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第十八話 八犬士に鉄槌を

縋るような思いで、八人は校舎の重い玄関をくぐった。

廊下には、いつも通りの喧騒が溢れていた。談笑する生徒たち。上履きで床を鳴らす音。教科書をめくる音。その「普通さ」が、今はかえって不自然で、弥信の不安感を煽った。まるで、何かが潜んでいるかのような、張り詰めた空気。

弥信と忠穂は、自分たちの教室、二組のドアの前に立った。

中からは、聞き慣れたクラスメイトたちの笑い声が聞こえてくる。

二人は顔を見合わせ、弥信は祈るような心地で、教室の引き戸に手をかけた。

ガラリ、と乾いた音を立ててドアを開ける。

その瞬間、笑い声が途切れた。

まるでスイッチが切れたように、一斉に、完全に。

静寂が、教室を支配する。

そして、全員の顔が、ゆっくりと、こちらを向いた。

誰も、瞬きをしない。

誰も、表情を変えない。

ただ、大きく見開かれた瞳孔だけが、二人を獲物のように捉えていた。

まるで、人形のように。

 

「おは……よう……?」

 

忠穂が掠れた声で挨拶を口にする。

だが、返事はない。ただ、じっと見つめられているだけ。その視線は冷たく、生気がなく、何かに支配されているかのようだった。

 

(何……? なんで……?)

 

弥信は心臓が早鐘を打つのを感じた。喉が乾き、息が浅くなる。

二人は顔を見合わせると、弥信は震える足で自分の席へと向かった。


(どうしたんだろう、みんな……)

 

不安が胸を締め付ける。けれど、理由がわからない。ただ、何かが決定的におかしい。

やがて、予鈴が鳴り、担任の教師が教室に入ってきた。

 

「おはよう。席に着いて」

 

いつもと変わらない声。生徒たちは静かに着席し、教室に異様な緊張感が漂う。弥信は息を殺して、席に座った。

 

「それでは、今日の授業を始めます」

 

教師は黒板にチョークを走らせ、大きく文字を書いた。

 

「里見八犬伝の真実」

 

弥信は思わず息を呑んだ。背筋がぞわりと凍りつく。

 

「皆さんは『里見八犬伝』という物語を知っていますね。八人の犬士が悪と戦い、世を救う――そんな美しい物語として語り継がれています」

 

教師は教室を見回しながら、ゆっくりと、まるで呪文を唱えるかのように言葉を続けた。

 

「しかし、それは真実ではありません」

「え……?」

 

弥信は目を見開く。心臓が激しく鼓動を打つ。

 

「実際には、八犬士こそが『悪』だったのです」

 

教師の言葉に、弥信の心臓が跳ねた。

 

「彼らは『正義』を掲げながら、多くの人々を苦しめました。彼らの行いによって、どれだけの命が失われたか。歴史はそれを隠し、美化してきたのです」

 

黒板に、次々と文字が書かれていく。

「八犬士=悪」

「玉梓=被害者」

弥信は信じられない思いで、黒板を見つめた。違う。そんなはずがない。

 

「玉梓さまという女性を知っていますか? 彼女は八犬士によって不当に命を奪われた、哀れな被害者です。彼女の怨念は、正当なものでした」

 

教師はコンコンと黒板をチョークで叩く。その音が、まるで心臓を叩くように、教室に響く。

 

「しかし、八犬士はそれを『悪』と決めつけ、玉梓さまを封印した。これが真実です」

 

弥信は震える手で机を掴んだ。指先が白くなるほど強く握りしめる。

 

(違う……そんなの、違う……!)

 

心の中で叫ぶが、声は出ない。喉が詰まって、何も言えない。

周囲のクラスメイトたちは、真剣な表情で教師の話を聞いている。誰も疑問を持たない。誰も否定しない。まるで洗脳されたかのように。

 

「ですから、皆さん。八犬士の子孫である者たちも『悪』です。彼らは今もなお、私たちを欺こうとしているかもしれません」

 

その言葉に、再び教室中の視線が弥信と忠穂に向けられた。

一斉に。

背筋に冷たい物が走る。全身の毛が逆立つような恐怖。

 

「八犬士の子孫には、鉄槌を」

 

先生が低く、重い声で言う。

 

「八犬士の子孫には、鉄槌を」

 

つられるように、クラスメイトたちも口を揃えて言う。その声は不気味に揃っていて、まるで一つの生き物のようだった。

 

「八犬士の子孫には、鉄槌を」

「八犬士の子孫には、鉄槌を」

 

