3-2:神谷先生の正しさ
3-2:神谷先生の正しさ
神谷は、進路について語るときに声を荒げない。
それは教師としての長所なのだろう、と恒一は思う。無理に脅すわけでも、感情的に煽るわけでもない。いつも落ち着いていて、話の筋道が通っている。数字や事例を出しながら、一人ひとりに合わせた言葉を選ぶ。生徒のことをちゃんと見ている人なのだと分かる。
だからこそ、その言葉には逃げ場がない。
ある日の放課後、恒一は神谷に呼ばれて進路の簡単な面談を受けた。
職員室の隣にある小さな相談スペース。パイプ椅子と机だけの簡素な場所だが、壁に貼られた大学案内や模試の日程表が、そこを学校の中でも特に“将来”に近い場所にしていた。
神谷はファイルを開き、恒一の模試の結果と成績表を前に置いていた。
「朝比奈は、成績的には十分選べる立場にいる」
神谷はまずそう言った。
責めるような口調ではない。事実を確認するような調子だ。
「だからこそ、もったいない形にはしてほしくないんだよな」
恒一は、膝の上で指を軽く組んだままうなずく。
「はい」
「希望、まだ絞れてないんだろ」
「……まだ決まっていません」
自分で言っていて、その言葉がやけに頼りなく聞こえた。
“決まっていない”のは事実だ。けれど、それを口にするたび、自分が何も持っていない人間みたいに感じる。
神谷は少しだけうなずいた。
「今すぐ最終決定しろって話じゃない。でも、早めに方向だけでも定めたほうが楽になるぞ」
その言葉は確かに親切だった。
早く決めろ、と乱暴に迫っているわけではない。
迷っている生徒を助けようとしているのだと分かる。
方向があるだけで勉強もしやすいし、情報も集めやすい。選択肢を整理するためにも、ある程度の軸は必要だ。
たぶん全部、その通りなのだろう。
だが恒一には、その言葉が別の響きも持って聞こえてしまう。
迷っている時間そのものが悪い。
そう言われたように感じてしまうのだ。
神谷は続ける。
「朝比奈の場合、成績を考えれば国公立を視野に入れてもいいし、私立でも選択肢は広い。家庭の事情が特別厳しいわけでもないだろうし、今のうちにある程度方向を固めておけば、後で焦らなくて済む」
成績。家庭状況。模試の判定。将来性。
神谷の言葉はいつも、具体的で、現実的で、間違いがない。
どの話もちゃんと筋が通っていて、反論しようとすると、こちらの曖昧さばかりが目立つ。
選択肢を示されているはずなのに、気づけば絞られていく。
国公立か私立か。
家から通えるかどうか。
成績に見合っているか。
将来性があるか。
安定しているか。
それらは全部、考えるべきことだ。
全部、無視してはいけないことだ。
だからこそ、その条件に当てはまらない“何となく惹かれるもの”や、“まだ言葉にならない何か”は、最初から候補として数えられなくなっていく。
神谷は最後に、少しだけ声をやわらげた。
「迷うのは分かるよ。でも、ずっと白紙のままだと余計しんどくなるからな。まずは仮でもいい。自分が比較しやすい形にしてみろ」
恒一は、「はい」とまた答えた。
嘘ではない。
その通りだと思う部分もある。
白紙のままで楽になれるわけじゃないことは、自分でも分かっている。
けれど、相談スペースを出て廊下を歩きながら、恒一の胸には妙な息苦しさが残った。
神谷の言葉は正しい。
正しいから、逃げられない。
もし理不尽に押しつけられているのなら、まだ反発もできる。
でも、優しさと現実の言葉で形作られた“選ぶべき道”には、逆らう理由を見つけにくい。
自分の中の曖昧さが、少しずつ否定されていく感じがした。
まだ形になっていないもの。
言葉にできないままの迷い。
そういうものを抱えている時間そのものが、社会に出る前に修正すべき弱さのように思えてしまう。
廊下の窓から差し込む午後の光が、白く床に落ちていた。
その明るさの中を歩きながら、恒一はひとつのことを考える。
正しいことに追われるのは、間違ったことに押されるより、ずっと苦しいのかもしれない。




