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『自由になるのが、怖かった』  作者: Yukiya


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2-3:白石紬の帰り道

2-3:白石紬の帰り道


 その日の放課後は、雨が上がったばかりだった。


 六時間目が終わるころには、窓の外の灰色が少しずつ薄くなっていた。チャイムが鳴るころには細かな雨音も止み、帰るころには雲の切れ間から弱い光が差している。濡れたアスファルトの匂いが、昇降口まで流れ込んできていた。


 恒一が傘をたたみながら靴を履き替えていると、少し離れたところで白石紬が同じように帰る支度をしているのが見えた。


 紬はいつも静かだった。

 教室では目立つ方ではないが、話すと言葉が丁寧で、返事の一つひとつが落ち着いている。

 その静けさには、人を遠ざける冷たさではなく、むしろ不用意に踏み込ませないやわらかさがあった。


 恒一が昇降口を出ると、そのすぐ先で紬が空を見上げて立ち止まっていた。

 雲の切れ間を確かめているらしい。


 「あ、朝比奈くん」


 先に気づいたのは紬のほうだった。


 「帰るの?」


 「うん」


 「もう降らなさそうでよかったね」


 そう言って、小さく笑う。

 その言い方が自然だったので、恒一も「そうだな」と返した。

 それで会話が終わるかと思ったが、気まずさのない沈黙が少しだけ続き、なんとなく二人で同じ方向へ歩き出すことになった。


 並んで歩いてみると、紬は思っていたより話しやすかった。

 声は大きくないが、返ってくる言葉がやわらかく、急がせる感じがない。無理に話題を作ろうとしないのに、会話が途切れても不思議と気まずくならなかった。


 通学路の途中、商店街の入り口に差しかかったところで、紬が言った。


 「ごめん、ちょっとスーパー寄ってもいい?」


 「いいけど」


 「夕飯の材料、買って帰らないといけなくて」


 その言い方があまりにも自然だったので、恒一は最初、深く考えなかった。

 ただ一緒に店へ入り、紬が野菜や卵や豆腐を迷いなくかごへ入れていくのを見ているうちに、その手つきの慣れ方が少し気になった。


 売り場の位置を覚えていて、値段も見ながら必要なものだけを選んでいく。

 高校生というより、もっと前からそういう役割を日常としてやってきた人の動きだった。


 レジを待つ間、恒一が何気なく「よく買い物するの」と聞くと、紬は小さくうなずいた。


 「うん。母があんまり体調よくない日があるから。そういう日は私がやること多いかな」


 言葉に湿っぽさはなかった。

 “仕方なくやっている”というより、“そういうものとしてやっている”口ぶりだった。


 「弟もいるし。まだ小さいから、帰るとすぐお腹すいたって言うし」


 「大変じゃない?」


 そう聞くと、紬は少しだけ笑った。


 「大変は大変。でも慣れたよ」


 その“慣れた”という言葉が、恒一には妙に残った。

 本当は慣れるようなことじゃないはずなのに、そう言ってしまえるくらい、それはもう日常になっているのだろう。


 スーパーを出てから、二人はまた並んで歩いた。

 商店街を抜け、駅前の本屋の前へ差しかかったとき、紬の足が少しだけ緩んだ。


 店頭には、新刊と一緒に大学案内や進学情報誌が並んでいた。

 奥の棚には、地方大学のパンフレットがいくつも立てられている。


 紬の視線が、そこへ吸い寄せられる。


 「進路、白石さんはもう決めてるの?」


 恒一が聞くと、紬は少しだけ間を置いてから言った。


 「私は……たぶん地元の大学で十分かなって」


 声は穏やかだった。

 無理に明るくしている感じもない。

 それだけに、その言葉は一見、本心のようにも聞こえる。


 けれど、その直後だった。


 紬の目が、棚の上のパンフレットへ向いた。

 県外とまではいかないが、ここから少し離れた土地にある大学のものだった。

 彼女はそこをじっと見た。ほんの数秒。けれど、その視線だけがその場に置き去りになったみたいに、はっきりと止まっていた。


 手を伸ばせば届く距離なのに、伸ばさない。

 触れた瞬間、自分の本音が形になってしまうことを、自分でも怖がっているように見えた。


 「……行きたいとこ、あるの?」


 気づけば、恒一はそう聞いていた。


 紬は驚いたようにこちらを見て、それから小さく首を振った。


 「そういうんじゃないよ」


 そう言ったあと、少しだけ困ったように笑う。


 「ただ、見てただけ」


 見ていただけ。

 嘘ではないのだろう。

 でも、それだけでもなかったはずだ。


 そのとき恒一は初めて、行きたい場所があっても行けない人がいるのだと、ほんとうの意味で実感した。


 自分は“決められない”ことで立ち止まっている。

 けれど紬は、もしかしたら“決めたくても決められない”場所に立っているのかもしれない。

 母の体調。弟のこと。家で待っている役割。

 そういうものが、進路希望調査票の欄には書かれないまま、人の未来を静かに狭めていく。


 自由に選べないのは、自分だけではない。


 その事実は、恒一を少しだけ楽にした。

 けれど、だからといって胸の重さが軽くなるわけではなかった。


 他にも苦しい人がいるから、自分の苦しさが薄まるわけじゃない。

 ただ、教室で見えていた世界が少し変わっただけだ。


 進路希望調査票の向こうには、それぞれの事情や沈黙や、言わないままの諦めがある。

 そのことだけが、雨上がりの匂いと一緒に静かに残った。


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