不動産のいろはの「い」
「お客さん! 本当にいい物件が出たみたいですよ! 今すぐ見に行きましょう!」
横田課長の興奮気味な声に煽られ、黒塗りのクラウンは現場へと急行した。
到着した物件は、それまでの「ゴミ屋敷」同然の代物とは月とスッポンだった。外観は手入れが行き届き、内装も驚くほど綺麗。私が見ても「これは売れる」と直感するクオリティだ。
「こ、この家は……いいですね!」
お客様の目が、子供のように輝きだす。しかし、世の中そんなに甘くはない。
「横田さん、これ、おいくらですか?」
「2500万円です。お客様の予算より、少しオーバーですかね」
横田課長は、お茶をすするような平然とした態度で言った。
「500万円もオーバーですよ!『少し』どころじゃない!」
当然の悲鳴が上がる。しかし、横田課長の顔には、獲物を網に追い込んだ猟師のような不敵な笑みが浮かんでいた。
「ご主人、500万円と言ってもね、月々の支払いに直せば、たったの2万円アップですよ」
横田課長は、まるでお小遣いの相談でもするかのように身を乗り出した。
「ご主人、お酒は飲まれます? 会社の付き合いなんかで、毎月いくらくらい使ってはります?」
「それは……まあ、5万円くらいは使ってますかね」
ご主人が奥様をチラリと盗み見る。その瞬間を、横田課長は見逃さなかった。
「でしょう! そのうち2万円分だけ、節約してくれませんか? それを我慢するだけで、こんなに素晴らしいマイホームが手に入るんですよ!」
「うーん……でも……」
決断のつかないご主人。ここで横田課長は、トドメの一撃を放った。ターゲットは、横で物件に惚れ込んでいる奥様だ。
「奥さんはどうです? ご主人が2万円節約してくれたら、理想の家は手に入るわ、旦那の帰りは早くなるわで、一石二鳥じゃないですか!」
「あなた! 2万円くらい、節約できるでしょ!」
奥様の鋭い声が響いた。勝負あり、だ。
「……じゃあ、この物件で決めましょう!」
その一言で、2500万円の契約が成立した。
帰りの車中、横田課長は助手席で運転する私に低く小声で、重みのある声で囁いた。
「富ちゃん、よー覚えときや。これが不動産のいろはの『い』や」
それは、あまりにも鮮やかな「三段跳び」の演出だった。
引物: チラシで客を釣るための、安くて良さそうな架空に近い物件。
当物: 汚いボロ物件を見せつけ、客を絶望させ、現実の厳しさを植え付ける。
決物: 予算オーバーだが最高の物件。そこへ「テンプラ」の演出で緊急性を煽り、一気に畳み掛ける。
「(こんな見え透いた芝居で、一生の買い物を決めてしまうのか……)」
私はハンドルの感触を確かめながら、深い溜息をついた。
感動よりも先に、人間の心理の脆さと、それを手玉に取るパンチパーマの男たちの恐ろしさが、胸に突き刺さっていた。
「富ちゃん、次は君が『テンプラ』揚げる番やで」
バックミラーに映る横田課長の鋭い目が、私のリクルートカットを射抜いた。
私はこの時、この「パンチパーマ帝国」で生きていくための覚悟が、まだ一ミリもできていないことを痛感していたのである。




