10
――私、見ちゃった……
「何を?」
――よっぴーと吉野さん、キスしてた。
翔はしばらく無言だった。スマホを持つ手が震えた。
そして叫んだ。
「そんなのありかよ!」
――ごめん。やっぱ言わなきゃよかったかなあ。
「いや、言ってくれてありがとう」
その日の電話はそこで終わった。
この夜は大雨に加えて突風も吹いていた。風が気流音を立てて壁に当たるたび、翔の部屋はわずかに揺れた。雨が風に吹きつけられて当たると、まるで波をかぶった船室の中にいるような水音が響いた。台風が来ているという情報は天気予報では言っていなかったが、嵐の夜そのものだった。
翔はいつまでも眠れずにいた。
翌朝、空はきれいに澄んでいた。翔は充血した目で大学へ行った。教室に入って授業を受け、そして終わってからも翔は誰とも話さなかった。
昼下がり、翔はタワー校舎と百周年記念講堂に挟まれた、通用門に面した中庭のベンチに一人で座っていた。
空は抜けるように青い。通用門から出て行く学生と入ってくる学生がほぼ同数に流れていた。皆、翔とは関係のない時間を過ごしている。
「生きてやがる」
翔はそんな学生たちを見ながら、ぽつんと小声でつぶやいた。
「どいつもこいつも生きてやがる。勝手にいつまでも生きているがいい」
彼らの笑顔には、同じ大学の同じ学生なのに翔は入り込めなかった。心の中に四インチほどの穴が開いて、思考というものがすべてブラックホールのようにその穴に吸い込まれてしまう。
そんな時、黄色い長そでシャツに水色のボックススカートの女子学生が、五階建ての百二十周年記念2号館の方から歩いてきて、翔の前を横切ろうとした。知っている顔だが、翔は声もかけずに眺めていた。
だが、彼女の方から翔を見つけた。
「あら、寺島君、久しぶりね」
そう言って歩み寄ってきたのは、翔と同じ語学の授業を取っている平尾美月だった。ロブカットの髪が、くりくりとした瞳を持つ整った顔を包んでいる。
「どうしたの? 元気ないんじゃない?」
「ちょっといろいろあってね」
「どうしたの?」
心配そうな顔つきで、緑は翔と同じベンチの右隣に腰掛けた。
翔はこの美月にも、陽子とののろけ話を散々聞かせていた。もちろん夏休み中だったから直接にではないが、LINEで報告していたのだ。
翔はにこりともせず、陽子との現状や美咲たちに聞いた話などを美月に話した。
「ばかねえ。今さらそんな気持ちになるんなら、なんで彼女を手放しちゃったのよ」
「あの時は比企とかが別れちゃえって言ったし」
「ひとのせいにしてもだめでしょ」
「そうだけど」
「それは済んだこととして、これからどうするかよね」
翔は黙って、目の前のタワー校舎の一階部分の壁を見ていた。
「ねえ、寺島君」
美月は翔を見た。
「このまま放っておいたら、彼女ますますだめになっちゃうよ。彼女のためを思うんなら、今何とかしてあげた方がいいんじゃない?」
「もちろん、そうするつもりだ」
「真心を示せば分かってくれるよ、きっと」
「うん」
「とにかくがんばってね。元気出してよ」
美月はさわやかに笑うと立ち上がった。
翔はまだ残っているけど、沈黙を保っている陽子のトークルームを開いた。だが、画面右上の電話の受話器のマークをどうしてもタップできない。でもなんとか意を決して、指を動かした。コール音が三回鳴った。
――なに?
鋭い冷たさを持つ、それでいて懐かしい陽子の声がスピーカーから流れた。
「元気か?」
――なんとか。
だが、その声に懐かしさを感じたのはほんの一瞬だった。すぐに、陽子は無言になった。
翔は話題が見つけられないまま、適当なことを言った。
「ドラちゃん、元気?」
――うん。
また沈黙が流れた。
「新しい彼氏、できたのか?」
――そんなのいない。
また、間が開いた。
「そろそろ、会いたいんだけど」
――二月じゃなかったの?
「もういい。会いたい」
――試験があるし、来週の日曜はドライブ行くから時間もないし、とにかく忙しい。
「ドライブって、好きな人と?」
――そんなのいないって言ってるでしょ。
陽子はきつい口調でそう言った。
「突然電話して、びっくりした?」
――迷惑です!
翔は返す言葉がなかった。だが、気がつくとついカッとなっていた。
「俺、お前のこと振った覚えないぜ。しばらく空白期間を置こうって言っただけじゃないか」
――そうだっけ?
意外そうな口ぶりだったが、すぐに陽子はまたきつい口調になった。
――とにかく今は寺島さんのこと何とも思ってないし、会うつもりもありません。空白期間なんかじゃないです。
「寺島さん?」
もはやかっちゃんとも呼んでくれない。これはきつい。
「俺、諦めないぜ」
つい翔は大きな声で言った。
「ごめん、興奮しちゃって。とにかくまた電……」
翔の言葉の途中で、プツッと通話は切られた。
翔の心の傷口から、目に見えない血が流れ出た。
翔は思わず苦笑した。そのうち、大声で笑いだした。
今電話した相手は到底昔の、自分の彼女だった陽子ではなかった。もう、何かが吹っ切れた感じだ。
すぐに珠実にLINEした。
――[電話したの?]
――[した。よっぴー。全くの別人だった]
――[よっぴーがおかしいのは俺のせいじゃなかった]
――[だから今さら俺が出てってもどうしようもなかった]
そして翔は、電話でのやり取りをかいつまんで書いた。
――[よっぴー。かわいくない]
――[でもすっきりした]
――[俺が愛したよっぴーはもうどこにもいない]
――[翔さんはそれでいいけど、私たちはどうすれば?]
――[もう、俺には関係ない]
――[よっぴー、ずっとあのまんまだったらたまんない]
――[勘弁してよ]
――[様子見るしかないね]
――[ねえ、私たちとはこれからもお友達でいてね]
――[OK]
――[みっちゃんにも言っとく]
――[みっちゃん、今めっちゃ忙しく私が電話しても出ない]
――[じゃあ、お願い]
それから、まだLINEが通じていない茉緒に電話した。
――よっぴーがおかしくなったのは、結局は環境のせいよ。女子高出て女子大に入って、でも合同練習で突然男の人と接する生活に変わったからじゃない?
「もういいよ、そんなことどうでも」
笑いながら、翔はそう言った。




