4-3:紬の小さな嘘
4-3:紬の小さな嘘
進路の話になると、白石紬はいつも同じような言い方をする。
「私は地元の大学で十分だから」
その言葉は穏やかで、よく考えられたもののように聞こえる。
諦めや不満を含んでいるようには見えない。むしろ、自分の事情も現実もきちんと分かったうえで、無理のない答えを選んでいる人の声に近かった。
だから最初のうちは、恒一もそのまま受け取っていた。
けれど、紬と話す回数が少しずつ増えるにつれて、その言葉のなめらかさがかえって気になるようになった。あまりにも整いすぎている気がするのだ。誰かに説明するために何度も口の中で形を整えた言葉みたいに。
その日も、放課後の教室でそんな場面があった。
掃除が終わったあと、何人かが残って雑談していた。面談の話から自然に進路の話題になり、誰がどのあたりを考えているのかという流れになる。
凛が「もう推薦か一般かで悩むのだるい」と大げさに言い、旬が「俺なんて悩む前に勉強しろって話」と笑って、その場が少し和んだ。
そのとき誰かが紬に向かって聞いた。
「白石さんは? やっぱ地元?」
紬は少しだけ考えるように目を伏せてから、いつもの調子で言った。
「うん、たぶん。地元の大学で十分かなって」
声は穏やかで、無理に明るくしている感じもない。
だから、その場にいた誰も深く踏み込まなかった。
「ああ、そっか」と自然に話題は流れ、また別の会話へ移っていく。
けれど、そのあとだった。
皆が少しずつ帰り支度を始める中、恒一はたまたま紬の机のそばを通りかかった。
紬は鞄にノートや筆箱をしまっていて、その動きの合間に、一冊の薄いパンフレットを机の中へ戻そうとしていた。
その端が、ほんの少しだけ見えた。
地元ではない大学名。
県外とまではいかなくても、今の生活圏からは少し離れた場所にある学校だった。
駅前の本屋で紬が視線を止めていたのと同じ、あの種類のパンフレットだとすぐに分かった。
恒一の目がそこに止まったのに、紬も気づいたらしい。
一瞬、手が止まる。
このまま何も言わずに通り過ぎることもできた。
でも、目が合ってしまった以上、それも不自然だった。
恒一が何か言う前に、紬のほうが先に小さく笑った。
「……見なかったことにして」
冗談めいた言い方だった。
けれど、その軽さが逆に本音に近いことを示していた。
恒一は机の横に立ったまま、少しだけ言葉を探した。
「本当は、そっち行きたいの」
紬はすぐには答えなかった。
パンフレットを鞄の中へ入れて、ファスナーを閉じる。その動作を終えてから、ようやく肩を小さくすくめた。
「……どうだろうね」
否定しない。
でも肯定もしない。
その曖昧さが、かえって答えのように思えた。
紬は机の上に残った消しゴムを指先で整えながら言う。
「行きたいって思っちゃうと、ちょっと面倒だから」
その言葉に、恒一は何も返せなかった。
面倒。
たぶん、それは本当の意味ではない。
もっと別の、重たいものを、あえて軽い言葉に置き換えているのだろう。
もし本当に行きたいと認めてしまったら。
もしそれを自分の希望としてはっきり言葉にしてしまったら。
その瞬間、今の生活との距離や、家族との関係や、自分が家で担っている役割まで、全部が変わってしまうかもしれない。
母のこと。
弟のこと。
家で待っている役割。
そういうものを全部知っているからこそ、紬は先に「地元で十分」と言ってしまうのだ。
自分の夢を大きくする前に、小さく畳んでしまう。
「十分」という言葉は便利だった。
それ以上を望んでいないように見えるし、自分でもそう思い込める。
でも本当は、“十分”ではなく“それしか選ばないようにしている”だけなのかもしれない。
紬は鞄を持ち上げ、いつもの落ち着いた表情に戻ろうとする。
だが、その目には一瞬だけ、ほんの小さな揺れがあった。
「別に、今すぐどうこうじゃないし」
「うん」
「だから、ほんとに気にしないで」
「……分かった」
そう返したものの、恒一の中には、その短いやりとりが静かに残り続けた。
本当は行きたい場所がある。
けれど、それを認めた瞬間、自分の生活や家族との距離や責任まで全部変わってしまう。
だから先に「十分」と言って、自分の夢を縮めておく。
その小さな嘘は、誰かを騙すためのものではなかった。
むしろ、自分を守るための言葉だった。
同時に、自分を縛るための言葉でもある。
紬の優しさと苦しさが、その短い一言に両方入っていた。




