第二十三話 部室崩壊。餓者髑髏と鬼と、八人の反撃
だが次の瞬間、足裏を打つ振動の向きが変わった。
さっきまで正面の壁を殴っていた衝撃が、今度は背後へ回る。棚がきしみ、ロッカーが揺れる。天井から白い粉塵が舞い落ち、蛍光灯の光を白く濁らせた。空気が重く、息苦しい。
「移動……した?」
礼夏が天井から背後の壁へ視線を向ける。その声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
「どっちにしてもここ、危なくないですか?」
智陽が低く言う。その声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。
「正面は潰される。裏も時間の問題だな」
義翔が割れた窓を一瞥する。ガラスの破片が床に散らばり、月明かりを鋭く反射している。
ドンッ、と屋根が鳴った。蛍光灯が大きく揺れ、光がぶれる。
考える時間はない。
「割れた窓から出ましょう」
智陽が餓者髑髏の手が突き破った窓を指さす。冷たい風が、そこから吹き込んでいた。
「よし」
考希がうなずく。
「順番に行こう。焦るな」
また衝撃。壁に亀裂が走る。パラパラと欠片が降ってくる。埃が舞い、息苦しい。
「まず俺が出て、外を見てきます」
義翔が窓枠に足をかけた。砕けたガラスを踏み越え、身軽に外へ降りる。着地の音が、わずかに響いた。
「よし、来い!」
外から声が飛んでくる。力強い声だ。
「次は悌だ。急げ!」
悌が続こうとして、窓枠に腰が引っかかった。
「うわ、ちょ――」
「もー! 先輩は終わったら! ダイエット! してください!」
後ろから結仁がぐいと押す。悌は半ば転げるように外へ消えた。下から「いてっ!」という声が聞こえる。
「よし! 次は空華と仲西だ!」
考希の言葉に二人は頷くと、すんなりと外に出た。礼夏は着地が綺麗で、忠穂は少しよろけたがすぐに立ち直った。
振動が、すぐ近くまで迫る。骨が壁を擦る音。低い唸り。まるで獲物を追い詰める獣のように、餓者髑髏が迫ってくる。背筋が凍る。
弥信は智陽と顔を見合わせた。
「まずは安堂が行け」
弥信はじっと智陽を見ると、「ありがとう」と短く言い、窓枠に足をかけた。
その時。
「部長!」
智陽の鋭い声が響いた。
弥信が振り返ると、考希がまるで別れを惜しむように、その場に立ち止まっていた。窓から差し込む月明かりが、その横顔を照らしている。
「何やってんですか!」
智陽が叫ぶ。
「早く!」
弥信も声を重ねる。
一瞬の沈黙。
それから考希は、ぐっと息を吸い、踵を返した。
「……行くぞ!」
その声に頷き、弥信は窓枠を越えた。
着地した瞬間、背後で壁が大きく鳴った。ガラスが砕ける音、木材が軋む音、全てが一斉に響く。
振り返ると、窓から飛び出した考希の背後で、ぐしゃりと部室が潰れた。瓦礫が舞い、埃が立ち上る。
(部室が……)
夕日でオレンジ色に染まった部屋。
真剣にした読み合わせの風景。
舞台の本番で失敗して泣いたこと。
全てが走馬灯のように過ぎり、弥信の目頭が熱くなる。あの場所で過ごした時間が、一瞬で瓦礫に変わった。
カラカラカラカラ――。
それをあざけ笑うかのように頭上から、笑うような音がする。餓者髑髏の骨が擦れる音だ。
「走るぞ!」
考希の声。
頷く前に、足が動いた。
校舎に飛び込み、そのまま廊下を駆け抜ける。靴底が床を叩く音が反響し、鼓膜を震わせた。息を整える間もなく、角へ滑り込む。背後からは、まだ餓者髑髏の気配が追ってくる。壁を叩く音が、徐々に遠ざかっていく。
「おー! 無事だったか」
廊下の奥から、低い声が響いた。
反射的に顔を上げる。
そこに立っていたのは、酒呑童子と茨木童子だった。二人とも、いつもの落ち着いた表情で佇んでいる。
「酒呑童子さん! 茨木童子さん!」
弥信が呼ぶと、酒呑童子は軽く手を挙げた。
「来てくださったんですね」
弥信の言葉に、厳めしい二人の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「伏姫さまは?」
