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第二章 最初の獲物


 昇降口の扉を開けると、湿り気を帯びた熱気が流れ込んできた。


 つい先ほどまで、扉の向こうには校門へ続く舗装路があった。


 今は膝の高さまで伸びた草と、見上げるほど巨大な木々が広がっている。


 蝉の声は聞こえない。


 代わりに、遠くから甲高い鳥のような鳴き声がする。


 本当に鳥なのかは分からなかった。


 委員長を先頭に、七人が外へ出る。


 委員長、巧、花ちゃん、拓斗、春樹、山ちゃん、和樹。


 全員が冒険者セットのショルダーバッグを肩から提げている。


 衣服へポイントを使わなかった者は、生成りのシャツ、茶色いズボン、丈夫な革靴という共通の冒険者姿だった。


 委員長だけは、白銀の胸当て、青い上着、赤いマントという勇者姿である。


 強剣と強盾まで装備しているため、ひどく目立つ。


 だが、誰もそこには触れなかった。


 建物から数歩離れたところで、全員が一度振り返った。


 異世界の森の中に、校舎の一部だけが取り残されている。


 三階建てだったはずの校舎は、教室一室と廊下、階段の手前までで不自然に切断されていた。


 切断面には壊れた柱も鉄筋もなく、最初からそういう平屋の建物として造られたように壁で塞がれている。


 その隣には、渡り廊下でつながった部室棟がある。


 見慣れた建物であるはずなのに、背景が森へ変わっただけで、ひどく頼りなく見えた。


「まずは、建物が見える範囲を調べよう」


 委員長が言った。


 声は落ち着いていた。


 右手には強剣。左手には強盾。


 クラスで最も堂々とした装備だった。


「危険を感じたら、すぐ戻る。深追いはしない。勝てるか分からない魔物と出会った場合も、戦わずに退く。それでいいな?」


「異議なし」


 巧が軽く答えた。


「本田君の予感は、今のところ何か感じる?」


 花ちゃんに尋ねられ、拓斗は意識を森へ向けた。


「何も。ただ、このスキルがどういう形で危険を知らせるのか、まだ分からない。何も感じないから安全だとは思わないでくれ」


「分かった。細川君は?」


「俺も特に何も。音は拾ってるけど、知らない音ばかりだから、どれが危険なのか判断できない」


 春樹は風魔法で、周囲の音を集めようとしていた。


 葉の擦れる音。


 羽ばたき。


 枝の上を何かが走る音。


 遠くで、硬いものがぶつかるような音も聞こえる。


 情報は増えたが、その意味が分からない。


 森の常識を持たない者にとっては、雑音が大きくなっただけだった。


「では、行こう」


 委員長が歩き出した。


     ◇


 森に踏み込んでからしばらく、七人はほとんど話さなかった。


 委員長は一歩進むたびに左右を確認している。


 木の陰を見る。


 頭上を見る。


 草むらが揺れれば立ち止まり、枝が落ちれば盾を構える。


 そのたびに、後ろの六人も足を止めた。


 十分ほど進んだところで、巧が拓斗の隣へ寄った。


「拓斗」


「何だ?」


「委員長、相当びびってないか?」


