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『自由になるのが、怖かった』  作者: Yukiya


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1-3:優等生の正しさ

1-3:優等生の正しさ


 五時間目の現代文が終わったあと、神谷は教科書を閉じてから、ふと思い出したように言った。


 「そういえば、今年は早めに動き始めてるやつも多いからな。特に受験組は、連休前から生活リズム整えとけよ。瀬名みたいにコツコツやってるやつは強いから」


 その名が出た瞬間、教室の空気がわずかに動いた。


 前方の席に座る瀬名綾人は、名前を出されてもほとんど表情を変えなかった。軽く視線を上げたあと、すぐにノートへ戻る。その動きに無駄がない。目立って喜ぶことも照れることもなく、自然に受け流してしまうところまで含めて、いかにも綾人らしかった。


 何人かが小声で反応する。


 「まあ、瀬名だしな」


 「もう医学部で決まってるようなもんだろ」


 「頭いいし、親父さん医者なんだっけ」


 「最強じゃん」


 どの声にも悪意はなかった。むしろ感心に近い。


 綾人は成績優秀で、礼儀正しく、授業態度も真面目だ。提出物を忘れず、教師への受け答えも丁寧で、クラスの誰かを見下すようなところもない。誰が見ても“ちゃんとしている”。医学部志望という話も、本人が大きく語ったわけではないのに、いつの間にか教室の共通認識になっていた。


 それは本人の意思というより、綾人という人間の輪郭そのものみたいに扱われている。


 瀬名綾人なら、そういう道を選ぶだろう。

 瀬名綾人なら、迷わないだろう。

 瀬名綾人なら、きっと正しい。


 そんなふうに。


 恒一も、これまで何となくそう思っていた。

 少なくとも、自分みたいに進路希望調査票の前で手を止めてしまう人間とは違う、最初から軸を持っている人間なのだと。


 その日の放課後までは。


 日直の仕事で職員室にプリントを届けた帰り、恒一は特別棟へ続く渡り廊下をひとりで歩いていた。夕方が近づき、校舎の中は少しずつ静かになっている。運動部の掛け声が窓の外から遠く聞こえ、廊下には西日が細長く落ちていた。


 特別棟の二階に差しかかったとき、恒一は人影を見つけて足を止めた。


 音楽室の前に、綾人が立っていた。


 誰もいないはずの廊下で、綾人は閉じた扉の前に静かに立ち尽くしている。手には参考書もノートも持っていない。ただ少し顔を傾けて、扉の向こうに耳を澄ませているようだった。


 中から、ピアノの音がかすかに漏れている。


 誰かが練習しているらしい。上手いとか下手だとかいう以前に、ゆっくり一音ずつ確かめるような音だった。途切れがちで、それでも丁寧に鳴らされる旋律。


 綾人は、その音に聞き入っていた。


 教室で見る綾人とは少し違う顔だった。


 無表情ではない。けれど、感情がはっきり出ているわけでもない。ただ、普段の“整った顔”から、ほんのわずかに力が抜けている。何かを見ているというより、何かに引かれて、その場に立ち止まってしまった人間の横顔だった。


 恒一は声をかけられず、そのまま少し離れた場所で立ち尽くした。


 数秒か、あるいはもっと短い時間だったのかもしれない。

 けれどその沈黙は、妙にはっきりと目に焼きついた。


 そのとき、階段の下のほうから声がした。


 「あれ、瀬名? まだいたのか」


 別のクラスの男子が、部活帰りらしい格好で上がってくる。

 綾人は一瞬だけ肩をわずかに揺らし、それから振り返った。


 「うん。ちょっと通っただけ」


 そう答えたときには、もう教室で見慣れた綾人の顔に戻っていた。

 落ち着いていて、余計なものを見せない、いつもの表情。


 「受験勉強?」


 「まあ、そんな感じ」


 「すげえなあ。俺もう全然やる気出ねえ」


 「今からでもやっとけば違うだろ」


 綾人は軽く笑ってそう返す。


 それは、ごく普通のやり取りだった。何の違和感もない。だからこそ恒一は、さっきの横顔との落差に息を止めたくなった。


 変化が、あまりにも自然だったのだ。


 無理に取り繕ったようには見えない。

 むしろ滑らかに、何事もなかったように、もとの“瀬名綾人”へ戻っていく。

 その自然さが、逆に恒一にははっきり分かった。

 さっき見たものは、たしかに別の何かだったのだと。


 綾人はそのまま男子生徒と二、三言葉を交わし、廊下を歩いていく。

 恒一は、その背中を見送りながら、その場に取り残された。


 綾人もまた、迷いのないふりをしているだけなのかもしれない。


 そう思った瞬間、胸の奥で小さく何かが軋んだ。


 教室の中で“正しい”とされている人間。

 誰もが羨むような進路を当然のように背負っている人間。

 その綺麗に整った輪郭の内側にも、立ち止まってしまう場所があるのだとしたら——。


 それは恒一にとって、少しだけ救いで、同時に少しだけ苦しかった。


 自分だけが迷っているわけではない。

 そう思えたぶん、救われる。

 けれど、誰かの“正しさ”の中にも迷いが隠れているのなら、この教室には本当に自由な人間なんていないのかもしれない。


 西日が伸びた廊下で、音楽室の中のピアノはまだ続いていた。

 恒一はしばらくその場に立ったまま、閉じた扉の向こうの音を聞いていた。


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