13/5「リベレーター」
13/5「リベレーター」
オシカの戦いの勝利が覚めたころ合いである。懸念されたボルトンの動きはなく、戦局は再び硬直状態に陥った。
以前より状況は悪くない。場当たり的な対処に忙殺されていたマリネスクも自身の動きを取ることができるようになり、その日は一人の客人を自らの邸宅に招いていた。長官職についてから入ったその邸宅はそれなりのものではあったが長官職の椅子と同じようにマリネスク本人はそれを自らのものとは捉えておらず家財は必要最低限。生活感も希薄だった。
「ご立派な屋敷ですね」
クリスティアーノの言葉はどういう意味であれマリネスクを喜ばせる気がないことだけは確信できた。マリネスクは動じることもなく自ら客人にコーヒーを出した。
「もともと根を張るつもりで来た土地ではない。本来ならそこらのマンションでもよかったんだがね。立場とは厄介なものだよ」
捨て石の長官職として単身赴任してきたのである。長くても1年そこら。マリネスクは作戦部に通う以外の機能をひと時の住処に求めていなかった。ところが見栄を重視した派閥側が勝手に用意したのがこの邸宅だった。少しでもいい目を見させてやろうという心根が透けて見える。
クリスティアーノはマリネスクをまじまじと凝視した。既視感を覚えたのである。
妙齢の、それもノーブルブラッドの双眸に凝視されてマリネスクは居心地悪そうに咳払いをするとクリスティアーノも姿勢を正した。
「今日、君を呼んだのは私的な要件と言える。この際、お互いの階級は抜きにして聞いてほしい」
普段のクリスティアーノなら際どいジョークをぶち込むところだがこの時ばかりは弁えた。マリネスクはローマ師団司令ではなく、マウラ閥としてのクリスティアーノを招待しているわけだ。
「伺いましょう」
出されたコーヒーを口にしたクリスティアーノは驚いた。安物だった。一瞬バカにされているのかと思ったクリスティアーノだったがマリネスクにそんな意味はないはずである。それにこの邸宅の有様である。マリネスクにはそういうノウハウがないか、もしくは意図的に無視しているのだろう。無礼である。しかし無礼さで言えばクリスティアーノは人のことをとやかく言える立場にないので触れてはやらないでおくとして。
慣れないことをやってまで何をお願いしてくるつもりだ?
儀礼的なもてなしに飽き飽きしていることもあってクリスティアーノは却ってマリネスクに対して個人的な興味を強めた。
「戦略的なことは君と話しても詮無きことなので単刀直入に言おう。月を動かしたい。そのためにジェンス社とコンタクトを取りたいのだ。その仲介をマウラに頼みたい」
クリスティアーノに衝撃が走った。そして抱えていた既視感の正体が姿を見せた。
ロバート・ローズ。この男もローズと同じくして追い込まれた道の中で新たな活路を見出し、その道を行くために自分自身を変えたのだ。
面白いなぁ本当に。マリネスクを追い込んだ大きな要素の一つだが予想外の飛躍には笑うしかない。ローズと違ってマリネスクは老人だ。生き残るため、というよりは最後の一花といったところか。
クリスティアーノは笑いを堪えるのにしばらく精神を集中する必要があった。どうするかを考えるのはその次になったためマリネスクにはかなりの長考と映った。幸い内容が内容なのでそれも不自然にはならなかった。
さて、月を動かしたいというのは解る。そのためにジェンス社とコンタクトを取りたい。それに何の意味があるのか?正規ルートでは埒が明かないというのは事実だが、よりにもよってジェンス社なのはなぜか?そもそもどういう理屈で月を動かす気なのか。
それにジェンス社とコンタクトをとるためのチャンネルとしてマウラを選んだのはなぜなのか?何もマウラでなくともコンタクトそのものは取れる。マウラにコンタクトが取れるのを知っていて、マウラである方が都合がいいと考えているわけか。これに関しては察しがつくのだが確認はしておくべきだろう。
さて、どこから手を付けるべきか。クリスティアーノはサネトウに聞きたいところだったが現状は自身で何とかするしかなかった。
「何故ジェンス社なのでしょうか」
もっともな疑問だとマリネスクは頷く。
「まず一点は私にその分野で力を発揮できる政治家への繋がりがないことだ。伝手を辿ればたどり着くだろうが、その場合は巻き込む人数が多くなる」
それは払う代償も大きくなることを意味している。また関わる人間が増えることも今のマリネスクにとっては避けたい状況だろう。クリスティアーノはマリネスクの説明に納得はしているが表情には出さなかった。