礼夏が問うと、酒呑童子が顎をしゃくった。
「来ている。先に八房と玉梓のところへ向かってる。にしても」
そこで言葉を切ると、茨木童子は窓の外で暴れる餓者髑髏に視線を向けた。遠くで、ガシャンと何かが崩れる音がする。
「ずいぶんと派手に暴れまわってるな」
「そうなんですよ!」
七人が一斉に話し始める。弥信はその声を背中で聞きながら、袖をそっと引かれる感触に気づいた。
「こちらへ」
茨木童子がこちらを見る。
目だけで呼ばれた気がして、胸が小さく跳ねた。足をずらすと、仲間たちの声が少しずつ遠くなる。廊下の隅へ移動すると、茨木童子が懐に手を入れた。
「これを」
懐から現れたのは、見覚えのある小さな瓶。二つ。
エメラルドグリーンの液体が、廊下の薄明かりに揺れている。あの薬だ。
受け取った瞬間、冷たいガラスの感触が掌に染みた。この感触が、現実を突きつけてくる。
「万が一のために」
弥信は無言で受け取り、そっとポケットに押し込んだ。ガラスが服に触れ、カチリと小さな音を立てる。
「ありがとうございます」
頭を下げると、茨木童子は一瞬目を細め、何も言わず静かに踵を返した。
弥信はポケットの中の瓶をそっと握りしめ、その背中を追った。ひんやりとした感触が、掌に残り続ける。
仲間たちのもとへ戻ると、酒呑童子がチラッと茨木童子へ視線を流し、口を開いた。
「話は聞いた」
酒呑童子が一度、息を吸う。
そして、続けた。
「放っておけば、この街も、街の人間も、思うままだ」
その言葉が、胸に刺さった。
父の低い声。母の笑い声。
焼けたトーストの匂い。湯気の立つ夕飯。
当たり前すぎて、守ろうと考えたこともなかった日々。いつもそこにあって、失うことなど想像もしなかった風景。それが、奪われようとしている。
(そんなの……絶対に、嫌だ)
奥歯を噛みしめる。視界が滲みそうになるのを、瞬きで押し戻す。
その時。
「私は……家族を、元に戻したい」
忠穂がゆっくりと顔を上げた。
迷いのない目で、酒呑童子をまっすぐ見つめている。その声は震えていなかった。
(……忠穂、かっこいいな)
弥信はその背中を見つめた。いつも頼りない忠穂が、今は誰よりも強く見える。
「そうだな」
考希が一歩前に出る。
「家族も、この街も、救わないとな」
にっと笑う。いつもの、無茶を言うときの顔だ。けれど、その目は真剣だった。
「でも……僕たちにそんなことができるかな?」
悌がこぼした声は震えていた。不安が、言葉に滲んでいる。
「やる前から言っても仕方ない」
ほとんど同時だった。
七人の声が、重なった。
一瞬、全員が目を丸くする。
そして顔を見合わせ、ふっと笑った。緊張が、少しだけ解ける。
「もうなんだか、演劇部の家訓みたいになってますね」
結仁が肩をすくめる。
「いいな、それ! よし、今日からそうしよう!」
考希が手を打つと、仲間の間に呆れ半分の笑いが広がった。
「なら、無事に帰って、正式に家訓にしましょう」
礼夏の言葉に、全員が頷いた。
「よし、決まりだな。ならついてこい」
酒呑童子が踵を返す。茨木童子がその隣を歩く。
七人は、その背中を追った。
弥信は立ち止まったまま、動けなかった。
(怖い……)
ポケットの瓶を、そっと握りしめる。冷たい感触が、現実を告げている。
「弥信?」
忠穂の声。優しい声だ。
弥信は大きく息を吸い、吐いた。
「大丈夫?」
心配そうに見つめる忠穂に、弥信は苦笑いする。
「ちょっと靴紐がほどけちゃって」
「あー、あるよねー。この間の体育でもさぁ……」
忠穂が歩き出す。
弥信はその後を追った。
親友との些細な会話。
それが、この非日常に、ほんの少しだけ日常を連れてきた。
足音が廊下に響く。八人分の足音が重なり、リズムを刻む。
怖さは消えない。先も見えない。
けれど、一人じゃない。
仲間がいる。それだけで、前へ進める。
弥信はポケットの瓶を握りしめたまま、前を向いた。
行こう。みんなと一緒に。