何度も、何度も、繰り返される。

 

「忠穂!」

 

弥信は立ち上がり、カバンを掴むと教室を飛び出した。

 

廊下に出た瞬間。

 

「安堂!」

 

振り返ると、廊下の奥から智陽と義翔が駆け寄ってきた。

 

「お前も、か……」

 

智陽が苦い表情で呟く。

 

「私たちのクラスも同じだった。八犬士は悪だって……」

 

義翔が続ける。その顔には、怒りと困惑が混じっていた。

 

「どうして……こんなことに……」

 

忠穂が震える声で言いかけた、その瞬間だった。

 

「安堂! 仲西!」

 

鋭い考希の声が降ってくる。

 

その瞬間、智陽が弥信と忠穂を押し倒した。

ガシャン!

背後の壁から、鈍い音が響いた。

振り返ると、階段の上から机が転がり落ちてきて、床に激しくぶつかっていた。あと少しずれていたら、直撃していた。

 

「逃げるぞ!」

 

智陽の声に、全員は走り出した。

けれど、廊下の両端から、大勢の生徒たちが迫ってくる。

 

「うわっ、マジかよ!」

 

義翔が後ろを振り返り、顔を歪めた。

生徒たちは無言で、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めてくる。その目には光がなく、まるで操り人形のようだった。表情もなく、ただ前を向いて歩いてくる。

 

「こっちだ!」

 

智陽が廊下の角を曲がる。

だが、そこにも生徒たちがいた。

 

「囲まれた……!」

 

弥信が絶望的な声を上げた瞬間、生徒たちが一斉に襲いかかってきた。

 

「くそっ!」

義翔はロッカーを開け、中にあったバスケットボールやバットを掴み、次々と投げつけた。

 

「これでも食らえ!」

 

ボールが生徒たちに当たり、何人かが怯む。けれど、それでも止まらない。まるで痛みを感じていないかのように。

 

「数が多すぎる……!」

 

義翔が後ずさる。生徒たちの波が、容赦なく押し寄せてくる。

そのとき、廊下の奥から、ドンという重い音が響いた。

 

「どけぇぇぇ!」

 

悌が全速力で走り込み、生徒たちに体当たりをかました。

ガシャン!

何人もの生徒が吹き飛び、床に転がる。

 

「部長!」

 

続いて考希が現れ、襲いかかる生徒たちを次々と投げ飛ばしていく。

 

「お前ら、無事か!」

「部長……!」

 

弥信の目に涙が浮かんだ。

 

「泣いてる場合じゃねえぞ! 早く逃げ――」

 

義翔の言葉が途切れた。

その時、下の階から、大きな悲鳴が聞こえたのだ。

 

「うわぁぁぁぁ!」

「結仁! 行くぞ!」

 

弥信たちは考希の言葉に頷くと、一斉に階段を駆け下りた。

踊り場に辿り着くと、そこには信じられない光景が広がっていた。

結仁が床に倒れ、その上に大勢の生徒たちが折り重なるように覆いかぶさっている。まるで、生き埋めにされているかのように。

 

「結仁!」

 

考希が叫んだ。

 

「くそっ……!」

 

智陽は咄嗟に廊下の消火器を掴み、安全ピンを引き抜いた。

 

「どけぇ!」

 

白い煙が勢いよく噴き出し、生徒たちを包み込む。

 

「うっ……!」

 

生徒たちが怯んだ隙に、義翔と弥信が結仁の腕を掴んで引っ張り出した。

 

「結仁、大丈夫!?」

「うぅ……なんとか……」

 

結仁が苦しそうに答える。

 

「踊り場の鏡! あそこから戻れる!」

 

考希が叫んだ。

全員が一斉に踊り場へと駆け出す。

鏡はすぐそこだ。あと少し――

ガシャァァン!

突然、横から椅子が飛んできて、鏡に激しくぶつかった。

鏡は粉々に砕け散り、床に無数の破片が散らばった。

 

「嘘だろ……!」

 

智陽が絶望的な声を上げる。

 

「部室だ! 部室に逃げるぞ!」

 

考希が決断を下し、全員で階段を駆け下りる。

一階に降り、外へ続く扉を開けた瞬間。


 ――どくり、と。

 頭の芯を直接叩かれたような衝撃が突き抜けた。直後、弥信の耳の奥で鋭い高音が鳴り響く。キィン、と金属が擦れるような耳鳴りが、思考を少しずつ削ぎ落としていく。息を吸おうとしても胸の内が締めつけられ、肺が空気を拒む。視界がぐにゃりと歪んだ。

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