1-2:真鍋旬の軽さ
1-2:真鍋旬の軽さ
休み時間になると、教室は一気に緩んだ。
椅子を引く音、立ち歩く足音、購買へ向かうやつの声、次の授業への文句。さっきまで紙の上に並んでいた“将来”なんて言葉は、いったん教室のどこかへ追いやられて、いつもの高校生らしい雑多な空気が戻ってくる。
その中を、真鍋旬は迷いなく歩いてきた。
「おい」
恒一の机の横に立つなり、旬は進路希望調査票をひょいとのぞき込む。
「まだ白紙かよ」
笑いを含んだ声だった。責める感じはない。ただ、からかうくらいの軽さで言っている。
恒一は紙を少し引き寄せた。
「うるさい」
「いや、だって朝比奈さん、真面目そうな顔してこういうの一番悩むタイプじゃん」
「真面目そうな顔って何だよ」
「なんか、ちゃんと考えようとして逆に書けなくなる顔」
旬はそう言って、勝手に納得したようにうなずいた。
その言い方が妙に的を射ていて、恒一は少しだけ顔をしかめる。
「旬は?」
「俺? 俺はまあ、適当に私大かなあって。家から通えるとこのほうが楽だし」
「適当だな」
「いいんだよ。こういうのは最初それっぽく埋めとけば」
旬は肩をすくめて笑った。
その顔はいつも通り明るく、何かを深刻にしない強さがある。進路の話でさえ、彼にかかると空気が重くならない。誰かを焦らせるでもなく、自分を大きく見せるでもなく、ちょうどいい軽さで受け流してしまう。
恒一には、それが少しだけうらやましかった。
そうやって笑えたらいいのに、と思う。
迷っていても、それを大げさにせずに済ませられたら、どれだけ楽だろう。
けれど、旬を見ていると、その“軽さ”はただの性格ではないことも分かる。
教室の前方で女子が手を振れば、旬はすぐにそちらへ柔らかく笑う。
廊下からサッカー部の友達が声をかければ、今度は少し声を張って応える。
通りかかった神谷に「お、真鍋。もう書いたか?」と聞かれれば、「一応それっぽくですけど」と少し真面目な顔つきで返す。
ほんの数秒ごとに、温度が違う。
先生の前では軽すぎず、女子の前では雑にならず、男子の輪に入れば場を盛り上げる側に自然と回る。無理をしているようには見えない。だから周囲も好意的だし、実際、旬は誰からも話しかけやすいタイプだった。
でも恒一は、幼いころからそれを見てきた。
旬は器用だ。
けれどその器用さは、ただ人付き合いがうまいというだけではなく、その場にいちばんちょうどいい自分を、すばやく選び取っている感じがある。
それは長所だ。
きっと、ほとんどの人にとっては。
だが恒一には、それが少しだけ不自然に映ることがあった。
昼休み、二人が机を寄せてパンを食べていると、教室の後ろのほうから声が飛んだ。
「旬ー、こっち来いよ。昨日の話の続きしようぜ」
別のグループの男子たちが手招きしている。
同時に、近くの女子が「真鍋くん、それあとで教えて」と何かのプリントを持ってきた。
旬は一瞬だけ恒一を見て、「悪い、ちょっと行ってくる」と笑う。
「別にいいけど」
「すぐ戻る……たぶん」
最後にそう付け足して、旬はもう次の空気の中に入っていく。
男子の輪では少し大きめに笑い、女子に話しかけられれば声をやわらげる。その切り替えがあまりに自然で、見ているほうが意識するのも野暮なくらいだった。
恒一は、袋の中のメロンパンをちぎりながら、その背中を目で追った。
あいつは、本当に自由なんだろうか。
誰とでも話せて、どこにいても浮かなくて、空気を悪くしない。
それはうまく生きているということかもしれない。実際、旬はそう見える。教室の中で息苦しさを感じさせない、数少ない人間のようにも。
でも——。
誰からも嫌われないように振る舞うことは、本当に自由なのだろうか。
その場その場で“ちょうどいい自分”を選び続けることは、器用さであると同時に、自分をどこかに置き忘れていくことでもある気がした。
もちろん、それを恒一はまだ言葉にできない。
単なる考えすぎかもしれないし、もしかしたら自分が旬を羨んでいるだけかもしれない。
それでも、胸の奥には小さな違和感が残った。
旬の笑顔は明るい。
けれど、その明るさの輪郭があまりにも整いすぎていて、ときどき恒一には、ガラスみたいに見えることがある。透明で綺麗で、でも少し強く触れたらひびが入りそうなものとして。