「もう一点。月を動かす理屈が月に利益を与えるものである以上、ジェンス社を無視することは適当ではないと考えたためだ。もっと端的に言うなら月と一緒に彼らも巻き込んだ方が不確定要素も減って状況をシンプルにできるということだ」
もちろんジェンス社を巻き込むことにもリスクがあるが放っておく方がよりリスクが高い。これはクリスティアーノにも充分理解できた。
「利益を与えあっているうちは信用できる、ということですか」
「そういうことだ」
マリネスクの台詞はほぼほぼハモンドの受け売りだったので確信を持って語ることができた。
理屈としては納得できる。クリスティアーノも回答には満足した。しかし理屈とは別に不可解な点がある。なぜそれを個人的な話にする必要があるのか?ということである。月を動かしたいというのは連合軍としては真っ当な考えであり、それは正規の手続きを得て行うだけの理屈がある。それを得ないのは何故か。大方の察しはつく。
クリスティアーノは膝を組むと冷笑と共に吐き出した。
「あなた、一体誰と戦うおつもりですか?」
段飛ばしに核心を突かれたマリネスクは絶句した。自身が身内を敵にして戦うつもりであることと、そのための味方を欲していることを一瞬で見透かされた。この瞬間、クリスティアーノはマリネスクより優位に立った。彼はローマ師団司令のクリスティアーノしか知らなかったがその本性が軍閥の長であることを改めて認識した。
劣勢に立たされたマリネスクだったが大きく息を吐いた後に見せた表情は少しも萎えていなかった。
「誰と戦う、か。正直なところ最初は私を利用していた連中だったよ。私は私と言う存在を歴史に真っ当に記すことができればそれでいいと考えていた。まぁつまるところ自分のために戦っていたわけだが」
安い動機だな。とクリスティアーノは隠すこともなく失笑していたがマリネスクは言葉探しに没頭していた。
「不本意ながら背負わされた責任とここまでの過程、成果が目的達成のための道筋をつけはじめた。すると、その目的に変化が生じた。自分の有り様を決めると方向が定まる、その方向に歩きはじめると、道が定まる。道ができれば目的が定まる。つまり、最初からそう考えていたわけではないのだが。私は私の手でこの戦争を何とかすることができるのではないか?と考えてしまったわけだ。そもそも、そういう職務だしな」
次の言葉に躊躇してマリネスクは言葉を詰まらせた。嫌な予感を覚えてクリスティアーノは顔を顰める。聞きたくない宣告をされる。
「何と戦うのか、という話だったな。つまるところ私の戦う相手というのは」
また少し躊躇ってからマリネスクは気恥ずかしそうに溢した。
「時代、ということになるかな」
この時のクリスティアーノの心境は子供じみている。バンドマンを目指している子供が親父もかつてバンドマンだったことを知ったような気持ちに近い。侮っていた相手が急に自分と同じ方向に歩いていることを知ってしまったのである。仲間がいたと喜べるような気持ちにはならなかった。
「子供じみた発言ですね」
どの口で言うのかとカリートリーなら呆れるところだろうがクリスティアーノは自身を大人とは考えていないので悪びれることもなく、マリネスクに呆れて見せた。ところがマリネスクの方も苦笑するだけで恥じ入りもしなかった。
「全くだ。私もまさかこの年でそんなことを考えることになるとは思わなかったよ」
イラ立ちがクリスティアーノに芽生える。この老人と言っても差し支えない男が今さら自分と肩を並べることへの嫉妬ややっかみに近い嫌悪。後から来た客人に主役を取られるような気分がクリスティアーノにあった。
とはいえ、それで臍を曲げるわけにもいかない。クリスティアーノは冷ややかな表情を維持して要件と向き直った。
マリネスクは独立して自派閥と対決するつもりだ。そのための後ろ盾として自分たちとジェンス社を利用する。劇薬だが連合内の既存勢力を出し抜いて状況を覆すには効果的だろう。
ジェンスとマリネスクを繋げる。これも無理な話ではない。マリネスクに恩を売ることも問題はない。懸念点は2つ。マリネスクを擁立したMPE派閥を敵にすること。もう1点はマリネスクがジェンス及び、月統合国と渡り合えるのかの2点。
MPEはクリスティアーノとは相いれない理念を持つ勢力である。敵に回すことに関しては早いか遅いかの違いでしかない。マリネスクの行動を利用すれば早い段階で封殺できる可能性もあるし、彼がいるうちはマウラが主敵とならずに済む。ただしマリネスクにそれができるかはまた別問題だ。これは2つ目の懸念点にもつがなる。この男にそれだけの器量があるのか?
