3-4:誰かが決めてくれたら
3-4:誰かが決めてくれたら
夜、自室の机に向かうと、恒一はしばらく何もできなかった。
教科書を開いても頭に入らない。
スマホに手を伸ばしても、すぐに意味がなくなる。
結局、視線はまた机の端に置いた進路希望調査票へ戻っていく。
白紙のままの欄。
第一志望、第二志望、将来の希望。
昼間に見たときよりも、夜の部屋で見るほうがその空白は目立った。
自由に選べる。
そう言われるたびに、自分の中の空白だけが強調される。
母は“普通でいい”と言った。
神谷は“方向だけでも定めた方が楽になる”と言った。
綾人は何も言わなかったけれど、その沈黙の中に、期待から外れられない重さがあった。
みんな違う形で、何かを選ばされている。
いや、選ぶことを求められている。
その中で自分だけが立ち止まっているような気がした。
選ばなければならない。
それは分かっている。
このまま白紙でいられないことも、先延ばしにしたところで急に答えが湧いてくるわけじゃないことも、ちゃんと分かっている。
それなのに、選びたくない。
恒一は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
自由になりたい、と思うことがある。
親の曖昧な期待とか、学校の正しさとか、周囲の空気とか、そういうものから少し離れたいと思う。
誰かに合わせて答えを探すんじゃなくて、自分で自分の人生を選べたらいいのに、と。
でもその一方で、本当は誰かが決めてくれたほうが安心する、とも思っている。
この大学なら大丈夫だ。
この道なら間違っていない。
ここに進めば失敗しにくい。
そう誰かが言ってくれたら、自分はたぶんそこにすがってしまう。
その矛盾に気づくほど、恒一は自分が嫌になった。
自由を望んでいるふりをしながら、実際には自由の先にある責任を引き受ける覚悟がない。
誰かに縛られるのは嫌なのに、誰かに決めてもらえる安心は手放したくない。
親のせいでも、学校のせいでもなく、最終的には自分が怖がっているだけではないのか。
その考えは、逃げ場のないところまで恒一を追いつめた。
けれど、その事実をはっきり認めてしまえば、もう言い訳ができなくなる。
“まだ決まっていない”ではなく、“自分で決めるのが怖い”ということになってしまう。
そうなった瞬間、白紙の理由は外側ではなく、自分の中にあるのだと認めるしかなくなる。
恒一はペンを手に取った。
紙の上で先が揺れる。
何か一つでも書けば、少しは進めるのかもしれない。
でも、その一文字目がどうしても出てこない。
第一志望。
何を書けばいい。
どこが自分の希望なんだ。
自分の希望って、そもそも何だ。
沈黙が部屋に満ちる。
机の上の小さな時計が秒針を進めている。
窓の外では、遠くの道路を車が通り過ぎる音が一度だけした。
それ以外には何も聞こえない。
恒一はゆっくりとペンを置いた。
「自由になりたい」と「決めたくない」は、彼の中でまだ解けないまま絡まり続けている。
片方を引けば、もう片方が締まる。
どちらも自分の本音なのに、同時にはうまく持てない。
そしてその結び目は、日が経つごとに少しずつきつくなっていく気がした。
白紙の紙は、ただの空欄ではない。
そこには、書けない理由がそのまま沈んでいる。
未来が見えないからではなく、自分で選んだ未来を自分のものとして引き受けるのが怖いから——そんな言葉が、まだはっきりと形にならないまま、紙の向こうに横たわっていた。
恒一は机の上の調査票をそっと裏返した。
見えなくしたところで何かが変わるわけではない。
それでも今は、目の前から一度消したかった。
灯りの下で、自分の影が机に落ちている。
その影がやけに頼りなく見えて、恒一は小さく息を吐いた。
誰かが決めてくれたら。
その考えは甘えだと分かっている。
分かっているのに、消えない。
部屋の静けさの中で、彼の中の結び目だけが、見えないまま少しずつ固くなっていった。