「やっぱり、そう見える?」


「見える。あれだけ何度も振り返られると、こっちまで不安になる」


 先頭を歩く委員長の背中は、きれいに伸びている。


 歩き方も慎重で、指示も間違っていない。


 ただし、盾を握る手には必要以上の力が入っていた。


 少し後ろを歩く花ちゃんも、それに気づいているらしい。何も言わず、委員長が立ち止まるたびに反対側を確認している。


 実際のところ、委員長以外の六人は、驚くほど平静だった。


 精神スキルを持つ拓斗、春樹、巧、花ちゃん、和樹は、未知の森に対する恐怖を感じても、それに思考を邪魔されない。


 山ちゃんは精神スキルを持っていない。


 しかし、山や森に慣れている。


 獣の気配にも、足場の悪さにも、草むらの向こうが見えないことにも慣れていた。


 彼にとって未知なのは、ここが異世界であることと、何が生息しているか分からないことだけだった。


 委員長だけが、茂みの奥から巨大な魔物が飛び出してくる光景を何度も思い浮かべていた。


 それでも先頭を譲ろうとはしない。


 怖がっていることを認めるより、自分が先頭を歩くべきだという責任感の方が強いらしい。


 しかし、何も起きなかった。


 十五分。


 二十分。


 三十分。


 最初は恐る恐る進んでいた七人も、やがて森そのものを観察する余裕が出てきた。


 木々の間隔は広く、地面まで光が届いている。


 腰ほどの高さの草が密集している場所もあれば、苔と落ち葉しかない場所もある。


 赤い実をつけた低木。


 掌より大きな葉。


 幹から透明な樹液を垂らしている木。


 見慣れたシダ植物に似たものもあったが、本当に同じ種類とは限らない。


「拓斗、あそこ」


 春樹が小声で呼んだ。


 木の根元に、小さな穴がいくつも空いている。


「何かの巣か?」


「分からない。近づかない方がいいな」


 拓斗たちが穴を避けて進む一方、山ちゃんは別のものを見ていた。


 地面に残った小さな足跡。


 草の倒れ方。


 樹皮についた傷。


 動物が通ったらしい細い獣道。


 それらを確認しながら、一定の距離を進むたびに足を止める。


 ある木の幹には細い蔓を結ぶ。


 次の場所では、石を三つ積み重ねる。


 さらに次の場所では、木の根元へ折った枝を突き刺した。


 目印は、来た方向からだけ分かりやすく、離れた場所からは目立たないよう工夫されている。


 巧がそれに気づいた。


「山ちゃん。それ、帰りの道しるべ?」


「それもあるけど、マッピングの準備」


 山ちゃんは周囲を見回し、歩数を数えるように地面を指した。


「だいたい五十メートル間隔でマスを切る。帰ったら方眼に起こして地図を作る。教室を中心にして、どこに何があったか記録していく」


「山ちゃん、そういうの得意だった?」


「山へ入るときの基本だろ」


「高校生の基本ではないと思う」


 山ちゃんは返事をせず、途中で見つけた植物を指さした。


「教室の周りだけでも、役に立ちそうな植物が相当自生してる。あの蔓はかなり丈夫そうだ。こっちの葉は大きいから、敷物か屋根に使えるかもしれない。あの木の樹液は、接着剤か燃料になる可能性がある」