ここで一つの疑問が湧いた。そもそもこれほど大胆な考え方をマリネスク個人がしているのか?という点である。思想が逆転することは切っ掛けさえあれば起きうるだろうが思考はそうではない。入れ知恵をしている奴がいるはずだ。
「紹介することは構いませんが、そのシナリオは誰が考えたのかお聞かせ願えませんか。失礼ですが、あなたとは思えませんし、裏に誰かがいるのであればその人物の信頼性が気になる」
わざと失礼な聞き方をしたのだがマリネスクは気づかないのか、無視したのか平然と答えた。
「スティーブン・ハモンド」
おやまぁ。意外なブレーンの登場にクリスティアーノの表情が綻ぶ。クリティカルな人材と言えなくもない。ハモンドであれば投げ出す心配はあっても裏切る心配はなく、能力的にも問題はない。確かに奴であればこういう話を切り出すだろう。クリスティアーノは充分に納得した。
「なるほど。しかしよくあの男を味方につけましたね」
もともとハモンドは前司令長官の側近であり、立場的にはマリネスクとは真逆に位置する。使うマリネスクもそうだが、使われるハモンドもどの面下げて、と後ろ指をさされるところだろう。
「なりふりを構わなければ道は案外とそこかしこにあるものさ」
それは今の状況にも表れていた。マリネスクはどこか清々したという表情で語る。少し前であればクリスティアーノなどという得体の知れない人物と取引などあり得なかっただろう。立場的にも本来は対立する相手である。しかしそんなものは今のマリネスクには些事だった。利用できるなら何でも使う。自分自身も含めて。
マリネスクの太々しい考えにクリスティアーノはまたしても苛立つ。そのスタンスが自分と共通していることを頭で肯定して心で否定していた。それは皮肉として口をついた。
「なるほど。で、次はこちらを引き込もうと。つい最近まで派閥の重鎮であった方が随分と軽薄な行動をなさいますね」
見ようによっては尻軽で自分勝手な行動である。これはMPEから見えればまごうことなき事実でもある。
「恥知らずと思うかな?」
「そうですね。ご自身の経歴に少しは誇りを持っては?」
言ってのけるクリスティアーノにマリネスクは苦笑するが動じた様子はなかった。
「誇りなどと言うものは捨てる時くらいしか役に立たないものさ。なければないで厄介なことになるから持っているだけのことだよ」
まるでバラストだな。とクリスティアーノは思ったが、これは言い得て妙な表現かも知れなかった。重石は何かを安定させるために必要なものだが、足を引っ張る重量物でもある。捨て去る方が適切なタイミングはある。そして捨てたままでもそれはそれで問題となる。
マリネスクは誇りや矜持をそのように捉え、ハモンドに至っては最初から気にもしていない。恥知らずにもそういう二人が手を組む。奇異な巡り合わせだが悪くはない。
もとよりハモンドが中央に戻ることを望んでいたクリスティアーノにとっては予想より早くそれが実現したことになる。困ったことにこれで益々マリネスクに肩入れする理屈が増えてしまった。
「なるほど。あなたがここまで何事もなく出世してこれたのも納得できました」
何の実績もなく長官となった男の処世術をクリスティアーノは冷笑したがやはり相手には堪えない。
「実力がなくても無茶をしなければ案外と出世はできるものさ。実力があるばっかりに無茶をして出世できなかった人間を私は何人も見てきた」
「なるほど。それは私にもあてはまりそうですね」
クリスティアーノは素っ気なく言うが失言をしたような形になったマリネスクは何と返したらいいものかという表情をした。
面白くない男だな。クリスティアーノはマリネスクをそう評した。公人としての立ち回りなどは別として咄嗟の機転やユーモアには欠ける。やはりマリネスクという男個人の才覚は凡庸であり、彼の今の立場はあくまで時流が作り上げたものでしかないのだ。
とはいえ、凡庸であろうが時流に乗って勝者となった人間は数多くいる。むしろ自分たちが勝たせる上では都合のいい性質とも考えられる。
神輿は軽いに限る。少々華やかさには欠けるのが不満だが。
クリスティアーノはそうしたマリネスクの欠点を見つけることで自分を納得させた。
「解りました。お引き受けしましょう。もちろん条件と報酬が必要ですが」
当然だろうとマリネスクは頷く。クリスティアーノが出した条件は想像を裏切るようなものではなかった。
