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『自由になるのが、怖かった』  作者: Yukiya


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4-2:旬の笑顔のほころび

4-2:旬の笑顔のほころび


 真鍋旬が苛立ちを見せたのは、ほんの一瞬だった。


 それだけに、恒一の中には余計にはっきり残った。


 放課後、教室にはまだ何人か生徒が残っていた。部活に行く前の時間を潰しているやつ、帰り支度をしながら雑談しているやつ、面談のことで神谷に質問しに行ったやつ。窓の外は少し曇っていて、夏前特有の重たい湿気が教室の中にも薄く入り込んでいる。


 旬は教室の後ろで、友人グループの男子たちと話していた。

 内容はたぶん、面談のことや模試のことだろう。話し声は笑っているし、いつもと同じように軽い冗談も混ざっている。


 「真鍋はどうせどこでもうまくやるだろ」

 「いやいや、俺こう見えて中身スカスカだから」

 「またまた」

 「むしろお前が一番推薦とか似合うんじゃね?」


 そんな調子で笑いが起こる。

 旬もちゃんと笑って返していた。相手が気まずくならないように、場が重くならないように、ちょうどいい角度で。


 けれど、その輪が解けて、皆が先に教室を出ていったあとだった。


 旬はひとりになった瞬間、表情を消した。


 そして、自分の机の脚を軽く蹴った。


 強くではない。

 音も小さい。

 でも、それは明らかに苛立ちの動きだった。


 恒一は少し離れた場所でその様子を見ていた。

 旬がそういう感情を、誰もいないところでしか出さないことも知っている。だから声をかけるか迷ったが、そのまま見なかったふりをするのも違う気がした。


 「……どうした」


 恒一がそう言うと、旬は肩を揺らして振り返った。

 一瞬だけ、しまったという顔をする。

 だが次の瞬間にはもう、いつものように口元を上げていた。


 「いや、別に。なんでもない」


 その笑顔は、いつもより薄かった。

 明るくはある。けれど、表情の表面だけを急いで整えたような、不自然な軽さがある。


 恒一は近くの机に鞄を置いた。


 「なんでもない顔じゃないだろ」


 旬は少しだけ視線を逸らした。

 すぐにまた笑ってみせる。


 「お前、そういうとこめんどくさいよな」


 「よく言われる」


 「俺が言うんだから本当だろ」


 そう言って冗談っぽく返したものの、旬はそれ以上すぐに会話を広げなかった。

 教室の窓際へ目を向けたまま、しばらく黙っている。

 その沈黙が、いつもより長い。


 やがて旬は、椅子を引いて自分の席に腰を下ろした。

 机に肘をつき、片手で前髪をかき上げる。


 「……最近さ」


 ぽつりと出た声は、思っていたより低かった。


 「ちょっと疲れる」


 恒一は何も言わずに待った。


 旬は苦笑いのようなものを浮かべる。


 「いや、別に大したことじゃないんだけど。なんか、どこ行っても同じ顔してるの疲れるなって」


 恒一はその言葉を頭の中でゆっくり受け止めた。

 同じ顔。

 それは、前に自分がうっすら感じていたことを、旬自身の口から聞かされた気がした。


 旬は視線を机に落としたまま続ける。


 「家でもさ、変に空気悪くならないようにしてるし。親、最近ちょっとピリピリしてるから、余計なこと言わないほうがいいかなとか思うし。学校来たら来たで、なんか……まあ、ああいう話になるだろ」


 進路のことだ、と恒一はすぐに分かった。


 「誰がどうとかじゃないんだけどさ。みんなちょっと余裕なくなってきてるの分かるし、変に空気悪くしたくないっていうか。場に合わせて適当に返して、笑って、別に俺は大丈夫っすよって顔して」


 旬はそこで言葉を切った。

 それから、少しだけ乾いた笑いをこぼす。


 「それをずっとやってると、なんか、自分がどこにもいない感じになるんだよな」


 その言い方は大げさではなかった。

 むしろ大げさにしたくないから、あえて軽く言っているようだった。

 けれど、だからこそ本音に近かった。


 家庭でも、学校でも、友人の前でも、誰かの機嫌を損ねないようにする。

 その器用さは長所として見られる。実際、旬はそのおかげで多くの人と波風なく関われている。

 でも本人にとっては、それが“どこにも自分がいない”感覚につながっているのだ。


 恒一はその言葉に、思っていた以上に強く共感した。

 空気を選ぶこと。場に合わせること。今ある関係を壊さないようにすること。

 自分もずっと、それをやってきた気がする。


 けれど同時に、少し驚いてもいた。

 自由そうに見えていた親友もまた、自分のためではなく、誰かとの関係を壊さないために振る舞っていたのだと知ったからだ。


 「……お前でもそうなるんだな」


 恒一がそう言うと、旬は小さく笑った。


 「“お前でも”って何だよ」


 「いや、もっと適当に生きてるのかと思ってた」


 「ひでえな」


 そう返しながらも、旬は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。

 誰かに否定されずに受け取られたことで、ほんのわずかに息がしやすくなったのかもしれない。


 教室の中には、もう二人のほかに誰もいなかった。

 日が少し傾いて、黒板の端が橙色に染まり始めている。


 恒一はふと思う。

 みんな、それぞれ違う形で無理をしているのかもしれない。

 旬の明るさも、その一つだった。


 軽やかに見える振る舞いの裏に、こんなふうに疲れが溜まっていくこともあるのだと、そのとき初めてはっきり分かった。


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