「食べられる?」


「それは知らない」


「一番大事なところじゃない?」


 花ちゃんが言うと、山ちゃんは肩をすくめた。


「知らないものをいきなり食べる方がおかしい。だから、地図に場所だけ書いておく。今は分からなくても、後で役に立つかもしれない」


 委員長が振り返り、山ちゃんのつけた目印を見る。


「山ちゃん。帰ったら地図作りを頼めるか?」


「ああ。紙はないけど、ホワイトボードならある」


「消したら全部なくならないか?」


 和樹が口を挟む。


「最初はそれでいい。木魔法の連中に薄い板を作ってもらえたら、あとで写す」


「なるほど」


 巧が感心したようにうなずく。


「最初の探索に山ちゃんを入れたの、正解だったな」


「俺が自分から立候補したみたいに言うなよ。和樹が勝手に押し出したんだから」


「来てよかっただろ?」


 和樹が尋ねる。


「森を知らないやつだけで来るよりはな」


 山ちゃんはそう答えながら、次の木にも目印をつけた。


     ◇


 最初に異変へ気づいたのは、春樹だった。


「何かいる」


 七人が同時に止まる。


 春樹は右前方の茂みを指した。


「草を食べてる。音は一匹分だと思う」


 委員長が盾を構え、慎重に前へ出る。


 花ちゃんと巧が、その左右へ少し間隔を空けて続く。拓斗たちはさらに後ろで、逃げ道を確保した。


 茂みの向こうにいたのは、白い獣だった。


 長い耳。


 丸い目。


 太い後ろ脚。


 形だけを見れば、ウサギにしか見えない。


 ただし、異常に大きい。


 地面にうずくまっていても、秋田犬ほどの大きさに見える。少なくとも十キロはあるだろう。


「でかいな」


 巧が小声で言う。


「突っ込まれたら、普通に痛いぞ」


 ウサギらしき魔物も、こちらに気づいた。


 長い耳を立て、草を食べるのをやめる。


 委員長が剣を抜いた。


 強盾を正面へ構え、一歩ずつ距離を詰める。


 魔物は動かない。


 委員長も急がない。


 間合いに入る直前、剣を持つ手を上げる。


 その瞬間、ウサギは身体を翻した。


「あっ」


 茂みの奥へ飛び込み、白い尾が二度ほど見えたかと思うと、そのまま消えた。


 委員長は剣を構えたまま立ち尽くした。


「……逃げた」


「そりゃ、あれだけ正面から近づけば逃げるだろ」


 春樹が言った。


「春樹、先に言ってくれ」


「俺も、あんなに速いとは思わなかった」


 山ちゃんは、ウサギが消えた方向を見ていた。


「逃げるってことは、少なくとも積極的には襲ってこない。最初の獲物は、あのウサギにしよう」


「捕まえられるのか?」


「次に見つけたら、近づかずに石を投げる。俺と和樹には投的がある。春樹の風魔法も使えるだろ」


 委員長は剣を収めた。


「最初は、逃げる獲物を狙うのか。安全な選択だ。それでいこう」


 拓斗は黙っていた。


 逃げる獲物は、こちらへ向かってくる敵より当てにくい。


 襲ってこないという意味では安全だが、狩りの難易度まで低いわけではない。


 山ちゃんも当然分かっているはずだ。


 それでも、未知の獣を相手にするなら、捕食者より草食獣を選ぶ方がよい。


 最初の獲物としては、間違っていなかった。


     ◇


 同じ頃、教室に残った三十二人は、転移してきた施設の確認を進めていた。


 使えるのは教室一室と廊下。


 二階へ続いていたはずの階段はなく、校舎はそこで終わっている。


 外から見ても、森の中へ都合よくその部分だけが切り取られていた。


 隣には部室棟。


 八つの部室と男女のトイレ、シャワー室がある。


 水道からは、透明で臭いのない水が出た。


 照明も使える。


 電気の供給元は不明だが、スイッチを押せば点灯する。


 部室の扉には鍵がついている。


 しかし、本来そこにあった机、棚、運動用具、楽器、工具などは、すべて消えていた。


「ご都合主義じゃん」


 誰かが言った。


「仕方ないだろ。ハードモードだと俺たち、すぐ死んじゃうからな。創造主様が気を使ってくれたんだよ」