「まず条件は、MPEと完全に手を切ること。我々も今さら軍部の大勢が二転三転されるのを歓迎しません。ここに至ってはあなたに軍部を掌握していただきます。そのための援助はしましょう。ただしそれはあなたに対してです。MPEではない。この先はあなたが勢力の長となり、主役になってもらう」
マリネスクは低く唸る。この要求はハモンドによって予測されていた。マウラ閥は既存の勢力との共存を好まない。マリネスクを担ぎ上げて、新しい態勢を望むだろうと。
この要求はマリネスクの心理的な抵抗を別にすれば僥倖と呼べるものだった。マリネスクは実態はともかくとして今のところMPEが後ろ盾となる勢力の下にあるが袂を別つときは間違いなくくる。本格的に決別する時の味方は増えつつあるがそれも今のところ烏合の衆でしかない。マウラはマリネスクに味方する最初の強力な後ろ盾となるだろう。
とはいえ、無邪気に飛びつくわけにもいかない。いまだマウラ閥の目的は不透明なままである。クリスティアーノの目的とマリネスクの目的が一致するとは限らない。
「つまり、今度は君たちが私のプロデューサーになると?」
「正確な表現ではありませんね。我々は担ぎ手にはなっても黒幕にはならない。あなたは我々に見限られないようにだけ注意していればいい」
つまり深入りする気はないということか。その理由もやはり目的が関わっていそうである。マリネスクには自分が考えてもしょうがないことに思えるのであとでハモンドに考えてもらうことにする。で、あるならば自分がすべきことは材料を集めることだ。
とりあえず、マリネスクはこの条件を一端保留した。次にクリスティアーノが欲する報酬にハモンドが判断をするための材料があると考えたのである。
「報酬の方は何かな?」
「ある犯罪を見逃していただきたい」
マリネスクは身構えた。内容もそうだが犯罪とはっきり言い切るのも交渉事として真っ当なやり口ではない。
「何をするつもりかね」
当然の質問だったがクリスティアーノは首を振る。
「やるのは我々ではありません。私は起こることを知っているだけ。ただ、できればそれが何事もなく終わることを願っているのです。この件に関わることは避けた方が無難ですし、私もそうするつもりでいます。ならばいっそ話さない方がマシではないかと考えるかもしれませんが、問題はその後でしてね。そこで多少我々が仕事をすることになる。犠牲は少ない方がいい。関わる人間を可能な限り減らしておきたいというわけです」
マリネスクは腕を組んだ。考えることが多すぎて立ち竦んでしまいそうだがこの時点で彼は判断を下すことを放棄しているので些細でもいいから情報を得ることを優先した。
「具体的には何をしろと?」
「事件が起こった後の捜査を積極的に進めないでいただきたい」
頭の回らないマリネスクでもこの要求の意図は解った。クリスティアーノはその事件を有耶無耶にするか、さもなくば別のシナリオで書き換えるつもりだ。そのための下準備をしており、従って関わる人間は少なくしておきたい。
過大な要求というほどのものではない。忌々しいことにマリネスクにとってみれば「見ないふり」はこれまで使ってきた処世術の中でも代表的な手である。そうすること自体は簡単だ。この手法の強いところは相手の急所に潜り込めるということであるが、それは同時に最大の欠点でもある。クリスティアーノ相手にそれはどちらに転ぶか。厳密には、ハモンドはどちらと受け取るか。
「解った。何を言われても基本的には引き受ける方でとハモンドには言われている」
「おやまぁ、ならもっと吹っ掛ければよかったですね」
マリネスクの言葉は自分には決定権がないと表明したようなものだったが対するクリスティアーノも似たような形で部下に決定権を任すことがあるので気にも留めなかった。
「可能な限り早く形にします。そちらの対応はその後でも結構」
そういうとクリスティアーノは席を立った。見送ろうとするマリネスクを制すとクリスティアーノは嫌味な顔をして個人的な意趣返しを喰らわせた。
「客に出すコーヒーはもう少しマシなものを出した方がいいでしょう」
言われたマリネスクは頭を掻いた。彼としては近場にあった中では一番いいものを出したつもりだったのである。ただし、その一番とは近所の総合量販店での話だったのだが。
翌日、マリネスクは収穫をハモンドに報告する。その内容にハモンドは概ね満足している様子だった。
「いいでしょう。クリスティアーノの報告待ちですが、要求はそのまま呑んでもらって構いません」
「クリスティアーノのいう犯罪に関しては何とも思わんのかね」
