1-4:書けない名前
1-4:書けない名前
その日、気づけば教室には恒一ひとりだけが残っていた。
掃除当番が帰り、部活へ向かう足音も遠ざかり、廊下のざわめきはもうほとんど聞こえない。窓の外では、グラウンドから断続的に掛け声が響いているが、それもこの教室まで届くころには薄くのびて、別の世界の音みたいになっていた。
西日が斜めに差し込み、机の上に長い影をつくっている。
黒板の隅には、日直が書いたままの連絡事項が白く残っていた。
進路希望調査票提出、来週月曜まで。
その文字だけが、やけに目につく。
恒一は自分の席に座ったまま、机の上の紙を見下ろしていた。
朝からほとんど変わっていない。
名前とクラスだけは書いてある。だが、その下はまだほとんど空白だった。
第一志望。
第二志望。
第三志望。
希望学部・学科。
将来の希望。
どの欄も、恒一に何かを書かせようとしている。
ただの紙のはずなのに、静かに問い詰めてくるみたいだった。
ペンを持ち直し、大学名を書いてみようとする。
頭に浮かぶ名前はいくつかある。模試の判定表でよく見かける学校。家から通える範囲の大学。教師が勧めそうなところ。母が聞けば安心しそうなところ。
けれど、最初の一文字を書こうとしたところで手が止まる。
その大学に行きたいのか、と自分に問うと、答えが出ない。
行きたくないわけではない。
でも、行きたいとも言い切れない。
じゃあ学部はどうだろう、と考える。
文学部。経済学部。社会学部。教育学部。
言葉だけならどれも立派に見える。
けれど、どれも自分の内側に届かない。借りてきた名前みたいに、薄っぺらく感じる。
最後に「将来の希望」の欄へ視線を落とした瞬間、恒一は小さく息を吐いた。
何を書いても嘘になる気がした。
教師。会社員。公務員。研究職。
いや、そういう職業名を並べること自体が、もう違う気がする。
自分はそのどれかになりたいのか。
なりたい、というより、なってもおかしくなさそうなものを選ぼうとしているだけじゃないのか。
結局それは、自分の希望ではなく、“自分でもできそうで、周りも納得しそうな答え”を探しているだけだ。
教室は静かだった。
静かすぎて、自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえる。
ペン先が紙に触れるか触れないかのところで揺れている。
窓の外で吹いた風が、カーテンを少しだけふくらませ、またしぼませた。
自由に選べるはずなのに、何も選べない。
その事実が、夕方の教室の静けさの中で、昼間よりずっと重く感じられた。
もし親に「好きにしなさい」と言われても、もし先生に「自分で考えろ」と言われても、今の自分にはその自由を使いこなせる気がしない。
むしろ、誰かが「これでいい」と決めてくれたほうが楽なのではないか。
安全で、失敗しにくくて、それなりに納得できる道を誰かが示してくれたなら、自分はそこに乗ってしまうのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間、恒一は心の奥を掴まれたような気がした。
何も決まっていないのではない。
自分で決めることそのものを、怖がっているだけなのではないか。
もし自分で選んで失敗したら。
もし間違えたら。
もし選んだ先に「やっぱり違った」が待っていたら。
その責任を、自分ひとりで引き受けることになる。
そこまで考えたところで、恒一はペンを置いた。
自分の中に、まだ触れてはいけないものがあるみたいに、その先へ進めなかった。
怖い、という言葉をはっきり認めてしまえば、もう「まだ考え中だから」とは言えなくなる気がした。
机の上の紙は白い。
白紙というほど真っ白ではない。名前だけは書いてある。けれど、それ以外の空欄がかえって目立って、自分の内側の空白をそのまま映しているように見えた。
今の自分そのものだ、と恒一は思った。
何もないわけじゃない。
でも、何かがあると胸を張って言えるほどの形にもなっていない。
ただ曖昧で、途中で、決めきれないままここにいる。
教室の後ろのドアが、風でわずかに鳴った。
恒一は顔を上げ、誰もいない教室を見渡した。
整然と並んだ机。黒板。窓際のカーテン。使い終えたロッカー。
いつもと同じ場所なのに、今だけ少し広く見える。
自分だけが取り残されたみたいに。
夕陽が机の端まで届いて、進路希望調査票の白さをやわらかく照らしていた。
恒一はその紙を二つ折りにして、そっと鞄の中にしまった。
提出期限までは、まだ少しある。
そう自分に言い聞かせながら。
けれど、猶予があることと、答えが見つかることは、きっと別の話だった。