「だったら食堂くらいつけてくれよ」


「調理室もないよ」


 全員の冒険者セットには、洗面器ほどの大きさの鍋、食器、ナイフが入っている。


 料理はできる。


 だが、三十九人分の食事を、小さな鍋を並べて作ることになる。


「水はあるけど、火はどうするの?」


「火魔法を取った人がいるだろ」


「火魔法って、何もないところから炎を出せないんだって。燃やすものが必要らしいよ」


「じゃあ、薪を拾うしかないか」


 別の者たちは、建物の周囲を調べていた。


 全員が同じ説明を受けたわけではないが、教室と部室棟が安置であることを聞いた者は複数いる。


「安置って、どこまでだ?」


「建物の中だけじゃない?」


「外に出た瞬間襲われるなら、出入りもできないだろ。建物から十メートルくらいまでは安全なんじゃないか?」


「結界みたいなもの、見えないの?」


 何人かが建物の周囲を歩いてみる。


 透明な壁があるわけでも、境界線が光っているわけでもない。


 ただ、建物から十メートルほど離れたところで、空気の感触が変わると主張する者がいた。


「調理場と作業用の広場が必要だな」


 オタクトリオの大輔が言った。


 智也と雄介も周囲を見回している。


「お前、何でそんなに前向きなんだ?」


「野外活動は、足元が悪いと無駄に疲れるんだよ。雨が降って、調理場の足元がぬかるんでるキャンプ場なんか地獄だぞ」


「ここで暮らす気満々じゃん」


「今日中に帰れないなら、今日寝る場所は必要だろ」


 反論できる者はいなかった。


「木魔法で地面を固められるか?」


「土は無理。でも枝を加工して、すのこは作れる。屋根と調理台も欲しい」


「先に寝る場所じゃない?」


「部室が八つある。三段ベッドを作れば、一部屋六人は寝られる。四十八人分だ」


「今日中にできるの?」


「単純な枠ならできる。問題は寝床に敷くものだな」


「各自の毛布があるだろ」


「強服を持ってるやつは、それも敷けばいい」


「防具を布団にするの?」


「破れても直るし、汚れにも強い。高級寝具だぞ」


 周囲の視線が、忍やビキニ、魔法少女たちへ向かう。


 忍が冷たい声で言った。


「見るな」


 本人に羞恥心がないとしても、見られて不快になる感情まで消えているわけではなかった。


     ◇


 探索隊は、二匹目のウサギを見つけていた。


 今度は、最初から近づかない。


 山ちゃんが、掌に収まる程度の石を拾った。


 形と重さを確かめ、別の石へ持ち替える。


「和樹。俺が外したら次」


「ああ」


「春樹。逃げる方向を制限できるか?」


「強い風は出せない。右から風を当てて、左へ誘導するくらいならできるかも」


「十分」


 委員長が盾を構える。


 巧と花ちゃんは、ウサギがこちらへ向かってきた場合に備えて左右へ分かれた。


 拓斗は予感に意識を集中する。


「危険な感じはない。やってみよう」


 山ちゃんが投げた。


 石は目で追えないほどの速度で飛び、ウサギの横を抜けた。


 驚いたウサギが跳ねる。


 そこへ和樹の石が飛ぶ。


 今度は後ろ脚をかすめたが、仕留めるには至らない。ウサギは春樹の風をものともせず、茂みの奥へ逃げ込んだ。


「速過ぎるな」


 山ちゃんは悔しがるより、ウサギが動き出す直前の姿勢を思い返していた。


「動き出してから狙い直すのは無理だ。最初の一発で頭か胴体へ当てる」


「頭は小さい。胴体でいいんじゃないか?」


 和樹が言う。


「胴体に当てて死ななかったら、追いかけることになる。頭か、前脚の付け根。石はもう少し角のないものを使う」


 三匹目は外した。


 四匹目は、石が木に当たる音で逃げた。


 五匹目は、見つける前に春樹が枯れ枝を踏んでしまった。


「狩りって、もっと簡単じゃないの?」


 花ちゃんが小声で尋ねる。


「猟銃なら、もう少し楽だ」


 山ちゃんが答えた。


「山ちゃん、猟銃を使えるの?」


「使ったことはある」


「高校生だよね?」


「今は、その話をしてる場合じゃない」


 何度目かの試みで、ようやく山ちゃんの投げた石がウサギの頭部に直撃した。


