沈黙の車内と、五ヶ月の胎動
パンチパーマの怪人、田山係長を運転手に従え、私の「初陣」は幕を開けました。
助手席でニヤニヤと「エッチなことでも考えとけ」と茶化す係長。しかし、私はハンドルを握る彼とは対照的に、胃がキリキリと鳴るほどの緊張感の中にいました。
学んできた「いろは」を、一滴も漏らさず使い切る。
その覚悟が、思いもよらない「観察眼」を覚醒させることになったのです。
「よいこ不動産の富山です」
吉田さん夫妻を迎えた私は、あえて笑顔を封印しました。山本部長直伝の「最初はムスッとしとけ」作戦です。愛想の悪い若造を演じることで、お客様の警戒心を引き出し、後で出す「笑顔」の価値を最大化する。
吉田さん夫婦は、私の冷ややかな態度に少し身を縮め、緊張した面持ちで車に乗り込みました。
「では、田山さん。物件までよろしくです」
「はい! 出発しまーす!」
バスの運転手のような田山さんの快活な声が響きましたが、私はルームミラー越しに後部座席を凝視するのみ。車内には、墓場のような重苦しい沈黙が流れました。
耐えかねた田山さんが、運転しながら私の膝をツンツンと突き、「なんか喋れ!」と合図を送ってきますが、私はそれすら無視しました。
沈黙。それは、お客様が「自分たちの世界」に入り、物件への期待を膨らませるための時間。
私はミラー越しに、奥様が時折お腹をさするように、大切に手を添えている姿を見逃しませんでした。
森脇宅に到着した瞬間、私はついに刀を抜きました。
車を降り、吉田さん夫婦と向き合った刹那、満開の桜のような「笑顔」を向けたのです。
「どうです? なかなか良い家でしょう?」
それまでの鉄仮面が嘘のような、私の「必殺・富ちゃんスマイル」。
緊張の糸が切れたように、吉田さん夫妻も「そうですね……」と、はにかんだ笑顔を見せてくれました。心の壁が崩れた、確かな手応え。
畳みかけるように、私は一言添えました。
「吉田様、内覧は二〇分以内でお願いしますね。実は、次のお客様の案内が控えてるんです」
「次」などいません。完全な嘘です。しかし、この一言で吉田さんの目は「見学モード」から「争奪モード」へと切り替わりました。
家の中に入ると、奥様の動きが変わりました。
キッチンの扉を何度も開け閉めし、レンジフードのスイッチを入れる。そして、何もない空間をじっと見つめ、視線を左右に動かす……。
「(冷蔵庫と食器棚の配置を確認している……これは『決め行動』だ)」
私は確信しました。奥様は、もうこのキッチンで料理を作る自分の姿を想像している。
続いて二階。四畳半の小部屋で、私はご主人に問いかけました。
「ご主人、この部屋。四畳半ですが、二方向に窓があって風通しがいい。子供部屋には最適だと思いませんか?」
「なるほど……」
吉田さんが空中に勉強机を描くような目線を送った後、ふと我に返ったように言いました。
「でも、うちにはまだ子供はいませんよ?」
「ええ。でも奥様、妊娠しておられますでしょう?」
「な、なな……なんで分かったんですか!? まだ五ヶ月で、お腹も出てないのに……」
吉田さんが、幽霊でも見たかのように絶句しました。
私はははは、と軽やかに笑ってみせました。
「なんとなく、歩き方で分かったんですよ。車に乗る時、階段を上がる時。大切に、大切に歩いておられましたから」
「そ……それで、もう一人の運転手の方も、あんなに運転が丁寧だったんですね……」(まあ運転は関係ないけど)
吉田さんの信頼の眼差しが、私と、そして運転席で「えっちなこと考えとけ」と言っていた田山係長に向けられました。
隣にいた田山係長は、口をあんぐりと開け、私を化け物を見るような目で見つめていました。
「(富ちゃん、お前……そんなことまで見てたんか!?)」
係長の心の声が聞こえてくるようでした。
「妊娠五ヶ月、子供部屋、そして丁寧な運転」。
すべてのピースが、吉田さん夫婦の「この人なら信頼できる」という確信へと繋がっていく。
部長の教えを忠実に、いや、それを超えるほどの鋭さで実践した私の初陣。
クロージングの鐘が、今、高らかに鳴り響こうとしていました。
■業界用語解説:決め行動
「決め行動」とは、内覧中のお客様が見せる「購入を前向きに検討しているサイン」のことです。
具体例: 家具の配置を具体的にシミュレーションする(メジャーで測る、壁を見つめる)、近隣のスーパーや学校の場所を詳しく聞く、何度も同じ場所を確認するなど。
営業のポイント: このサインを見逃さず、背中を押し、具体的な生活イメージをさらに膨らませることで、契約へと導きます。
富ちゃんの観察眼、恐るべし!
「歩き方」で妊娠を見抜くという、かつての「お人よし」とは思えない洞察力に、あの田山係長も脱帽の様子です。
吉田さん夫婦は、このまま一六八〇万円の判を突くのか? 次回、ついに衝撃のクロージングへ!




