしれない」


「今日は帰ります」


 花ちゃんが即答した。


「でも」


「目的を思い出して。私たちは岩塩を探しに来たの。強い魔物を全滅させに来たんじゃないのよ」


 誰も反論しなかった。


 少なくとも、その日は。


     ◇


 拓斗班は、最初から本気の攻略モードに入っていた。


 山ちゃんが地形と魔物の痕跡を調べる。


 春樹が風魔法で遠くの音を拾う。


 拓斗と聖女ほどではないが、佐藤美穂と鈴木陽子も視界の端に入った植物を記録する。


 和樹は食べられそうなものを片端から試す。


「この辺り、かすかに危険を感じる」


 拓斗が立ち止まった。


「何かない?」


 六人が周囲を探す。


 最初に見つけたのは、山ちゃんだった。


「あそこ。スズメバチの巣がある」


 頭上の太い枝から、灰色の大きな巣が下がっていた。


 周囲を飛ぶ蜂も、元の世界のものより大きい。


「危険の正体は、あれか」


「近づくな。刺されたらヒールがあっても危ない」


「目印をつけて、あとで火魔法を使える人に焼いてもらおう」


 拓斗が言うと、春樹が首をかしげた。


「蜂蜜は取れないのか?」


「スズメバチの巣に蜂蜜はない」


 山ちゃんが即答する。


「異世界のスズメバチなら、あるかもしれない」


「確かめたいなら、春樹が行け」


「やめておく」


 危険を避けながら進むと、山ちゃんが地面へしゃがみ込んだ。


「この足跡は鹿だ」


 前方へ、二つに割れた蹄の跡が続いている。


 森に生息している以上、その鹿も魔物である。


 ただし草食で、外見も鹿に似ているため、全員がそのまま鹿と呼んだ。


「大きな魔物は、塩を求めるんじゃないか?」


 拓斗が言う。


「塩場へ向かっている可能性はある」


「じゃあ、足跡を追おう」


 山ちゃんを先頭に、鹿の痕跡をたどる。


 途中で和樹が赤い実を見つけた。


 一つ摘み、臭いを嗅ぐ。


 舌先で少し舐める。


 そのまま小さくかじった。


「どう?」


 春樹が尋ねる。


「甘い」


「当たり?」


「いや、待て」


 数秒後、和樹が膝をついた。


「毒を食った。ヒールが効くまで待って」


「吐け!」


 山ちゃんが背中を叩く。


 和樹は口に残った実を吐き出し、自分へヒールを使った。


 顔色は悪いが、意識ははっきりしている。


「うまい果物を探すのも命懸けだな」


 春樹が言う。


「お前が毒耐性を持ったら困るな」


 拓斗は、赤い実を枝ごと採取した。


「どうして?」


「毒見しても平気になったら、安全かどうか分からなくなる」


「毒見は俺の独占業務じゃねえ。ほかのやつにもやらせる」


「誰が希望するんだよ」


 佐藤さんと鈴木さんは、そろって和樹から距離を取った。


「伊沢君。私たちを見ないで」


「まだ何も言ってないだろ」


「言う前に断ってるの」


 しばらく休み、和樹の顔色が戻ってから探索を再開する。


 鹿の足跡は、緩い斜面を下っていた。


 地面の湿り気が増える。


 周囲の植物も変わり、苔の量が多くなる。


 やがて山ちゃんが立ち止まった。


「ここ、泉が湧く地形だ」


 拓斗は周囲を見回した。


 水面はない。


 川も流れていない。


 ただ、地面がわずかにくぼみ、湿った土が広がっている。


「何で分かる?」


「分かるんじゃなくて、ここに湧き水がないのがおかしい」


「同じ意味じゃないか?」


「違う。斜面の角度、土の湿り方、植物の種類。この下を水が通ってる。少し掘れば、必ず湧く」


「どれくらい掘る?」


「やってみないと分からない。深くても二メートルはいかないと思う」


「教室からの距離は?」


 春樹が歩数を確認する。


「直線なら百メートルくらい」


「シャワーがあるのに、泉を作る必要ある?」


 鈴木さんが尋ねた。


「水浴びはロマンだよね」


 和樹が言った。


「毒で倒れた直後なのに元気ね」


「ヒールが効いたから」


 山ちゃんは湧水候補地へ目印をつけた。


