第2話: 祈りの空白
風が、やけに静かだった。
獣王を討った翌朝。わたくしたちは森を抜け、次の魔族領へと進んでおります。勇者様は先頭を歩き、その背は軽やかです。まるで重みを知らぬかのように。
けれど――
わたくしの胸には、微かな引っかかりが残っておりました。
昨夜の祈祷。
光が、薄かったのです。
傷は癒えました。確かに癒えましたとも。勇者様の裂傷は塞がり、出血も止まりました。
ですが。
“届いた”という感覚が、なかった。
祈りとは、本来もっと温かなもの。胸の奥から湧き上がり、天へと伸び、そして降りてくる確かな応え。
昨夜は違いました。
祈りは上へ昇った。
けれど、何も降りてこなかった。
それでも傷は塞がったのです。
「……導き、です」
小さく呟く。
勇者様が振り返りました。
「どうした?」
「いえ。なんでもございませんわ」
微笑みます。
聖女は微笑むものですから。
幼い頃、教会で何度も言われました。
“聖女たれ”
泣くな。
怒るな。
疑うな。
与えられた役目を、清らかに果たしなさい。
わたくしは頷きました。
それが救いになるならば、と。
――あの頃は、まだ“わたし”でしたけれど。
賢者様が横に並びます。
「回復出力が前回比で低下しています」
淡々と。
「そうですか?」
「はい。しかし結果は同等」
その言葉に、胸がちくりと痛む。
結果は同等。
けれど過程は。
祈りが、届いていないのに。
「神は、必要な分だけ与えてくださいます」
そう答える声は、澄んでいたはずです。
賢者様はそれ以上何も言いません。
暗殺者様は――
こちらを、見ておりました。
ほんの一瞬。
目が合う。
何も言われておりませんのに、胸の奥を覗かれたような気がいたします。
わたくしは視線を逸らしました。
聖女は、揺れてはなりません。
昼過ぎ、小規模な魔族と遭遇。
本来であれば連携が必要な相手。
ですが。
勇者様の一閃で終わりました。
踏み込みは粗い。
体勢も万全ではない。
それでも、斬れた。
わたくしは回復詠唱を始めておりましたが、必要はありませんでした。
光は掌に灯ったまま、消えます。
祈りは未使用。
「強くなってるよな、俺たち!」
勇者様は笑います。
「ええ、勇者様。神の導きです」
即座に返す。
けれど。
本当に?
導きとは、なんでしょう。
もし。
もしも神が沈黙しておられるのなら。
この勝利は、どこから来ているのですか。
足元が、少し揺れた気がしました。
違います。
揺れているのは、わたくし。
夜。
皆が眠った後、わたくしは一人、祈ります。
膝をつき、手を組み、目を閉じる。
「どうか……」
言葉が、続かない。
何を願えばよいのでしょう。
勝利?
平和?
勇者様の無事?
それとも。
“確かさ”を?
胸の奥から祈りを引き出そうとする。
けれど空白。
空白のまま、言葉だけが並ぶ。
「どうか、導きを」
静寂。
風の音だけ。
昔は、応えがありました。
温かな光。
包まれる感覚。
今は、ない。
それでも。
「……わたくしは、聖女です」
言い聞かせる。
疑ってはならない。
疑えば、崩れる。
崩れれば。
――わたくしは、何者になりますの。
指先が、震える。
粗い言葉が喉まで上がる。
なんで。
……いいえ。
わたくしは聖女。
整える。
背筋を伸ばす。
呼吸を整える。
「導きです」
もう一度。
今度は、誰も聞いておりません。
それでも言う。
言わなければ、空白が広がる。
勇者様は強い。
賢者様は理を保つ。
暗殺者様は静かに見ている。
ならば。
わたくしは信を保たねばなりません。
それが役目です。
それが、わたくしの存在理由。
……存在理由。
胸の奥が、少しだけ痛む。
もし祈りが届いていないのなら。
もし勝利が別の力によるものなら。
わたくしは。
ただ、形だけの聖女?
「違います」
強く否定する。
声がわずかに荒れた。
庶子の頃の、あの荒い響き。
慌てて整える。
「違いますわ」
誰に言っているのでしょう。
神に?
世界に?
それとも自分に。
沈黙は続く。
けれどわたくしは立ち上がる。
明日も微笑むでしょう。
明日も祈るでしょう。
たとえ届かなくとも。
届いていると信じます。
それが聖女。
そう教えられましたもの。
夜空は、何も答えませんでした。
ただ静かに、星が瞬いております。
その光が。
ほんの少しだけ、遠く感じられました。
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