第3話 母の帳面
王立薬草院の門は王宮より小さかったが、私には逃げ道ではなく入口に見えた。
辞退届を提出してから三日が過ぎた。
あの日、王宮文書局の使者は、私が本人の意思で推薦を辞退するのかを二度確認した。父も家令も同席し、未開封の推薦状と辞退届が揃っていることを確認すると、彼は余計な詮索をせず、受領印を押した控えを残して帰った。
厚手の紙の隅に押された受領印は、私の文書箱の中にある。見ればまだ胸はざわつく。けれど、白百合宮の部屋割りも、候補としての衣装合わせも、私の予定には載らなかった。
今日は、母が使っていた薬草帳を抱えて薬草院へ来ている。
「重うございますか、お嬢様」
馬車を降りる私の手元を見て、ミナが尋ねた。
「いいえ。思っていたより軽いの」
革表紙の帳面は、小さな頃の私には両手で抱えるほど大きく見えた。母が薬草園の机で書き物をしている横に座り、乾かした葉を並べた記憶がある。月白草を煎じる時は湯を沸かしすぎないこと。粉になった薬材は色だけで断じないこと。大切な注意は、母の細い字で何度も書き足されていた。
帳面の途中には、乾いた花弁が一枚挟まっていた。指で触れると崩れそうなので、私はその頁を閉じたまま持ってきた。
薬草院の受付は、薬と紙の匂いが混じっている。豪華な花瓶はないが、窓辺には小さな鉢が並び、葉の端が朝日に透けていた。受付係へ応募名を告げると、私の家名を聞いて少し姿勢を改めた。
「ラングフォード公爵令嬢でいらっしゃいますね。本日は院長と監督官が面会いたします」
「応募者として伺いました。どうぞ、ラングフォード嬢とお呼びください」
受付係は一瞬だけ目を丸くし、すぐに穏やかにうなずいた。
待合の長椅子には、薬包を受け取りに来たらしい年配の婦人が座っていた。膝には継ぎの当たった布袋があり、受付へ何度も頭を下げている。王宮の慈善奉仕という言葉の向こうには、このように薬が届くのを待つ人がいるのだ。私は候補の役目から逃げたのではなく、ここで薬に触れる以上、別の責任を引き受けるのだと初めて思った。
案内された部屋では、髪に白いものの混じった婦人が机の向こうで書類を読んでいた。薬草院院長、マルタ・セルヴァン子爵夫人だ。けれどこの場所では、夫人という身分より、袖を折り上げた実務者の姿が先に目に入る。
「セルヴァン院長。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。薬草院の助手募集へ公爵令嬢が正式応募なさるのは珍しいことです。奉仕枠をご希望ではなく、任用試験を受けたいと記載されていますね」
「はい。給与を受ける助手として、同じ試験を受けさせてください」
院長は私の服装や宝飾ではなく、抱えている帳面へ視線を移した。
「そちらは?」
「母が遺した薬草帳です。幼い頃、温浸検査や乾燥棚の管理を教わりました。ただ、私は院で働いた経験がありません」
「経験のないことを隠さないのは、薬を扱う者にとっては好ましいことです」
院長は母の名を聞いて、机の端に置かれた古い納品目録へ一瞬目を向けた。
「リリアーナ様とは、若い頃に薬草の交換記録を交わしたことがあります。慎重な方でした。けれど、母君をご存じだったことと、あなたを採用するかどうかは別です」
「はい。そのようにお願いいたします」
母がこの部屋と無縁ではなかったことは胸を温めたが、その縁で試験を省かれる方が怖かった。私が求めるのは、誰かの思い出の娘として守られる場所ではない。
その時、奥の扉が開いた。
「失礼いたします。実地試験の見本を整えました」
声を聞いた瞬間、帳面の背を握る指が動かなかった。
白塔の扉の向こうで、記録を残せと言っていた声。
あの夜は熱と寒さで意識が曖昧だった。低い声の主の顔など見ていない。それでも、耳の奥へ残っていた音の輪郭が、今聞いたものと重なった。