半ば呆れ気味にマリネスクは問うがハモンドは肩を竦めるだけだった。
「最初の条件と複合して考えれば我々にとって不利益になるものではないでしょう。黙っていられる、見ないふりができる程度の内容であるからこそ要求してきたと考えればこれはお願い程度のものです」
「市民としての精神に反するな」
冗談か本気なのか判別しがたい口調でマリネスクは嘆いた。ハモンドは損得でしか見ていない。内容に関わらず犯罪を見過ごすなど本来はあってはならない考え方だった。とはいえマリネスク自身も放置してはならないと考えているわけではない。ハモンドは皮肉と受け取る一方でマリネスクの忸怩たる思いに共感を覚える。
「これは失礼。参謀などやっているとそのような精神とは縁遠くなってしまう」
もちろん思うだけだった。そんな健全な精神で戦争などやっていられない。ましてハモンドたちがこれから戦う主敵はそのような考えを食い物にする連中である。
「まぁ、やりたくなければやらなくてもいいでしょう。恐らくこの要求はクリスティアーノにとってみれば必須と言えるほどのものではない。断ったところで別の要求を提示してくると思います」
本気で困っていて必要な要件ならばこのような突発的で不確定な形で提示してこないだろう。クリスティアーノの狙いはマリネスク、というよりもマリネスク閥との連携に既成事実を作ることにある。用意していた手札の中で厄介なものから順番に切ってきただけで断ったところで次の札が捲られるだけのこととハモンドは洞察する。さすがのマリネスクもその程度のことは心得ていた。
「いや、これでいい。試されているのはこちらの本気だ。それに、捜査関係者が巻き添えになることはこちらも本意ではない」
「確かに」
一理ある。もちろん本気でそう思っているのではなく、マリネスクはそういう理屈で自分を納得させたわけだ。
「さて、それではクリスティアーノが渡りをつけた時に備えておきましょうか」
「どれくらいかかるか」
「早いでしょう。彼女らは身軽ですし、縛られていない。それがマウラ閥の強みであると知らしめる意味もあります。なのでこちらも即応できるようにしておかねば失礼と言うもの。それに、この件は早ければ早いほど都合がいい」
「電撃戦だな」
「そうです。口を挟む余地を与えず、状況を一気に傾けてしまいたい」
元々他の人間を関わらせたくないためにマウラを頼ったのである。マリネスクらの動きが明るみ出れば諸勢力、特にマリネスクの元々属しているMPEが黙ってはいない。彼らは地球圏を自分たちの物と思って疑わない。彼らの月に対する認識も古い価値観で固まったままであり、共同体を倒して宇宙覇権を月が掌握することなど納得しないし、そのための協力を地球がしてやるなど何の筋合いがあるのかと考えるはずである。
つまりここでマリネスクと派閥に決定的な破断が訪れることになる。派閥はマリネスクを排除しようとするが当然それは阻止される。やがては敵と見做し、相争うことになるだろう。マリネスクにとって有利な点はこちらが当の昔に連中を敵と見做していることだ。
月との新同盟構築にこぎつけることができれば軍だけでなく、政治においても潮流は一気に変わることになる。奴らが気づいたとき、その時点で時代は奴らを置き去りに次のステージに進みはじめる。
「さて、今でも充分取り返しのつかない状況ではありますが、本番はここからです。覚悟はよろしいですか?」
ハモンドの言い草にマリネスクは珍しくカチンときた。覚悟、この点でだけは彼は誰にも負けないつもりである。それまでの経歴全てを下端なく乗り切ってきた男。それゆえに彼にとってこの賭けは軍人人生の全てと言い切って過言ではない。一世一代の大勝負の相手が地球人としての敵ではなく、彼個人にとっての敵であることに呵責こそあれど躊躇などない。
「古き良き地球は歴史の中にだけあればいい」
マリネスクの決別宣言だった。ハモンドは不敵に笑って頷く。
ハモンドにしてもMPEや4Cの懐古趣味は付き合い切れるものではない。彼らの時代は当の昔に過ぎ去っている。いつまでも失ったものを取り返そうとし、新しい芽を摘む。そんな世迷言で若い犠牲が出るなどハモンドには馬鹿々々しく映る。
そんなことよりも新しいものを作る方がよほど刺激的で面白い。その芽が他でもない奴ら自身の足元で芽吹くというのも皮肉が効いている。捨て駒と思っていた男に突如として自分たちの権威を奪い去られる時のほえ面はさぞ見応えがあるだろう。
