時空を歪めるチラシと、午前三時の招集
「中間省略」という禁断の果実を前に、私の心は期待と不安で千々に乱れていました。
しかし、現場の熱量はそんな感傷を許しません。田山係長の号令一下、深夜の事務所は「偽りのチラシ」を作り上げる工房へと変貌しました。
「よしっ! 富ちゃん! 早速あのおっさん(森脇さん)とこの図面仕上げよか!」
田山係長の指示で、私は間取り図の作成に取りかかりました。
「田山係長、駅からの徒歩、何分にします?」
「そやな……5分って書いとけや!」
私は思わずペンを止めました。
「え〜!? どう見たって10分以上はかかりますよ! 規約では80メートル1分で計算しないと……」
「おまえ、ほんま役所みたいやのぉ! わしが5分言うたら5分じゃ! 文句あるんならわしが5分で走って見せたるわ!」
……走るのか。それも全力疾走で。
物理法則すらねじ曲げる田山係長の気迫に押され、私は震える手で「徒歩5分」と書き込みました。さらに『早い者勝ち!』『格安!』『自己資金0円!』という、購入欲を煽る魔法の言葉をこれでもかと散りばめていきます。
最後に、最も肝心な物件価格。
「……田山係長、価格は幾らにします?」
「ん〜……そやな、1680万円って書こか」
「1680万円!?」
耳を疑いました。森脇さんには1200万円で査定し、田山係長は「1500万で売る」と言っていた。それが今、さらに上乗せされて1680万円。
「新聞チラシに入れるんですよね? 森脇さんがこれを見たら、1200万で預けたのに高すぎると怒るんじゃないですか?」
「ええねん! 言う通り書けや! あほ!ぼけ!かす!」
田山係長は不敵に笑いました。
「まあ、ちゃぁ〜んとバレへんようにするから」
その自信満々な顔を見ていると、私は「へいへい、わかりやした!」と、いつの間にか自分もこの泥臭い現場の空気に染まった返事をしていました。
ガチャコーン! ガチャコーン! ガチャコーン!
夜の11時過ぎ。静まり返った守口の住宅街に、チラシを刷り上げる輪転機の音が響き渡ります。2万枚。この嘘と野望が詰まった紙片が、土曜日の朝には各家庭のポストへ届けられるのです。
インクの匂いと機械の熱気。私はだんだん、自分が「まともな社会人」から「不動産屋」という別の生き物へと脱皮していくような、奇妙な高揚感を感じていました。
「ふぁ……眠ぅ。あ、富ちゃん言い忘れてた」
作業を終えた田山係長が、あくびをしながら言いました。
「土曜日は、朝3時に店に集合な!」
「……あ、朝3時!? な、なんでですか?」
まだ夜も明けぬ闇の中で、一体何が行われるのか。
「中間省略」の謎、そして1680万円という強気な価格。すべてのパズルが繋がる瞬間に向けて、物語は最も暗い時間帯へと突入していくのでした。
■業界用語解説:徒歩分数の表示
「徒歩〇分」の表示は、不動産公正取引協議会の規約により「道路距離80メートルにつき1分」と定められています(1分未満は切り上げ)。
今回の手口: 10分以上かかる物件を「5分」と偽ることは完全な誇大広告(おとり広告)です。しかし、当時はこうした「営業マンの足なら5分(走れば)」といった強弁がまかり通ることもありました。
朝3時の集合。
それは、新聞販売店にチラシを持ち込むためか、あるいはライバル他社のチラシを……?
富ちゃんの過酷な「土曜日」が始まろうとしています!




