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悪徳不動産  作者: Estate-K
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沈黙の帰路と、逆転の「事務所(マル決部屋)」

 田山係長の「レーサー気取り」の運転が、この時ばかりは「妊婦への配慮」という神の一手にすり替わる。私の観察眼と、係長の奇跡的な安全運転。その偶然が重なり、吉田さん夫婦の心には「この不動産屋さんは信頼できる」という決定的なくさびが打ち込まれていました。


 「係長……吉田さん宅までお願いします」


 物件を出て車に乗り込んだ際、私の指示に田山係長は目を剥きました。


 「(おい富ちゃん、事務所に戻ってクロージングせえへんのか!?)」


 バックミラー越しに飛んでくる係長の無言の圧力。しかし、私は深く相槌を打ち、あえて「家へ送る」という選択をしました。


 車内は再び、重苦しいまでの沈黙に包まれます。

 係長は、焦れったそうに何度も私の膝を小突いてきました。「くどけ! 今やろ!」という叫びが聞こえてきそうです。しかし、私は無視を貫きました。


 沈黙の中でこそ、お客様は「自分たちの本音」と向き合う。

 ルームミラーには、後部座席で額を寄せ合い、こそこそと相談を始めた吉田さん夫婦の姿が映っていました。


 目的地まであと数分。

 ついに、沈黙の壁を破るか細い声が響きました。


 「あ……あの……」


 (来た……!)

 心の中で快哉を叫びましたが、顔は至って冷静に。ゆっくりと振り返ります。


 「はい? どうかされましたか?」


 「さっきの家なんですけど……お時間さえ良ければ、もう少しお話させていただきたいのですが」


 勝利を確信した瞬間でした。


 「そうですか、わかりました。……じゃあ田山さん、会社の方へ行っていただけますか?」


 ウィンクを投げると、田山係長は「チキショー!」とでも言いたげな、それでいてどこか嬉しそうな顔でハンドルを切りました。


 「了解でーす!」


 会社に着き、私は吉田さん夫婦を応接室へと案内しました。

 そこは、通称「マル決(契約決定)部屋」。一度入れば、ハンコを押すまで出られないと言われる、よいこ不動産の聖域です。


 「ちょっと待ってくださいね」


 私はあえて夫婦を二人きりにし、事務所へと戻りました。ここからが、山本部長との連係プレー、最後の「煽り」です。


「部長〜! 森脇さんのところ、まだ具体的な話入ってないですか?」


吉田さんに聞こえるよう、わざと大きな声で、部長にウィンクを飛ばします。


 「あ〜、さっき富ちゃんの入れ替わりで案内したお客様が気に入ってるみたいやで! さっき電話あったわ〜!」


 部長も心得たもので、野太い声で虚空(架空のライバル)に向かって返してくれました。


 「まじっすか! これは優先順位とらんと!」

 

 「マル決」と呼ばれる、窓口も逃げ場もない応接室。蛍光灯の下、一六八〇万円という数字を前に、吉田夫妻の呼吸は浅くなっていました。


 「吉田さん、まずこれに署名していただけますか?」


 私がテーブルに差し出した一枚の『買付証明書』。吉田さんの目は、蛇を前にした蛙のように怯えていました。


 「え?……まだお話も何もしてませんし……」

 「はい、わかってます。お話はもちろんさせていただきます。でも、今この瞬間も戦いなんです」


 私は身を乗り出し、あえて「焦り」を演出しました。


 「さっき確認しましたが、他店舗のお客様がこの物件を狙っています。吉田さんの後に内見した方です。この『買付証明書』は契約書ではありません。あくまで、吉田さんが一番に交渉できる権利を確保するための『盾』なんです。今ここで署名しないと、この権利は数分後には他人のものになります」


