第二十話 鏡は砕け、伏姫は嗤(わら)う
部室の中央に、全員が椅子を持ち寄り円をつくる。
それは、読み合わせをする時にするいつもの光景だ。
その”ごく普通”の”当たり前”な光景に、弥信はホッとする。どれだけ外が異常でも、ここには変わらない日常がある。それだけで、少しだけ心が落ち着いた。こうして仲間と向き合うことが、どれほど大切なことだったか。今、改めて実感する。
「どうした安堂?」
「早くおいでよ弥信」
怪訝そうにこちらを見る仲間に、弥信は微笑んだ。
「すみません。今行きます」
そう言い、弥信は椅子を片手に輪に加わった。椅子の脚が床にコツンと音を立てる。
「……で、どうします?」
義翔が静かに切り出す。重い沈黙が円の中に落ちた。誰もが次の言葉を探している。部室の時計が、カチ、カチと時を刻む音だけが響いた。
「外は危険すぎますよね」
結仁がポツリと言う。窓の外からは、時折、何かが動く気配が伝わってくる。生徒たちの声は聞こえない。ただ、不気味な静寂だけが広がっている。まるで、学校全体が息を潜めているかのように。
「校舎も壊れてる。餓者髑髏がまた来たら、逃げ場がないわよ」
礼夏が顔をしかめ、腕を組んだ。その声には、隠しきれない不安が滲んでいた。眼鏡の奥の目が、わずかに揺れている。
「でも、ずっとここにいて安全とも限らない」
智陽が眉をひそめる。その言葉に、全員が息を呑んだ。確かに、ここも絶対安全とは言えない。いつ何が起きるか、誰にもわからない。
「それでも、今は動かない方がいいだろ」
智陽が円の内側をゆっくりと見回した。一人ひとりの顔を確認するように。
「情報も武器もない状態で動くのは無謀だ。まずは状況を整理して、準備を整えるべきだ」
「そうだな」
考希は深く頷くと、仲間たちを見渡しながら話を続ける。
「まず、生き延びよう。話はそれからだ。焦っても何も変わらない」
その言葉を合図に、皆がゆっくりと頷いた。不安は消えないが、少なくとも方針は決まった。ここに留まる。それが今できる最善の選択だ。動くのは、準備が整ってからだ。
「じゃあ決まりだな」
考希はピシャンと膝を叩くと、いつもの明るい笑みを浮かべた。
その時だった。
パチッ、と乾いた音が部屋に響いた。
「……なに?」
弥信が顔を上げると、床に置かれたままのうんがい鏡が、淡く光り始めていた。亀裂の入った表面が、まるで呼吸するように明滅している。割れた鏡が、生きているかのように。
「鏡が……」
忠穂が息を呑む。
全員が立ち上がり、鏡を囲むように集まった。光はゆっくりと強くなり、やがて部屋全体を柔らかく照らし始める。蛍光灯の白い光とは違う、どこか温かみのある光。
空気が変わった。ひんやりとした冷気が、鏡から漂ってくる。まるで、別の世界と繋がったかのように。誰もが息を殺して、次の瞬間を待った。
そして――。
『――みんな、聞こえますか』
静かで、優しい声が響いた。
「伏姫さま!?」
礼夏が思わず声を上げる。
『無事で……よかった』
伏姫の声は途切れ途切れで、まるで遠い場所から聞こえてくるようだった。けれど、確かにそこにある。間違いなく、伏姫の声だ。あの優しい、包み込むような声。
「伏姫さま! こっちが酷いことになってて!」
そう言い、忠穂は今まであったことを話す。餓者髑髏のこと、校舎が壊されたこと、うんがい鏡が割れたこと。全てを、息継ぎも忘れるほど必死に伝えた。言葉が溢れ出て、止まらない。
『なるほど。すぐにそちらに行きたいのですが、うんがい鏡がうまく繋がらなくて。ですが、必ず……助けに行きます』
その言葉に、全員の胸に温かいものが広がった。大丈夫だ。伏姫さまが来てくれる。
「いつ来てくれるんですか!?」
考希が鏡に向かって叫ぶ。
『もう少し……時間が……』
声が揺らぎ、光が明滅する。まるで通信が不安定になっているかのように。鏡の表面が波打つように歪んだ。
「伏姫さま!」
弥信が叫んだ。
『信じて……待っていて……』
その言葉を最後に、光はふっと消えた。
部屋に再び静寂が戻る。
鏡は、ただの割れた鏡に戻っていた。
