第12話: 膝
行軍は静かだった。
森を抜け、丘陵に入る。
風が強い。
草が波打つ。
勇者は先頭を歩いている。
振り返らない。
振り返れば、何かを言わなければならない。
言葉がない。
賢者は後方で歩幅を調整している。
聖女の呼吸が乱れていることに、気づいていた。
だが、声をかける“間”がない。
暗殺者はさらに後ろ。
距離を取っている。
隊列が、微妙に伸びている。
まとまりがない。
正午を過ぎる。
日差しが強くなる。
聖女の足取りが重い。
詠唱の余韻が、体に残っている。
昨日の治癒は、不安定だった。
光が揺れた。
祈りが濁った。
あの瞬間から、何かが崩れている。
聖女は息を吸う。
肺が浅い。
足が上がらない。
勇者の背が遠い。
追いつかなければ。
追いつけない。
一歩。
もう一歩。
視界が揺れる。
世界が傾く。
膝が折れる。
音は小さい。
だが確かに崩れた。
賢者が即座に反応する。
「……聖女」
駆け寄る。
額に手を当てる。
熱はない。
魔力の流れが乱れている。
脈が速い。
「無理をした」
それは確認であり、告げでもある。
聖女は首を振る。
「……大丈夫です」
声が震えている。
大丈夫ではない。
分かっている。
だが止まれない。
止まれば、遅れる。
遅れれば、足を引く。
足を引けば、価値がない。
賢者は低く言う。
「立たなくていい」
その声音は、理論ではない。
感情だ。
暗殺者が近づく。
しゃがみ込み、聖女の顔を見る。
「今日は無理だ」
断言。
軽い調子ではない。
「足が震えてる。魔力も乱れてる」
賢者が頷く。
「進行は中止すべきだ」
風が強まる。
その時、ようやく勇者が振り返る。
距離がある。
表情は読めない。
「……何してる」
声だけが届く。
暗殺者が立ち上がる。
「聖女が限界だ」
勇者の眉が動く。
「まだ行ける距離だ」
「行けない」
短い応酬。
賢者が言う。
「本日はここで野営を」
勇者は一瞬だけ沈黙する。
予定地までは、あと半刻。
安全な丘の上。
見晴らしがよく、防衛もしやすい。
ここは中途半端だ。
魔物の気配もある。
止まるには悪い位置。
勇者は空を見る。
判断。
勇者は進む者だ。
止まるのは敗北だ。
「予定地まで行く」
言い切る。
暗殺者が即座に返す。
「今日は無理だって言ってる」
「無理じゃない。支えればいい」
その言葉に、聖女の肩が震える。
支えられる存在。
それは役目を果たしていない証。
勇者は歩き出す。
「先に設営する」
振り返らない。
「追いついてきてくれ」
それだけ。
足音が遠ざかる。
賢者は動かない。
聖女は俯いている。
暗殺者は勇者の背を見つめる。
「……崩れてるな」
誰にともなく呟く。
賢者は低く言う。
「分かっている」
聖女が、絞り出す。
「行きます」
立とうとする。
足が震える。
賢者が支える。
「無理だ」
「足手まといに……」
「違う」
賢者の声が強くなる。
「君は役目ではない」
聖女は顔を上げる。
理解できない。
自分は聖女だ。
祈る存在だ。
回復する存在だ。
それがなければ。
「私は……」
言葉が消える。
涙が落ちる。
祈りが、出てこない。
暗殺者が立ち上がる。
「今日はここで野営する」
決めた声。
「勇者がどう言おうが」
賢者は一瞬迷う。
だが、頷く。
聖女を座らせる。
簡易結界を張る。
遅い。
だが確実な動き。
丘の上。
勇者は一人で設営を始める。
杭を打つ。
天幕を張る。
火を起こす。
動きは正確。
だが速すぎる。
視線が揺れている。
なぜ来ない。
遅い。
もう日が傾く。
苛立ちが増す。
手元が乱れる。
杭を打ち損ねる。
「……くそ」
拳を握る。
守るために急いでいる。
安全な場所を確保している。
それなのに。
なぜ来ない。
なぜ従わない。
勇者は気づかない。
それは命令だった。
相談ではない。
共有でもない。
追いついてきてくれ。
その言葉は、
“自分の速度に合わせろ”という宣告だった。
丘の下。
簡易野営が完成する。
火が灯る。
小さい火。
三人だけの火。
聖女は横になっている。
呼吸が少し整う。
賢者が水を渡す。
暗殺者は火を見ている。
「勇者、来るかな」
賢者は答えない。
聖女は目を閉じる。
火が、温かい。
だが足りない。
何かが足りない。
丘の上。
勇者は一人、火を見ている。
大きな火。
安全な場所。
完璧な設営。
だが、誰もいない。
風が吹く。
火が揺れる。
勇者は初めて、不安を感じる。
置いていかれたのは、
誰だ。
夜。
丘の上の火と、
丘の下の火。
二つの火が、別々に燃えている。
それは決定的だった。
もう、同じ焚き火は囲まれない。
崩壊は静かに進む。
音はしない。
だが確実に、
四人は別の夜を過ごしている。
勇者は空を見上げる。
星がある。
だが遠い。
下を見れば、かすかな光。
三人の火。
勇者は動かない。
動けない。
自分から降りればいい。
分かっている。
だが足が動かない。
勇者だから。
進む者だから。
止まるのは、負けだ。
丘の下。
聖女は微睡みながら思う。
置いていかれたのは、
私たちなのか。
それとも。
暗殺者がぽつりと言う。
「もう、勇者パーティじゃないな」
賢者は目を閉じる。
「……ああ」
火が燃える。
別々に。
その夜、
誰も丘を越えなかった。
距離は、半刻。
だが埋まらない。
崩壊は完了していない。
だが戻れない地点を越えた。
明日、どうする。
誰も言わない。
夜は長い。
火は二つ。
そして、四人は、
もう同じ夜を見ていない。