 鈍い音がした。


 ウサギが横倒しになる。


 完全には死んでいない。


 四本の脚を不規則に動かし、地面の草をかきむしっている。


「当たった!」


 花ちゃんの声に喜びが混じる。


 だが、痙攣するウサギを見た瞬間、その喜びは消えた。


 委員長が近づく。


 ウサギはまだ生きている。


 鼻が動いている。


 喉から、小さく空気の漏れる音がする。


「委員長、首を落として!」


 山ちゃんが言った。


 委員長は強剣を両手で握った。


 刃を首へ向ける。


 振り上げる。


 そこで、動きが止まった。


 ゲーム画面の敵ではない。


 血の通った生き物が目の前にいる。


 苦しみながら、それでも生きようとしている。


 その命を、自分の手で終わらせなければならない。


「委員長?」


「分かってる」


 剣を振り下ろそうとする。


 腕が動かない。


 呼吸が浅くなる。


 強剣は普通の鉄剣より軽く感じられるはずなのに、今は持ち上げているだけで腕が震えた。


 拓斗は、すぐに理由を理解した。


 精神スキルだ。


 委員長だけが持っていない。


 現代の高校生が、十キロもある生き物の首を迷わず切れるはずがない。


 巧が横から手を出した。


「委員長。剣を貸して」


「いや、俺がやる」


「早く終わらせた方が、そいつも楽だ」


 巧は責めなかった。


 委員長の手から、ゆっくりと剣を受け取る。


 片膝をつき、刃の位置を確かめた。


 一度だけ息を吸い、ためらわず振り下ろす。


 首が落ちた。


 血が噴き出し、地面の草を赤く染めた。


 花ちゃんが顔を背ける。


 春樹は黙って口元を押さえた。


 精神スキルがあっても、何も感じなくなるわけではない。


 恐怖や嫌悪を抱いたままでも、それに行動を止められずに済むだけだ。


 委員長は、首を失ったウサギを見つめていた。


「巧……悪い」


「役割分担だよ。今のは俺ができた。それだけ」


 山ちゃんは冒険者セットからナイフを出し、近くの丈夫そうな蔓を切った。


 ウサギの後ろ脚を縛り、低い枝へ逆さに吊るす。首の切断面から、残った血が落ち始める。


「山ちゃん、何してるんだ?」


「血抜き。このまま持ち帰るよりいい」


「できるのか?」


「祖父ちゃんが猟師なんだ。猪の解体まで仕込まれてる。こいつは見た目こそウサギだけど、知らない動物だから、食える部位は帰ってから慎重に確認する」


 山ちゃんは、吊るした獲物の大きさを見積もった。


「この大きさだと、十羽は欲しいな」


「十羽?」


「一羽十キロとして、骨と内臓と皮を除いて、食べられる部分が五キロくらい。一人一日五百グラム食べるなら、三十九人で十九・五キロ。四羽で一日分」


「それなら四羽でいいだろ」


「今捕った肉を、今すぐ全部食うのか? このくらいの獲物なら、一日置いた方がうまいと思う。それに明日も同じ数を捕れる保証はない。最初に余裕を作っておくべきだ」


 巧が山ちゃんを見る。


「山ちゃん。その知識はおかしい」


「俺じゃなくて祖父ちゃんに言ってくれ」


「誉めてるんだよ」


 最初の一羽を仕留めたことで、狩り方が分かった。


 春樹が風でウサギの注意をそらす。


 拓斗が予感で周辺の安全を確認する。


 山ちゃんと和樹が投石する。


 逃げた場合は深追いしない。


 仕留めきれなければ、巧がとどめを刺す。


 委員長と花ちゃんは、別の魔物が現れた場合に備えて周囲を警戒する。


 役割が決まると、狩りの効率は急に上がった。


 二羽。


 三羽。


 五羽。


 投的スキルを持つ山ちゃんと和樹は、石を投げるたびに狙いが正確になっていく。


 七羽目を倒した頃には、和樹もとどめを刺せるようになっていた。


 委員長は、そのたびに近くまで来た。


 剣へ手をかける。


 それでも最後の一歩を踏み出せない。


 誰も急かさなかった。


 日が傾き始める前に、十羽目のウサギを仕留めた。


 目標達成だった。


     ◇


