第3章:期待という見えない檻 3-1:母の言う“普通”
3-1:母の言う“普通”
夕食の時間は、たいてい静かに過ぎる。
父の帰りが遅い日は特にそうだった。食卓には母が作った味噌汁の湯気が立ち、テレビではニュース番組が流れている。画面の中ではアナウンサーが落ち着いた声で何かを読み上げているが、恒一はほとんど聞いていない。箸の当たる小さな音と、食器の触れ合う気配だけが、部屋の中に薄く残っている。
その日も、最初はいつも通りだった。
母は煮物を取り分けながら、「今日、学校どうだった」と何気なく聞き、恒一は「別に」と返す。母はそのそっけなさに慣れているのか、それ以上は深追いせず、少し間を置いてから別の話題を出した。
「そういえば、進路の紙、もう配られたんでしょ」
その言葉に、恒一の箸が一瞬だけ止まる。
「うん」
「やっぱりもうそういう時期なんだねえ。早いね」
母はしみじみした調子でそう言って、自分の茶碗に手を伸ばした。
責めるような響きはない。ただ、季節の話でもするみたいに穏やかな声だった。
「恒一は真面目なんだから、ちゃんとした大学に行けるでしょ」
その一言も、あまりにも自然だった。
褒めているつもりなのだと分かる。
心配してくれているのだとも分かる。
“あんたなら大丈夫”と言って、安心させようとしているのかもしれない。
だが、その“ちゃんとした”という言葉が、恒一の胸のどこかに鈍く引っかかった。
ちゃんとした大学。
それは、どこなのだろう。
偏差値の高い大学だろうか。家から通える大学だろうか。名前を聞けば誰もが納得するような大学だろうか。
あるいは、母が友人や親戚に話したとき、安心した顔でうなずいてもらえる場所のことだろうか。
「別に、普通でいいからね」
母は続けた。
味噌汁の椀を置きながら、ほんの少し笑って。
普通でいい。
その言葉もまた、責任の軽いものとして言われているわけではない。むしろ逆だった。母にとっては“普通”がいちばん安全で、いちばん安心できるものなのだろう。息子に無理をしてほしくない。変に遠回りして苦しんでほしくない。ただ、ちゃんと生きていってほしい。それだけなのだ。
分かっている。
分かっているから、なおさら苦しい。
普通って何だろう、と恒一は思う。
ちゃんとしているって、誰の基準なんだろう。
母はきっと、深く定義せずに言っている。だからこそ、その言葉は輪郭が曖昧なまま、広く重くのしかかってくる。
もし母が「絶対に医者になりなさい」とか「この大学に行きなさい」と言うのなら、まだ分かりやすい。反発する相手がはっきりしているからだ。
けれど、“普通でいい”“ちゃんとしてくれればいい”という言い方は、拒みにくい。優しさの形をしているぶん、余計に。
母はただ、息子に苦労してほしくないだけだ。
それなのに、その優しさが恒一には「外れないで」「失敗しないで」と言われているようにも聞こえてしまう。
「……うん」
結局、恒一はそう答えた。
本当はまだ何も決められていない。
進路希望調査票は白紙のままで、どこへ行きたいのかも、何をしたいのかも、はっきり言えない。
それなのに、曖昧にうなずいてしまう。
今ここで「分からない」と言って母を不安にさせるより、場を穏便に終わらせるほうを選んでしまう。
その瞬間、恒一は小さく自覚する。
また一つ、本音よりも空気を選んだ。
それは大きな嘘ではない。
ただの曖昧な返事だ。
けれど、こういう小さな曖昧さが積み重なって、自分の本当の輪郭を少しずつ見えなくしていく気がした。
食卓の上では、母がまた別の話題に移っていた。近所の人のこととか、スーパーの特売のこととか、そういう日常の小さな話。
恒一も適当に相槌を打つ。会話は続き、夕食は何事もなく終わっていく。
何も起きていない。
誰も怒っていない。
それなのに胸の奥だけが、静かに詰まっていく。
食後、自分の部屋へ戻るとき、恒一は廊下の電気の白さをやけにまぶしく感じた。
母はきっと何も悪くない。
そのことが分かっているからこそ、余計に息苦しかった。




