第1話 : 「不要の証明」
春先の風は、どこか物足りなかった。
勇者は村の外れに立ち、剣を払った。
刃についた血は、すでに乾きかけている。
倒れているのは角を持つ小型魔物。
三体。
脅威と呼ぶには小さい。
だが農地を荒らせば、村にとっては充分な被害になる。
「助かりました」
村長が深々と頭を下げる。
勇者は笑う。
「いや、大したことない」
本当に、大したことはなかった。
息も上がっていない。
傷もない。
レベルの上昇も、感じない。
――感じない?
勇者は、ほんの一瞬だけ違和感を覚えた。
以前ならば、何かがあった。
体の奥が震え、世界がわずかに色を変える感覚。
強くなったという実感。
だが今は何もない。
村の若者が言う。
「最近は自警団でも何とかなりそうなんですけどね」
笑いながら。
悪意はない。
純粋な事実として。
勇者はまた笑う。
「頼もしいじゃねぇか」
その言葉は軽い。
村を出た後、賢者が隣に並ぶ。
「討伐速度は平均以下だった」
「いきなり厳しいな」
「以前と比べて、だ」
勇者は肩をすくめる。
「衰えたか?」
賢者は首を振る。
「違う。魔物の個体値が低い」
歩きながら続ける。
「発生率は三年前の三割以下。群体形成も確認されていない」
勇者は黙る。
賢者の声は、感情が薄い。
「各地の被害報告も減少傾向にある。自衛組織の成熟も顕著だ」
「つまり?」
勇者は聞く。
賢者は淡々と答える。
「勇者依存度は、著しく低下している」
風が止んだ気がした。
勇者は笑う。
「難しい言い方すんなよ」
賢者は言い直す。
「君がいなくても、世界は回る」
その言葉は、柔らかくも残酷だった。
勇者は、すぐに否定しなかった。
否定できなかった。
「まあ……平和ってことだろ」
そう言ってから、自分の声がわずかに乾いていることに気づく。
賢者は続ける。
「勇者制度は危機対応装置だ」
「また制度か」
「危機がなければ、装置は作動しない」
勇者は足を止める。
遠くに見える畑。
子どもが走っている。
何も起きていない。
賢者は言う。
「今は平時だ」
勇者は空を見上げた。
雲がゆっくり流れている。
何も、求められていない。
「……つまり俺は暇ってことか?」
軽口のつもりだった。
だが賢者は笑わない。
「必要性は低下している」
はっきりと言う。
勇者の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
怒りではない。
悲しみでもない。
空白。
「そっか」
それだけ。
二人はまた歩き出す。
その日の夜、焚き火の前。
勇者は無意識に剣を磨いていた。
刃は欠けていない。
錆もない。
磨く必要は、ない。
それでも磨く。
賢者が書物から目を上げる。
「手入れの頻度が増えている」
「暇だからな」
勇者は笑う。
賢者は静かに言う。
「不安の代替行動だ」
勇者の手が一瞬止まる。
「なんだそれ」
「自己有用性が揺らぐと、人は象徴に執着する」
勇者は剣を見つめる。
象徴。
勇者の象徴。
「俺は別に揺らいでねぇよ」
「そうか」
否定も肯定もしない声。
焚き火が爆ぜる。
その音だけが、やけに大きく聞こえた。
翌朝、霧が低く垂れ込めていた。
勇者は早くに目を覚ました。
眠りは浅い。
焚き火は消え、灰だけが残っている。
聖女はまだ祈りの姿勢を崩していない。
暗殺者は姿が見えない。
魔王は、ここにはいない。
勇者は剣を腰に差し、何も言わずに歩き出した。
賢者が後を追う。
「行き先は?」
「適当だ」
短い返答。
霧の中を二人で進む。
しばらく無言が続いたあと、賢者が言う。
「昨日の話の続きだ」
勇者は眉を寄せる。
「まだやるのか」
「終わっていない」
勇者は足を止めない。
賢者は続ける。
「勇者は、危機の象徴だ」
「象徴ね」
「世界が不安定なとき、人々は勇者を必要とする。安心の形として」
勇者は笑う。
「じゃあ今は安心ってことか」
「そうだ」
霧が少し晴れる。
遠くに村が見える。
煙が上がり、生活の匂いがする。
賢者は言う。
「今の世界は、君を象徴として必要としていない」
勇者の足が止まった。
「象徴としては、な」
「個人としては別だ」
「……それ、慰めか?」
「分析だ」
勇者は振り返る。
目に、わずかな苛立ち。
「じゃあ聞くけどよ」
声が低い。
「俺は何だったんだ」
霧が風に押される。
賢者は少し間を置く。
「装置だった」
即答。
勇者の顔が固まる。
「世界の均衡を保つための、物語装置」
「物語……」
「勇者がいて、魔王がいて、戦いがある。そうすることで秩序は保たれる」
勇者は拳を握る。
「じゃあ俺は……」
言葉が詰まる。
「役目が終わったら、捨てられるのか」
賢者は首を振る。
「役目が終わるだけだ」
「同じだろ」
勇者の声が荒くなる。
「終わった装置は、倉庫行きだ」
賢者は視線を逸らさない。
「それは装置の話だ」
「俺は違うってか?」
沈黙。
霧が完全に晴れた。
青空が広がる。
賢者は静かに言う。
「君は、自分を勇者という役割と同一視している」
勇者の呼吸が荒い。
「当然だろ」
「違う」
賢者の声は変わらない。
「役割は外部から与えられる。人格は内部にある」
勇者は笑う。
乾いた笑い。
「そんなもん、分けられるかよ」
「分けられなかったから、今揺らいでいる」
その一言が刺さる。
勇者は黙る。
風が吹く。
遠くで子どもの笑い声が聞こえる。
世界は穏やかだ。
「俺がいなくてもいい世界なら」
勇者はぽつりと呟く。
「俺は何で強くなったんだ」
賢者は答える。
「君が選んだからだ」
「違う」
即座に否定する。
「世界が望んだからだろ」
「違う」
今度は賢者が即答する。
「君は喜んでいた」
勇者の目が揺れる。
「レベルが上がるたびに」
言葉を続ける。
「称賛を受けるたびに」
「魔王軍を退けるたびに」
勇者の呼吸が浅くなる。
「君は、必要とされることを享受していた」
否定できない。
否定したい。
だが、記憶がある。
歓声。
祝福。
自分が中心だった夜。
勇者は視線を落とす。
「……じゃあ俺が悪いのか」
小さな声。
賢者は首を振る。
「善悪の話ではない」
「構造の話だ」
勇者は笑う。
今度は本当に歪んでいる。
「便利だな、構造って言葉は」
賢者は何も言わない。
勇者は空を見上げる。
青い。
静かだ。
「役割が終わったなら」
声が震える。
「俺は何者だ」
賢者は答えない。
答えを与えない。
「それは、君が決めることだ」
勇者はしばらく立ち尽くした。
風が吹く。
剣の柄を握る。
だが、何も起きない。
世界は平和だ。
そして――
勇者は、必要とされていない。
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