「切れちゃった……」
悌が小さく呟く。
誰も動けなかった。ただ、消えた光の残像を見つめている。呼吸すら忘れて、ただ立ち尽くしている。
けれど、胸の奥には確かに残っていた。
伏姫の声。あの優しい声。
「必ず、来てくれる」
弥信が静かに言った。
「ああ」
考希が力強く頷く。
「だから、それまで俺たちは、ここを守り抜くんだ」
全員が顔を見合わせ、小さく頷いた。希望は、まだ消えていない。
「よし、使えそうなものを探そう」
考希の掛け声で、全員が部室の中を見回り始めた。
「木刀、ありました!」
結仁が部屋の隅から、里見八犬伝の練習で使っている木刀を数本引っ張り出す。
「消火器もあるぞ」
考希が壁際の消火器をドカッと地面に置いた。
「あっ、これ……」
悌が棚から金属製の盾を取り出した。中世ヨーロッパの騎士劇で使った小道具だ。
「見た目は安っぽいけど、意外と頑丈よ」
悌が盾を叩いて確かめる。カンカンと硬い音が響いた。
「こっちにも何かあるぞ」
義翔が見つけたのは、舞台用の長い槍だった。先端は丸いが、棒としては十分使える。
「これも使えそうだな」
智陽が手に取ったのは、和風の舞台で使った鉄扇だった。開くと意外に重みがある。
「あ、これも!」
忠穂が引っ張り出したのは、時代劇で使った陣羽織と鎧だ。
「防具にはなるかも」
礼夏がそれを広げて確認する。
「いいじゃないか。揃ってきたな」
考希がニヤリと笑う。
「演劇部の武器庫、なかなかやるだろ?」
その言葉に、少しだけ緊張が和らいだ。
武器は揃った。
「ねぇ、ハーブティーって作れないかな?」
沈黙を破って悌がポツリと言う。
「舞台でも、あれだけ効いたんだ。また使えないかな?」
「また同じ手に引っかかりますかね?」
悌の言葉に智陽が返す。
「そこは高松先輩方式で!」
「「やってみるまでわからない」」
まるで示し合わせたかのように8人の声が重なる。
「確か……部室に電気ポットとハーブティーのパックがあったはず」
結仁が棚を開けると、箱に入ったハーブティーが出てきた。
「あった!」
「なら、コーヒーも用意しましょう」
「コーヒー? 飲みたいのか?」
考希が首を傾げると、礼夏が呆れたように言う。
「違うわよ。蜘蛛はカフェインが苦手なの。神経系がやられて、酔っ払ったみたいになるのよ」
「へぇ、空華は博学だな」
考希がニヤリと笑う。
「まぁ、好きなYouTuberさんの受け売りだけどね」
礼夏は照れたように頬を染めた。
「よし、じゃあ両方作ろう!」
考希が言うと、礼夏は頷き、電気ポットのスイッチを入れた。
その時。
ドンッ――と、扉が震えた。
古い蝶番が軋み、部室の空気が一瞬で凍りつく。
「みなさん! 大丈夫ですか?」
それは、聞き慣れた声だった。凛として、澄んでいて、どこか包み込むような響き。伏姫の声だ。
「伏姫さま!」
忠穂が反射的に叫ぶ。
「はい。私が来ました。もう安心です。さあ、開けてください」
ほっと胸を撫で下ろしかけた、その瞬間――
ドンッ!!
乱暴な衝撃が扉を揺らした。壁に掛けてあったポスターがはらりと落ちる。
「……え?」
もう一度。
ドンッ!! ドンドンッ!!
叩くというより、打ち壊そうとする音。木材が軋み、ドアノブがガタガタと震える。
「どうしたんです? 早く開けなさい」
声は優しい。穏やかで、焦りすら感じさせない。
なのに、扉に加わる力だけが異様に荒い。
「ねぇ……なんか……おかしくない?」
忠穂が震える声で呟く。顔色は真っ青だ。
「伏姫さまが、あんな叩き方……するかな」
弥信が一歩、後ずさる。
ドンッ!!!!
今度は衝撃でドア枠が鳴いた。埃がぱらぱらと落ちる。
「開けてください。さあ、開けて」
声が、ほんのわずかに低く濁った。
「開けて。開けて。開けろ」
最後の一言だけ、はっきりと別の響きが混じる。
「開けろ開けろ開けろ開けろ!!」
狂ったように連呼する声とともに、扉が激しく揺さぶられる。
まるで中の存在を引きずり出そうとするかのように。
部室の中で、誰も息をできなかった。




