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第十九話 鏡の亀裂、部室の沈黙

――ズン、と。

脳の奥を内側から殴られたような衝撃が走った。

 

「っ!」

 

次の瞬間、弥信の耳の奥で甲高い音が鳴り始める。キーン、と金属を擦り合わせたような耳鳴りが、思考を削り取っていく。息を吸おうとしても胸が詰まり、肺に空気が入らない。喉が締め付けられるように苦しい。視界が歪み、足元がふらついた。

頭を押さえた瞬間、こめかみが激しく脈打つ。ドクン、ドクンと心臓の音が頭蓋骨に響く。痛みは一点ではなく、頭全体を万力で締めつけるように広がり、胃の奥から吐き気が込み上げた。身体が言うことをきかず、弥信はその場に膝をつく。冷たい床が手のひらに触れた。

 

「……っ、頭が……」

 

義翔が壁にもたれ、顔を歪めて頭に手を当てる。

 

「なに、これ……耳、変……」

 

忠穂が耳を塞ぎ、苦しそうにしゃがみ込む。その顔は青ざめていた。

礼夏が誰かの名前を呼び、結仁が必死に智陽の肩を支えているのが、滲む視界の端に映った。全員が、同じように苦しんでいる。

その時だった。

ジジジと視界が激しく歪んだ。まるでテレビの砂嵐のように、現実が揺らぐ。

視界の奥に、見知らぬ光景が重なる。血と土にまみれ、倒れ伏す無数の武士たち。折れた槍、裂けた鎧、動かない手。誰も声を上げず、ただ静かに横たわっている。風が吹き、血の匂いが鼻を突く。

 

(今の……夢で見た……)

 

弥信は息を呑んだ。

瞬きをした瞬間、その幻は消え、元の校庭の光景に戻る。けれど、心臓は激しく鼓動を打ち続けていた。

 波のように押し寄せていた痛みは、ある瞬間を境に、嘘のように引いていった。耳鳴りは急に遠ざかり、頭を締めつけていた圧迫感も薄れていく。だが、完全に元に戻ったわけではない。立ち上がると足元がわずかにふらつき、胸の奥に、冷たい何かが残っている感覚があった。

 ふと、視線を向けると誰もが顔色を失い、互いの様子を確かめるように視線を交わす。


「今の……」


結仁が呟いたその時。

ガシャン!

派手な音にギョッとし、視線をむけるとそこには餓者髑髏が校舎をその巨大な手で叩き潰していた。


「ここにいちゃだめです!」

「部室に走るぞ!」


智陽の言葉に考希が言葉を重ねる。

全員が一斉に動き出す。

校庭へ続くドアから飛び出した瞬間、冷たい空気が肺に流れ込み、弥信は振り返る余裕もなく走り出した。

背後から餓者髑髏の動くガシャガシャという音と、校舎が破壊されていく音が響く。呼吸が乱れる。転べば終わりだ、そんな焦りが背中を押した。

彼らは部室を目指して、ただ無我夢中で校庭を駆け抜けた。


 部室の扉が閉まった瞬間、張りつめていた空気が一気に緩んだ。誰かが大きく息を吐き、誰かが壁にもたれかかる。震える手で床に座り込む者もいた。

 

「……さっきの、なんだったの」

 

忠穂が震える声で切り出す。額には冷や汗が滲んでいた。

 

「頭が割れそうなくらい痛くて……それに、見えたよね?」

 

その一言に、全員の視線が集まった。誰もが同じものを感じ取っていた。

 

「武士だった」

 

義翔が低く、はっきりと言う。

 

「鎧を着て、倒れてた。血まみれで」

 

悌は唇を強く噛み、震えながらこくりと頷いた。あの光景が瞼に焼きついて離れない。

 

「血の匂いまでしたわ」

 

礼夏が顔を歪める。吐き気を堪えているようだった。

 

「私も。生きてる感じじゃなかった。もう、とっくに……」

「俺もだ」

 

考希の声には、いつもの軽さが微塵もない。

 

「何人も重なって倒れてた。戦場みたいだった」

 

智陽も短く、だが力強く続ける。

 

「一瞬だったけど、はっきり見えた。まるでそこにいるみたいに」

 

重たい沈黙が部室に落ちた。誰もが息を殺し、次の言葉を待っている。

 

「……ってことは」

 

結仁が恐る恐る、だが避けられない結論を口にする。

 

「全員、同じものを見たってことですよね」

 

誰も否定しなかった。否定できなかった。

それが偶然でも錯覚でも集団幻覚でもないことだけが、重く、確かに部室の空気を支配していた。

沈黙を破るように、礼夏が鞄を開いた。

 

「とにかく、伏姫さまに戻ろう」

 

そう言って取り出したのは、布に包まれた小さな鏡だった。部室の蛍光灯を受け、鈍い光を返す。

 