 一行は、木の枝へ吊るしておいたウサギを順番に回収しながら帰路についた。


 マジックボックスを持つ者は多い。


 しかし、時間停止状態で血抜きまで止まる可能性があったため、最後まで枝へ吊るしておいた。


 十分に血を抜いた獲物を、花ちゃん、巧、拓斗、春樹、和樹のマジックボックスへ分けて収納する。


 冒険者セットの小型マジックボックスではなく、スキルとして取得した二メートル四方の大容量型である。


 大きなウサギでも、余裕を持って収められた。


 帰路は、山ちゃんがつけた目印を逆にたどる。


 迷う気配はない。


 春樹が、最初の一羽を吊るした場所で周囲を確認した。


「よく獲物を、ほかの魔物に取られなかったな」


 山ちゃんは、荒らされた形跡のない地面を見る。


「取られなかったということは、安全のサインだ。この辺りには、昼間に動く肉食の魔物がいない可能性が高い」


「拓斗の予感も反応しなかったしな」


「今日はな。夜になったら出てくるかもしれないから、断定はできない」


 拓斗が注意すると、山ちゃんはうなずいた。


「地図には『昼間は比較的安全』と書いておく」


 花ちゃんのマジックボックスには、ウサギだけでなく、採集した植物も入っていた。


 葉。


 木の実。


 柔らかい茎。


 根の一部。


 その種類はかなり多い。


 花ちゃんが、隣を歩く和樹を見た。


「伊沢君。食べられそうな草を片っ端からかじるって、どんな神経をしてるの?」


「俺はヒールを信じる」


「ヒールは毒も治せるの?」


「少なくとも、腹痛は治せそうだろ」


「試す前に確認しなかったの?」


「確認する方法が、食べる以外にない」


 和樹は少量を口に含み、舌の痺れや苦味、喉の違和感を確かめていた。


 異常を感じたものは、すぐに吐き出す。


 少し時間を置いて問題がなければ、今度はもう少し多く食べる。


 精神スキル、ヒール、木魔法。


 それらを組み合わせ、自分の身体を毒見に使っていた。


「おかげで、サラダの材料は揃った」


 和樹が言った。


「安全が証明されたわけじゃないからな」


 拓斗が念を押す。


「教室に帰ったら、まず俺が食べる。数時間たって問題がなければ、少しずつ試してもらう」


「ヒール役が腹を壊したらどうするんだ?」


 春樹が尋ねる。


「そのときは五光さんか、伊藤さんに頼む」


「他人のヒールを当てにしてたのかよ」


「回復役は三人いる。役割分担だ」


 巧が笑った。


「和樹、思ったよりむちゃくちゃだな」


 獲物は確保した。


 食べられる可能性のある植物も見つけた。


 帰り道も分かる。


 初めての探索としては、予想以上の成果だった。


 それでも、七人の空気は明るくなりきらない。


 原因は、先頭を歩く委員長だった。


 背筋は伸びている。


 足取りもしっかりしている。


 赤いマントも勇者らしく揺れている。


 しかし、その顔からは表情が消えていた。


 目から光が失われ、無表情な人形のように、山ちゃんのつけた目印だけを追って歩いている。


 巧が声を潜めた。


「委員長、大丈夫かな」


「大丈夫じゃないだろうな」


 拓斗も小声で答える。


「でも、怪我はしてない」


「帰ったら解体だろ?」


「ああ」


 七人の視線が、獲物を収めたマジックボックスへ向く。


 血抜きだけで終わりではない。


 皮を剥ぎ、腹を割き、内臓を取り出し、肉を切り分けなければならない。


 それを三十九人分、十羽。


 春樹が、心から気の毒そうにつぶやいた。


「委員長、死ぬな……」


 教室の建物が、木々の間から見えてくる。


 待っていたクラスメイトたちが七人の姿に気づき、昇降口から飛び出してきた。


 食料を手に入れた。


 今日は飢えずに済む。


 その喜びが教室全体へ広がるまで、あとわずかだった。


 そして、その食料が先ほどまで生きていたものだと、全員が理解するまでにも。


 あとわずかしかなかった。

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