 「えぇ……でも……」

 「吉田さん、間に合わなくなりますよ」


 煮え切らない吉田さんの態度。ここで私は、教わったばかりの「引きの営業」を仕掛けました。静かにソファーから立ち上がります。


 「わかりました。じゃあ、今日はこれでお帰りください」

 「え……? まだ物件の詳細もお聞きしてませんが……」


 「いえ、もうお話しする必要がないんですよ。私が説明している間に、あちらのお客様が優先権を獲得するのは目に見えています。縁がなかったということです。さあ、どうぞ」

 

 冷たく、淡々と言い放つ。

 吉田さんは、放り出された迷子のような顔をして無言になりました。「もう二度とこのチャンスは来ない」という恐怖が、応接室の空気を支配しました。


 私は再び、ゆっくりとソファーに腰を下ろしました。今度は、慈しむような穏やかな声で。


 「吉田さん……今まで、少なくとも十件は物件を見て回られたでしょう?」


 「ど、どうしてわかるのですか……!?」


 驚愕する吉田さん。


 「道中、車内からいくつか家を目で追ってましたよね。あそこや、あそこの十字路の角。……あれ、すべて過去に売りに出されていた物件ですよ。吉田さんはそれらを見てきた。そして、その時も気に入ったはずだ。でも、不安が先に立って結論が出せなかった。ですね?」


 「……その、とおりです」

 「そして今、またあの時と同じ不安が、吉田さんを襲っている。ですね?」


吉田さんは、まるで自分の心臓を握られたような顔をして「……そのとおりです」と項垂れました。


 「その不安の正体を、私が代わりに答えましょう」


 私は吉田さんの目を、真っ直ぐに、吸い込むように凝視しました。


 「第一に、一生に一度の大きな買い物。簡単に決めて後悔しないか、という不安」

 「第二に、莫大な借金を背負うことへの、根源的な不安」

 「第三に……」

 私は少し声を落としました。


 「……我々不動産屋に、上手いこと言いくるめられているのではないか、という疑心。……ですね?」


 沈黙が流れます。


 「……はい」


 蚊の鳴くような声。私はここで、とっておきの切り札——「優しい嘘」を投げ込みました。


 「吉田さん……その気持ち、よ〜〜く解りますよ! なぜなら、私も一年前、家を買ったからです(笑)」

 もちろん嘘です。私はリクルートカットの独身若造。でも、今の吉田さんには「同じ不安を乗り越えた先達」という光が必要でした。


 「私も、この業界にいながら、当時は吉田さんと全く同じ心境で震えていました。だから、誰よりも吉田さんの気持ちがわかるんです。……説明はあえてしません。何を言っても今は営業トークに聞こえるでしょうから」


 吉田さんの表情が変わりました。不安という荒波の中に、一本の杭を見つけたような顔です。


 「でも、これだけは言わせてください。……僕が、僕が吉田さんの担当者なんです」


 「僕が、あなたの不安ごと背負います」と言わんばかりの、渾身の一言。

 吉田さんは一瞬、ぼーっと宙を見つめた後、深く、深く息を吐きました。

 そして、何かに取り憑かれたように無言でペンを取り、買付証明書に力強く署名しました。


 応接室に、カツンと印鑑が置かれる音が響きました。

 買付証拠金十万円。

 それは、一六八〇万円のドラマの幕が開く、重たい重たい十万円でした。


 応接室を出た私を待っていたのは、物陰で震えながらガッツポーズをする田山係長と、「富ちゃん、お前恐ろしいやっちゃな……」という沈黙の賞賛でした。

(値交渉も一切入ってないやんけ?売上。。。仲手込みで512万円やんけー!おいおい!)


■営業解説:クロージングの極意

テストクロージング: 「署名してください」と迫ることで、客の本当の懸念点を炙り出す。


共感と自己開示: 「私も同じ経験をした」という嘘(あるいは体験談)で、敵対関係を味方関係へと逆転させる。


「担当者」の売り込み: 物件のスペックではなく、最終的に「あなたという人間」を信じさせることで、論理を超えた決断を促す。


富ちゃん、初陣にして「悪徳の華」を咲かせましたね。

不安を逆手に取った見事な心理戦。これで「中間省略」へ、一気に近づきました!

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