当然、どれだけ上手いことやっても古い価値観に捉われた人間たちは激怒し、醜く足掻くだろう。古いものほど終わりは無様。多くの権威が見せてきた醜悪な習性だ。これを防ぐだけの勢力は今のマリネスクらにはない。それを貯えるだけの猶予もない。
「油断はしないことです。権威が失われるとき、人は恐怖し、理念をかなぐり捨てる」
マリネスクは知れたことと頷く。そのようにして周りを巻き込んで破滅していった人間を彼は何度も目にしてきた。これまではそれに巻き込まれないように距離を取ってきたが、今回はそれを真正面から処理しなければならない。場合によっては先手も撃たねばならないだろう。
「その点ではクリスティアーノは先達にあたる。場合によっては頼ることになると思うが、どうかね」
おやおやとハモンドは苦笑する。こういうことに関してはマリネスクにもノウハウがあるのだ。
「まぁ、そこはあなたの判断にお任せしますよ。では、こちらは残りの手筈を始めておきますか。忙しくなりますよ、まったく」
話に区切りをつけるとハモンドは善は急げとばかりに席を立った。問題はそれで終わるわけでもないが今考えてもしょうがない。
権力者の戦いとはそれを得ることよりも手に入れた後の方が凄惨で不毛であることが滅多だ。仮にマリネスクがこの戦いに勝利して権威を掌握したところで次にその喪失の恐怖と戦うのはマリネスク自身となる。賢者はそれを理解して世捨て人になる。
権力は人を変える。誰もが知るありきたりの真理。この男は果たしてその時、どのように変わるだろうか。この短期間でも極端に変化した男だ。どう変わったところで驚くようなことではないだろう。それもまたハモンドにとって楽しみの一つになっていた。
それにしても
「時代と戦うとは大きく出たものですよ」
退室際にハモンドは明らかにバカにしながら呟いた。マリネスクはそこで本音を覗かせてハモンドをある意味で安心させる。
「投げ出していいなら今すぐでも投げ出したいよ」
それは困る。つまらない。ハモンドは苦笑するだけで何も応えずに部屋を後にした。
一人部屋に残されたマリネスクは次々と更新されていく自身の目的と理念に本気でウンザリしていた。少し前までは自分のことだけを考えていたはずだったのにいつの間にやら軍全体のことを考え、そして今では時代そのもののことを考えていた。
いつからそんな大物になったのか。自嘲に口元が歪む。
時代と戦うだ?本気でそんなことを考えているのか。マリネスク自身も確信は持てない。しかしそういうふうに流れてしまっている。もはや後戻りはできない。つまるところ本気だということにしなければならないのだ。
投げ出したいというのは紛れもない本音だった。ただその選択肢が彼にはないというだけのことだった。
行動と心情が一致するわけではない。当たり前の話だ。歴史上の人物の人格は功績や結果によって色付けされるが考えてみれば何と根拠のない言いがかりだろうか。自分と同じように立場や環境に流されて行動をとって名を残したものは少なくないのだろう。
マリネスクはふと前大統領ルーサー・ゴールドバーグのことが頭を過った。彼にとっては理解のし難い能天気な和平行動で今のこの事態を引き起こした迷惑な男。今では聖人呼ばわりされている彼の心情も案外と全く別の方向を向いていたのかもしれない。
自分もあるいはそのように歴史に記されるのかもしれないと考えてマリネスクはさらに気持ちを萎えさせた。
もちろん、だからと言って投げ出すことはなかった。
後にスティーブン・ハモンドはゴードン・マリネスクという人物を語っている。
あのおっさんは職務に実直であること以外に取り柄のない面白くない男だった。それは確かだ。間違いない。総評としてはそうなるしかない。だが、例えばそれまで大したことのない成績だったスポーツ選手が一時期だけ覚醒することがあるのと同じように、ある事件、ある期間だけ神がかったように全てが上手く行く人間というものもいる。あのおっさんは時代にハマったんだろう。
繰り返すがあのおっさんは凡庸で面白くない人間だった。しかしそれと為せることが連動するわけじゃない。ようはつまらない人間の人生がつまらないとは限らないし、つまらない人間のやることがつまらないとも限らないってことさ。歴史上の英傑なんて案外とそういうものなのかもしれないとあのおっさんを見ていて思ったものさ。
ただ。あの人の、あの時期の、あの瞬間の、あの生き様は、ロックだったよ。




