コウノトリの甘い罠
「いい人」で油断させ、「きっちりした人」で信頼を築く。そして最後、トドメに必要となるのが「頼りがい」……。
山本部長の講義は、ついには倫理の境界線を飛び越え、一種の宗教か催眠術のような領域へと突入していきました。
「客はな、後ろの座席から営業マンの背中をよ〜く観察しとる。そこを忘れんな!」
部長の声に、私は思わず背筋を伸ばした。
「富ちゃん、入社して一ヶ月やな。客に聞かれたら『五年目です』と言い切れ」
「ご、五年!? 部長、僕まだ何にも分からないですよ!」
驚愕する私を、部長は「あほっ!」と一喝した。
「一ヶ月なんて正直に言ってみぃ、なめられるだけや。客はお前をプロやと思って来とるんや。『分かりません』『調べます』は禁句や。この地域のドブ板の数まで知り尽くしてる……そう思わせるのがプロや!」
「でも、地理も不動産の知識もまだ……」
「適当でええねん! 適当で!」
部長は事もなげに言い放つ。
「小児科どこですかって聞かれたら、適当に『山本小児科が400メートル先にあります』とはっきり言え。近くに一個くらいあるもんや。もし無かったら後で『去年つぶれたらしいですわ〜』と言えばええ。客はいちいち名前まで覚えとらん!」
目の前のパンチパーマの怪人が、恐ろしい詐欺師に見えてきた。しかし、部長の「教育」は止まらない。
「そして客が一番怖いのは欠陥住宅や。だから聞かれる前にこっちから仕掛けるんや。建築のプロみたいな顔して、壁を叩き、床の軋みをチェックし、基礎をコンコンと叩いてこう言うんや」
部長は立ち上がり、事務所の壁を神妙な顔で叩いて見せた。
「『……うーん! さすが大工の山田さんやな。今回もしっかり建てとるわ』」
「……山田さん?」
「そうや。適当な名前や。続けてこうや。『この山田さんね、この地域じゃ有名な腕利きで、人気あるんですわ〜』。これ一言で客の不安は吹っ飛ぶ。客はキラキラした目で、お前を『頼りがいのある担当や!』と信じ込むわけや」
デタラメだ。あまりにもデタラメすぎる。
「そんな嘘ばかり……後が怖くて、僕には自信がないです」
私が垂れると、事務所の空気が一変した。
山本部長が、私の顔をじーっと見つめてきた。
その目は、先ほどまでの荒々しさが消え、深く、静かで、まるで湖の底のように落ち着いていた。
「ええか、富ちゃん……」
部長の声が、耳元で囁くような、催眠術じみた低音に変わる。
「客にしたらな、一生に一度の大きな買い物や。何千万もの借金を背負うんや。そらぁ怖い。怖くてたまらんのや。でもな……買いたいんや。自分の城を持ちたいんや。悩んで悩んで、巣立ち寸前の雛鳥みたいに震えとるんや」
私は部長の言葉に、吸い込まれるように聞き入っていた。
「ワシらはな、その震えてる雛鳥の背中を、ちょいっと押してあげるだけや。嘘も方便や。ワシらは、不動産という素晴らしい財産を運んでやる『コウノトリ』なんや……わかるか? ちょっとした嘘で、客は幸せな財産を手に入れられるんやで」
その瞬間。
部長の瞳の奥で、何かが「ピカっ」と鋭く光ったように見えた。
「(コウノトリ……嘘で、人を幸せにする……?)」
頭の中が真っ白になり、軽い眩暈がした。
善と悪、真実と虚構が、部長の吐き出すタバコの煙の中で混ざり合っていく。私は、自分が「得体の知れない巨大な何か」の渦に飲み込まれていくような、抗いがたい感覚に襲われていた。
気がつくと、私は小さく頷いていた。
よいこ不動産、守口支店。
この狂ったような「パンチパーマの聖域」で、私はついに、一線を越えようとしていた。




