表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「放っておけないんだ」と仰るあなたを、私は放っておきます  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

第1話 三度目の「席を譲ってくれないか」


王宮大広間の長卓に、席次表を広げる。


紙の右上、わたくしの指が触れた場所に、いつもよりほんの少し濃いインクで書かれた名前があった。


ジゼル・オルランド。その左に、レオン・ファルドーニュ。四年で五回しか並んだことのない、二つの名前だった。


「ジゼル様、こちらが本日の最終版でよろしいでしょうか」


筆頭給仕長が、慣れた手つきで束を揃えてくれる。隣国ヴァロワール王国の外交特使ベルナール卿の席は、王族席のすぐ近く。これだけは、誰がどう異論を挟もうと動かせない。今夜は単なる祝賀ではなかった。婚約四周年の記念夜会は、王家が「この婚約をもって王太子妃確定の宣言とする」公的儀式でもあった。隣国の外交特使も参列するこの場で、席次の一つの揺らぎが、外交上の記録に残る。


「ええ、これで参りましょう」


声が掠れた。それを誤魔化すように、紙の角を揃え直す。


控室へ戻る廊下に、自分の靴音が落ちる。磨きすぎた床は、いつ歩いても少し滑る。四年前、わたくしは婚約発表の夜会で初めてこの大広間に立った。十八歳の春のことだった。あの夜、レオン様の左隣にはノエル・ブランシュ伯爵令嬢が座っておられた。「すまない、彼女、最近塞ぎ込んでいて、放っておけないんだ」――レオン様はそう仰った。一度だけのことだと、わたくしも思った。二度目は、王太子候補発表の式典だった。「君なら分かってくれると思っていた」。


控室の鏡台の前に座って、侍女のマリーが薄水色のドレスの裾を整えてくれる。


「お嬢様、お疲れではございませんか」


「いいえ、大丈夫よ」


口は勝手にそう答えた。けれど鏡の中のわたくしは、四年前より少しだけ目の下が暗かった。マリーは黙って櫛を動かし続ける。何かを言いそうな間が、二度ほどあった。結局、何も言わなかった。


夜会開始までの二時間が、奇妙に長かった。


 


ノックの音が、開始の十五分前に響いた。


「ジゼル、少しいいか」


レオン様だった。礼服の襟元が、いつものように少し緩い。彼はこういう時、姿勢の崩れに気づかない人だった。


「殿下、本日はお越しが早うございますね」


「いや、それが――先に伝えておこうと思って」


申し訳なさそうな笑みが、わたくしの正面で作られた。


「今夜の隣の席、ノエルに譲ってあげてくれないか。彼女、塞ぎ込んでいて、放っておけないんだ」


時計の振り子が、二度、揺れた。


「殿下、本日は……」


「分かっている、すまない。けれど一夜だけだ。君なら分かってくれるだろう」


三度目だった。一度目は婚約発表の夜会、二度目は王太子候補発表の式典、そして今夜は、四周年の記念夜会――王太子妃確定の宣言の夜。


控室の卓に、半分残った紅茶が冷えていた。マリーが朝に淹れてくれた、薄い薔薇蜜茶。湯気はとっくに消えていた。わたくしはなぜか、そのカップの縁を指でなぞった。


「ジゼル?」


「――承知いたしました、殿下」


口の中で、別の言葉が一つ、形になりかけて、飲み込まれた。


レオン様は、ほっとしたように肩を緩めて辞した。扉が閉まる音が、思ったより乾いていた。


マリーが、櫛を握ったまま、動かなくなっていた。


 


大広間の扉が開かれる。


楽団の最初の音が落ちて、参列者たちが一斉に頭を垂れた。王妃クロディーヌ陛下のお出ましだった。陛下の薄紫の裳裾が、敷かれた絨毯の上を流れていく。


わたくしは上座のすぐ手前に立っていた。そして、自分の足が用意された席に向かって動かないことに気がついた。そこは、四年で五回しか座ったことのない席だった。今夜、王太子妃確定の宣言が読み上げられる、その隣の席だった。


