第4章:言えなかった本音 4-1:夏前の面談週間
4-1:夏前の面談週間
六月に入ると、教室の空気は目に見えないかたちで少しずつ変わり始めた。
大きな事件が起きたわけではない。
誰かが泣いたわけでも、派手に衝突したわけでもない。
ただ、三者面談の予定表が教室の後ろに貼り出された、その日から、空気の質だけが少し変わった。
白い紙に、出席番号順の名前と日時が並んでいる。
それだけのものだ。
けれど、休み時間にその前を通る生徒たちは、以前よりほんの少し足を止めるようになった。自分の名前を確認し、近くの友達の時間を見て、何でもない顔で席へ戻っていく。
その動作のどこにも大げさな緊張はない。
ないはずなのに、教室全体に漂うものは確かに変わっていた。
これまで冗談で済ませていた進路の話が、急に現実味を帯び始めたのだ。
「推薦って、やっぱ夏前には動かなきゃまずいかな」
「模試の判定、今回ほんとやばかった」
「親にまだ言ってないんだけど、どうしよう」
「とりあえず国公立って書いとけって言われた」
そんな会話が、教室のあちこちで途切れ途切れに聞こえる。
以前なら、笑って流せた話題だった。まだ先のこととして、曖昧なまま置いておけた。
でも今は違う。
面談という具体的な日付が目の前に現れたことで、“そのうち”は急に“もうすぐ”へ変わってしまった。
推薦を狙う生徒は、提出物や小テストの点を前より気にするようになった。
模試の結果が思わしくなかった生徒は、机に向かう時間が増えたぶん、逆に笑顔が減っていく。
家で進路の話をするのを避けている生徒は、親の話題になるとわずかに視線を逸らす。
誰も口にしないだけで、それぞれの不安が教室の静かな部分からにじみ始めていた。
表立って騒ぎはしない。
休み時間には相変わらず笑い声があり、スマホを見せ合って盛り上がる輪もある。体育のあとには誰かが文句を言い、昼休みには購買のパンを奪い合うみたいなやりとりもある。
見た目だけなら、いつもの教室と大きくは変わらない。
けれど、みんな少しずつ余裕がなくなっている。
いつも通りの会話の中に、試すような視線が混じる。
「もう進路決めた?」という問いが、単なる雑談ではなくなる。
「へえ、そこ受けるんだ」という言葉の奥に、比較の気配が潜む。
誰かの模試の判定や志望校の話が、そのまま自分の立ち位置を確かめる材料になっていく。
ある昼休み、前方の席で女子数人が推薦の話をしていた。
「うちの親、一般より推薦のほうが安心って言うんだけど」
「でも評定足りる?」
「ギリかも」
「それ、先生に相談した?」
話し方は軽い。
けれど、そのやりとりの間にある沈黙の短さや、相手の反応を待つ目つきは、以前より少し鋭かった。
恒一はその空気の変化を肌で感じていた。
感じてはいるが、うまく距離を取ることはできない。
進路の話題が耳に入るたび、自分の白紙の調査票が頭の中に浮かぶ。周囲の焦りに共鳴するように、自分の内側の焦りも膨らんでいく。
旬はいつものように場を明るくしていた。
凛も表面上は変わらない。
綾人は相変わらず整っていて、透は相変わらず刺々しい。
紬は静かに、けれど前より少し考え込む時間が増えているように見えた。
みんなが、それぞれの形で揺れている。
恒一はそれを見ていた。
見ながらも、自分のことだけで精一杯だった。
予定表の白い紙は、教室の後ろで静かに揺れている。
そこに並んだ名前は、ただの順番ではない。
親と教師と自分の三人が、同じ机を挟んで“これから”を話す日付だ。
それを思うたび、恒一の胸の奥では、まだほどけないままの結び目が少しずつ固くなっていくのを感じた。




