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『自由になるのが、怖かった』  作者: Yukiya


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3-3:瀬名綾人の沈黙

3-3:瀬名綾人の沈黙


 綾人のことを、教室の中で悪く言う者はいない。


 それは単に成績がいいからでも、教師受けがいいからでもなかった。

 綾人は誰かを見下すことも、必要以上に自分を誇示することもない。頼まれごとにはきちんと応じ、授業中の発言も簡潔で、常に落ち着いている。教室の中で“正しくあること”を、ごく自然にやっているように見える。


 だからこそ、周囲は彼を見て「すごいよな」と言う。


 あんなふうに迷いなく進める人間がいる。

 そう思いたいのかもしれない。


 ある日の夕方、恒一は図書室から借りた本を返しに行った帰り、校舎裏の渡り廊下を通っていた。

 授業はすでに終わっていて、廊下には人が少ない。部活の掛け声が遠くから響いてくる以外は、校内は妙に静かだった。


 階段の踊り場に差しかかったとき、不意に低い声が聞こえた。

 反射的に足を止める。


 壁際の窓の前に、綾人が立っていた。

 スマホを耳に当て、短く受け答えしている。


 「はい」


 少し間を置いて、


 「分かっています」


 また沈黙。


 「……はい」


 それだけだった。

 会話というより、確認の応答に近い。

 相手が何を言っているかは聞こえない。だが、綾人の声の落ち着き方が、かえって不自然だった。


 怒っているわけでもない。

 困っているふうでもない。

 ただ、感情を外へ出さないように、余計なものを全部削ぎ落としているみたいな話し方だった。


 恒一は気づかれないように少し離れた場所で立ち止まっていたが、そのとき綾人の背筋が妙に硬いことに気づいた。

 真っ直ぐ立っている。いつもと同じ姿勢のはずなのに、どこか肩に力が入っている。

 指先も動かない。窓の外へ視線を向けたまま、言葉だけを必要最小限に返している。


 数秒後、通話は終わったらしい。

 綾人はスマホを耳から離した。


 それでもすぐには動かなかった。


 画面を見下ろしたまま、しばらく立ち尽くしている。

 夕方の薄い光が横顔に落ちて、その輪郭だけが静かに浮いていた。

 その沈黙は、電話の内容そのものよりも、ずっと重く感じられた。


 何かを考えているというより、何かを押し込めているようだった。


 やがて綾人は小さく息を吐き、何事もなかったように歩き出した。

 そのとき初めて恒一の存在に気づいたらしく、ほんの一瞬だけ視線が合う。


 「……朝比奈」


 「ごめん。通るとこだった」


 「別に」


 それだけ言って、綾人はすぐにいつもの顔へ戻った。

 落ち着いた、整った表情。

 教室で見るのと何も変わらない、余計な隙のない綾人だった。


 翌日、教室では何事もなかったように時間が流れていた。

 綾人は朝から参考書を開き、神谷の質問にも的確に答え、休み時間には頼まれたプリントのことをクラスメイトに説明していた。昨日の夕方の沈黙なんて、最初から存在しなかったみたいに。


 その姿を見て、近くの男子が言う。


 「瀬名ってほんとすげえよな。迷いなさそうで」


 別の誰かもすぐに頷く。


 「分かる。ああいうの、もう将来決まってる人の顔してる」


 恒一は、その会話を聞きながら綾人を見た。


 机に向かう背中。

 参考書をめくる手。

 表情の少ない横顔。

 たしかにそこには、迷いのなさがあるように見える。

 でも今の恒一には、それが本人の強さだけではなく、“迷ってはいけない立場”のようにも思えた。


 期待に応え続けることは、周囲から見れば立派だ。

 親も教師も安心するし、同級生からも尊敬される。

 それ自体は悪いことじゃない。むしろ、正しい道のように見える。


 けれど、その“正しさ”から外れた瞬間に失うものが大きいほど、人は自分の本音を消してしまうのではないか。


 医学部志望。医者の父親。優等生。

 そういう言葉が綾人のまわりに積み重なれば積み重なるほど、別の選択肢は“考える余地のあるもの”ではなくなっていく。

 迷うこと自体が、期待を裏切る行為のように感じられてしまうのかもしれない。


 綾人は何も言わない。

 だから周囲は勝手に「迷いがない」と思う。

 でも、その沈黙こそが、実は何より多くを物語っているのではないか。


 恒一はそう思った。


 言わないこと。

 見せないこと。

 期待に合う形のままでいること。

 それは優秀さにも見えるし、成熟にも見える。

 けれど、本当はただ“壊せない”だけの沈黙なのかもしれない。


 綾人の姿を見ながら、恒一はふと、自分もまた別の形で同じことをしているのではないかと思った。

 何も言わず、はっきり決めず、曖昧なままでいることで、今ある関係を壊さないようにしているだけなのではないかと。


 窓の外では風が吹き、校庭の砂が少しだけ舞い上がった。

 教室の中はいつも通りだった。

 いつも通りのまま、誰かの沈黙だけが深くなっていく。


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