ノエル様が扇を胸の前で握りしめながら、迷うように王族席の端に立っておられた。今夜こそ、と思っておられたのかもしれない。レオン様が小さく彼女に頷きかけたのを、わたくしは見た。


わたくしの足が動いた。けれど、自分の席に向かってではなかった。ノエル様の前に立つ。


「ノエル様、どうぞ。レオン様が、放っておけないそうですから」


短い案内だった。


ノエル様の頬が、僅かに紅潮した。


「ジゼル様、ご親切に……」


その先の言葉を、わたくしは待たなかった。代わりに、王妃陛下のいらっしゃる方向へ、ひと呼吸長い一礼を取った。陛下の御顔が、ゆっくりとわたくしの方を向いた。陛下は何も仰らなかった。ただ、一度だけ、ご自身の頷きを目に見えるくらいお下げになった。


それで、十分だった。


わたくしは、本来座るべき席ではなく、広間の隅――参列者ではなく、整える者として立つ場所へ移動した。給仕長が一拍だけ呼吸を止め、すぐに何事もなかったかのように、葡萄酒の瓶を持ち直した。


近くに座っていた老侯爵夫人デルフィーヌ様の扇が、片手の中で、ぱちりと閉じた。その音は楽団の音にかき消されるほど小さかった。けれど、夫人と目が合った瞬間、その視線が二年前にも一度、同じようにわたくしへ向けられたことを思い出した。二年前、わたくしが整えた席次表を、夫人がそっと指で撫でておられた朝のことを。


 


広間のずっと向こう、王族席から少し離れた外交席。


隣国ヴァロワール王国の王弟、アルベリク・ヴァロワール殿下が、卓上の小さな冊子に視線を落としておられた。それは、わたくしが今朝、ベルナール大使に届けた席次表の写しだった。


殿下は、写しから顔を上げ、わたくしが立つ広間の隅を、まっすぐにご覧になった。そして、頷かれた。誰の合図でもなく、誰のための合図でもないように見えた。


それでも、その一拍だけ、わたくしの心臓が一度だけ遅れた。


 


夜会の最初の挨拶が始まる。


王太子妃確定の宣言は、結局、今夜は読み上げられなかった。国王陛下が一度だけ王妃陛下と目を合わせ、王妃陛下が短く首を振られたからだった。


わたくしは、それを広間の隅から、整える者として見ていた。レオン様の手が、隣の席に座ったノエル様の方へ伸びかけて、途中で止まった。ノエル様はそれに気づかないようだった。


 


控室に戻る廊下、自分の靴音だけが響いていた。ドレスの裾が、磨かれた床の上を、思ったよりも軽く滑った。四年分の重さが、本当にそこに乗っていたのか、急に分からなくなる。


唇が、勝手に動いた。


「では、わたくしも、放っておきますね」


誰にも届かない呟きだった。けれど確かにわたくし自身には届いた、四年で最初の言葉だった。


 


翌朝、机の上に婚約契約書の写しを広げる。


第七条。「双方の名誉が公の場で守られない場合、契約当事者本人は解消を申し出ることができる」。インクが四年前にしては少し褪せている。


わたくしは、新しい羊皮紙を一枚引き寄せた。王妃陛下への謁見申請書だった。


ペン先を浸す前に、卓の上に冷めた紅茶のカップが置かれていることに気がついた。朝、マリーが淹れてくれた薄い薔薇蜜茶だった。何度温め直してもらっても、わたくしはどうも、紅茶を冷ましてしまう癖がある。


ペン先がインクに触れる。最初の言葉を書こうとした手が、一度だけ止まった。四年前の婚約発表の夜の、レオン様の「放っておけないんだ」という声が、耳のずっと奥でもう一度だけ鳴った。それから、何も鳴らなくなった。


わたくしは、書き始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