「うんがい鏡……」

 

弥信が息を呑む。ここへ来る前、何度も彼らを助けてくれた大切なものだ。礼夏は慎重に包みを解き、そっと床に置いた。

次の瞬間だった。

ピシリ、と乾いた音が走る。

鏡の表面に、細い亀裂が一本、蜘蛛の巣のように広がり始めた。

 

「……え?」

 

結仁が声を失う。

 

「ちょ、待って、ヒビ……!」

 

考希が慌てて鏡に手を伸ばすが、触れる前に亀裂はさらに増え、歪んだ光が滲んだ。まるで鏡が呼吸しているかのように、ひび割れが脈打つ。

 

「嘘でしょ……今まで、こんなこと一度も……」

 

礼夏の声が震える。彼女の手も小刻みに震えていた。

部室の空気が一気に冷え込み、誰も次の言葉を見つけられなかった。鏡が割れる音だけが、静寂の中で響き続けている。


「落ち着け」

 

 義翔が低い声で言った。

 

「まず、状況を整理しよう。全員が同じ幻を見た。鏡にヒビが入った。これは偶然じゃない」

「でも、だからってどうすればいいの」

忠穂が不安げに問う。

「伏姫さまに会えないなら、私たち、どうしたら……」

「一旦帰ろうよ」

 

悌が冷静に提案する。


「今日はもう無理だ。明日、また集まって考えよう」

「明日?」


 礼夏が声を上げた。


「のんびりしてる場合じゃないでしょ。あんなものを見たのに」

「だからこそ、冷静になる時間が必要なんです」


智陽が諭すように言うが、礼夏は首を振る。

 

「冷静に? 私たち、何が起きてるのかも分からないのよ」

「分からないから焦ってもしょうがないだろ」

 

考希が言った瞬間、空気が変わった。


「あなた、本当に怖くないの? さっきの光景、血の匂い、全部ただの幻だって言い切れるの?」

「そういう意味じゃ……」

「じゃあどういう意味よ!」

 

礼夏の声が震える。恐怖が、怒りに変わっていた。

 

「私たち、何かに巻き込まれてるのよ。死んだ武士が見えて、鏡が割れて、それでも『焦るな』って?」

「空華先輩、落ち着いてください」

 

結仁が制する。


 忠穂も声を荒げる。

 

「みんなは怖くないの?何が起きてるか分からなくて、どうしたらいいか分からなくて……」

「だから考えようって言ってるだろ!」

 

義翔も感情的になる。


「喚いたって何も解決しない」

「喚いてなんかいない!」

「喚いてるよ!」

「やめてよ!」


悌が叫んだ。

 

「喧嘩してる場合じゃないでしょ!」


 だが、もう誰も聞いていなかった。恐怖が、疑心が、怒りが、部室の空気を支配していく。

弥信は黙って床を見つめていた。何を言っても、この混乱は止められない。


 (壊れちゃう……演劇部が……壊れちゃう)


弥信はギュッと拳を握りその瞳からポタポタと涙︎が零れた。


その時。


「わぁぁぁぁ!」


突然、考希が大声を上げた。

全員がその大声にピクリと肩を揺らす。


「なに!? いきなり大きな声出して!」


礼夏が顔を顰めて考希を睨みつける。


「いやな、確かに俺たちは子供だ! 剣だって、八房殿に少し教わっただけだ!」


考希は一歩前に出る。


「でも……だからなんだ?」


一瞬、全員が言葉を失った。


「お前たちは、本番前に『セリフを間違えたらどうしよう』『動きを失敗したらどうしよう』って考えて、舞台に立つのをやめるのか?」

「……お芝居とは違うのよ。これは現実なの」


礼夏が苦い表情で言う。


「そうか?」


考希は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、やがて笑った。


「お芝居も現実も、やる前から起こってもいないことを考えても仕方ないだろ。やれることを精一杯やって、もし何か起きたら……その時は、みんなでカバーすればいい」


考希はゆっくりと、仲間たちを見回した。


「ずっと、そうしてきただろ?」


沈黙が落ちる。

それを破るように「ふっ」と結仁が声を漏らす。


「部長にそう言われると……なんか、できる気がしてくるから不思議ですよね」


結仁が苦笑い混じりに言った。


「本当に。さすが、我が部の太陽です」


弥信も小さく笑って続ける。


「……ちゃんと考えてるのね」


礼夏の言葉に、弥信は「ほら」と言うように考希を見てクスクスと笑った。


「んー……これでも部長として、考えてるつもりなんだがなぁ……」


考希は困ったように頭を掻いたが、すぐにパン、と手を打った。


「よし! なら、何ができるか、考えよう」


考希の言葉にその場の空気だけが確かに変わった。

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