「オタクトリオに頼めば、木で土留めを作れる。洗濯や食材を洗う場所にも使える」


「決まりだな」


 拓斗は地図用の木板へ記録した。


 鹿の足跡は、さらに先へ続いている。


 六人は追跡を再開した。


 森を抜け、小さな岩場へ出る。


 鹿の足跡は一か所へ集中していた。


 岩の表面には、何かが繰り返し舐めたような跡がある。


 山ちゃんがナイフで岩肌を削った。


 欠片を指先へ載せ、慎重に舐める。


「塩だ」


「もう見つかった?」


 春樹が、驚くより先に呆れた。


「岩塩だと思う。ほかの成分が混じっているかもしれないから、いきなり大量には使うな」


 拓斗は岩場と鹿の足跡を見比べた。


 大型の魔物は塩を求める。


 足跡を追えば塩場へ着く。


 考え方としては単純だった。


 だが、異世界へ来て二日目で、本当に岩塩を発見してしまった。


「展開が早過ぎないか?」


 拓斗がつぶやく。


「早く見つかって困るものでもないだろ」


 山ちゃんは岩塩の採取を始めた。


「周辺も調べる。鹿が定期的に来るなら、狩り場にもできる」


「山ちゃん一人だけ、何年もこの森で生活してるみたいだな」


「地形と獣の行動は、世界が変わっても大きくは変わらない」


「魔物なのに?」


「魔物でも、鹿は鹿だ。塩が必要なら塩を舐める」


 山ちゃんにとっては、それで十分だった。


     ◇


 夕方、三つの班が教室へ戻った。


 委員長班は、魔物の肉と、遠方に人の存在を示す痕跡を持ち帰った。


 花ちゃん班は、五百キロを超える魔物が消滅する現象と、残された魔石を持ち帰った。


 拓斗班は、岩塩、食用候補の植物、毒のある果実、地下水脈の位置を持ち帰った。


 ホワイトボードの前に、三班の代表とオタクトリオが集まる。


 山ちゃんが地図を描く。


 委員長が人工的な煙を見た方向を示す。


 花ちゃんが魔石を机へ置く。


 大輔、智也、雄介の三人が、黒い石を取り囲んだ。


「五百キロを超える牛が、五分後に消えた?」


 大輔が確認する。


「ええ。跡には、それだけが残った」


「死体が大き過ぎて、処理できないから自動的に消したのかもな」


 智也が言う。


「魔石が確定報酬なら、低確率で別の物が出る可能性もある」


 雄介が続けた。


「武器とか、防具とか?」


「特殊素材かもしれない」


「つまり、アイテムドロップだ」


 三人の目が輝く。


 委員長は嫌な予感を覚えた。


「先に言っておく。大型魔物を、ドロップ目的で無計画に狩るのは禁止する」


「無計画にはやらない」


「計画を立てれば狩っていい?」


「そういう意味ではない」


 その横では、岩塩を見たクラスメイトたちが歓声を上げていた。


「今夜から塩が使える!」


「昨日の肉、まだ残ってるよね?」


「謎野菜にも入れよう」


「朝の果物にも塩を振れば、少しはうまくならない?」


「それはやめた方がいいと思う」


 一日で手に入れたものは多かった。


 食料。


 塩。


 水場。


 魔石。


 人間の存在を示す痕跡。


 そして、自分たちにも魔物と戦い、森を調べ、生活圏を広げられるという実感。


 委員長はホワイトボードに、新しい課題を書いた。


 二泊三日の長距離遠征。


 目的地候補――人工的な煙が見えた方向。


「明日から、泊まりがけで森を進む訓練を始める」


 委員長が宣言する。


「日帰りで届かない場所に、人がいるかもしれない。集落か、街が見つかれば、紙も布も、大きな鍋も手に入る可能性がある」


 異世界で迎えた、最初の朝。


 その日の夕方には、教室の周囲だけだった世界が、いくつもの方向へ広がり始めていた。


 生徒たちはまだ知らない。


 煙の向こうにある街が、彼らの探している迷宮都市であることを。


 そこまでの距離が、約三十キロあることを。


 そして、その街を見つけるまでに、あと二週間近く森を歩き続けることを。


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