入ってきた男性は、濃い灰色の上着の袖をきちんと留め、いくつかの小瓶を載せた木箱を持っていた。目元は冷静で、突然立ち尽くした私を見ても、すぐに親しげな様子を見せることはない。
「アシュフォード監督官、応募者のラングフォード嬢です」
「ノエル・アシュフォードです。試験の薬材と安全管理を担当します」
彼は私を知らない。
当然なのに、胸のどこかが勝手に期待していたらしい。白塔へ届かなかった声が、今度は私の死を知っていてくれるのではないか、と。
その考えはひどく勝手だった。私は一度息を入れ、帳面を机の上へ置いた。
「オフィーリア・ラングフォードと申します。よろしくお願いいたします」
声の震えは、たぶん完全には隠せなかった。院長が視線を上げ、監督官も一度だけ私の手元を見たが、二人とも理由を尋ねなかった。
ノエルは木箱を開き、小瓶と乾燥葉の包みを机へ並べた。
「応募書には、温浸による薬材確認を学ばれたとありました。基礎分類の後、実地で確認します。薬材には刺激性のものもありますから、無理に触れず、分からない時はそう告げてください」
「分からないことを答えたふりはいたしません」
少し強く言いすぎたかもしれない。院長の口元がわずかにやわらぎ、ノエルは視線を逸らさずにうなずいた。
「それで十分です」
机に並ぶ包みの一つから、乾いた白い葉がのぞいていた。月白草に似ている。けれど薬材の香りに胸を締め付けられるのは、まだ早い。今は試験であり、白塔の薬杯ではない。
ノエルが手元の木箱を机へ置いた時、鍵を掛け、管理簿へ時刻を書き入れた。試験材料にさえ受け渡しの記録がある。その小さな動作を、私は見逃せなかった。私が望んだのは、きっとこういう場所だったのだ。善意を疑わなくても、記録が善意の代わりに危険を見張ってくれる場所。
院長が応募書を閉じた。
「本日午後に実地試験を行いましょう。採用を決めるのは私です。監督官には、安全判断と技術の評価を提出してもらいます」
権限の所在を、あえて明確にしてくださったのだと気づいた。公爵令嬢だから特別に席を用意されるわけでも、監督官一人の好意で決まるわけでもない。
「承知いたしました。受験いたします」
面談が終わり、待機用の小部屋へ案内される前、ノエルが帳面の端からのぞく花弁を見た。
「持ち込み資料は、試験中にご本人が参照しない限り、預かる必要はありません。お手元で保管してください」
私は返事をするまで、ほんのわずかに遅れた。
預けなくてよい。取られない。
そんな当たり前のことに、目の奥が熱くなる。
「ありがとうございます。私が持っております」
小部屋には、素朴な木の椅子と湯気の立つ茶が用意されていた。ミナが外套を畳み、私の顔をのぞき込む。
「お嬢様、先ほどの監督官をご存じなのですか」
「いいえ。知らない方よ」
嘘ではなかった。この春の私は、今日初めて彼に会ったのだから。
「では、なぜそのようなお顔を」
ミナは言い終えず、茶器の位置を直した。踏み込まずにいてくれることがありがたい反面、私はこのまま誰にも話さずに働けるのか不安にもなる。
「少し、昔の夢に似た声だっただけよ」
それ以上は言えなかった。ミナは納得してはいない顔で、それでも「茶が冷める前にどうぞ」とだけ言った。
それでも、茶へ手を伸ばす前に、指が母の帳面を確かめてしまう。失わずにここまで持ってこられたことが、ひどく大切だった。
午後の試験室へ入ると、窓際の卓に白い紙片が並べられていた。
その一枚を見て、母の指が、煎じた液を紙へ落として色を確かめていた午後を思い出す。
もし手が震えたら、震えたまま手順を尋ねればよい。知らないことを知らないと言い、できることを一つずつ示す。それは妃候補として教えられた優雅さよりも、ずっと私に必要な作法だった。
明礬紙だった。




