初陣、一六八〇万円の獲物
「おざい〜っす!」の怒号が響く、決戦の土曜日。
運命のジャンケン。私は拳に全神経を集中させ、見事に「一番接客」を勝ち取りました。
かつてはリクルートカットの大人しい青年だった私が、受話器を握る手には汗がにじみ、腹の底では「獲物」を待つ狩人のような鼓動が鳴っていました。
トゥルルルル〜!
「はい! お電話ありがとうございます! 住まいの『よいこ不動産』です!」
私の声は、自分でも驚くほど張りがありました。
「……あ、すみません。チラシを見たのですが」
電話の主は、消え入りそうな、弱々しい声の男性でした。
(「気の弱そうな客は決まる」……部長の言葉通りや!)
私は内心でガッツポーズを作りながら、喉の奥から「営業用の声」を絞り出しました。
「チラシをご覧になられたのですね。ありがとうございます! どちらの物件がお気に留まりましたか?」
「はい……藤田町五丁目の、一六八〇万円の物件ですが……」
脳内に、あの「一二〇〇万」を「一六八〇万」に化けさせた森脇さんの図面が浮かびました。田山係長と一緒に夜中三時にチラシを抜きに歩いた、あの因縁の物件です。
「ああ、藤田町ですね! いやぁ、もう朝からバンバン問い合わせが来てましてね……」
口から出たのは、自分でも呆れるほどさらりとした嘘でした。
実際にはこれが本日最初の一本目。なのに、私は「大人気物件」を演じることに何の躊躇もなくなっていました。
「……そうですか。じゃあ、もう売れそうなんですね」
お客様の声がさらに沈みます。
「いえいえ! 今日からの販売ですから、まだ決まってはいませんよ。でも、これだけ反響があると、すぐなくなるかもしれませんね」
たたみかける私。
「あ、そうだ! もしよろしければ、今から見に行きませんか? すぐにお迎えに上がります!」
面白いように、案内が取れました。これが、山本部長や中田主任の背中を見て盗んできた「営業の呼吸」なのか。
「部長! 即案、取れました!」
意気揚々と報告する私を、部長はニヤリと見つめました。
「おお、やったの! で、どこや」
「藤田町の一六八〇万。森脇さんとこですわ」
その瞬間、田山係長が身を乗り出しました。
「ほう、部長。なんならわしが同行しまひょか?」
「おお。……ただし、ヘルプ(運転手)に徹しろよ。助言は一切なしや」
部長の厳しい条件に、田山係長が目を丸くしました。
「なんでですのん? 富ちゃん初めてやし、かわいそうですやん」
「あのな、田山。富ちゃんを甘く見るなよ。こいつはお前らの行動をじっくり観察しとる。おまけに大切なことはこそっとメモっとるで」
「め……メモってるんでっか? 知らんかったわ……きっしょ」
田山係長が、初めて私を「得体の知れない新人」として見るような視線を送ってきました。
「そや。今までお前らからどれだけ盗んだか、わしは見てみたいねん」
「……わかった。ほな今回は契約がダメでも文句なしですな。ガハハ!」
「ぶふふ。わからんで。何事も見てみんことにはな」
部長と係長の不敵な会話を背に、私は重い足取りで駐車場へ向かいました。
「富ちゃん。言っとくけど、わしは一言も助言せーへんからな」
助手席に座る田山係長の横顔は、いつもの「教える先輩」ではなく、冷徹な「試験官」のそれでした。
胃のあたりがキリキリと痛み出す。
嘘八百のチラシ、三〇〇万の上乗せ、中間省略の闇……。
それらすべてを背負って、私は初めて一人でお客様の前に立とうとしていました。
「(やるしかない……全部、見てきた通りに……!)」
冷や汗を拭い、私は車を走らせました。
初陣の相手は、弱々しい声の男性。
嘘を真実へと変え、判を突かせるための「地獄の案内」が、今、始まろうとしていました。
■業界用語解説:即案
「即案(即案内)」とは、電話反響があったその瞬間に、お客様を現地案内へ連れ出すことです。
重要性: お客様の「買いたい」というテンションは、チラシを見た瞬間が最高潮です。時間が経つと冷静になったり、他社へ流れたりするため、不動産営業では「鉄は熱いうちに打て」を地で行くこのスピード感が成約の鍵を握ります。
富ちゃん、ついに独り立ちですね!
田山係長が沈黙を守る中、富ちゃんはこれまでに学んだ「いろは」をどう使いこなすのか。
「山本小児科」や「大工の山田さん」は登場するのか……? 次回、決戦の現地案内編へ!




