第1章:進路希望、未記入 1-1:四月の進路希望調査
1-1:四月の進路希望調査
四月の教室には、まだ新しい匂いが残っていた。
窓の外では、校庭の端に植えられた桜が、散りきる前の花をかろうじて枝にとどめている。淡い色は、春の終わりと新学期の始まりを曖昧につなぐみたいに揺れていた。教室の中では、席替えからまだ日が浅いせいか、あちこちで控えめな話し声が途切れたり重なったりしている。二年まで同じクラスだった顔もあれば、ほとんど話したことのない顔もある。落ち着かない空気が、まだ机と机のあいだに薄く残っていた。
そのざわめきの中で、担任の神谷は教卓の前に立ち、いつも通り穏やかな声で言った。
「はい、じゃあこれ回して。進路希望調査票な。今の時点でいいから、考えて書いておいてくれ」
前の列から、白い紙が一枚ずつ後ろへ回ってくる。隣の席の生徒が軽く机を叩き、紙を恒一の方へ滑らせた。
朝比奈恒一はそれを受け取り、なんとなく視線を落とした。
上には学校名と学年、名前を書く欄があり、その下に整った印字で項目が並んでいる。
第一志望。
第二志望。
第三志望。
希望学部・学科。
将来の希望。
備考。
まだ四月だ。新学期が始まって間もない。なのに、紙の上にはもう“その先”のことが当然のように置かれていた。
前の席の男子が、振り返りながら小声で言う。
「早くない? まだ春なんだけど」
その言葉に、斜め前の女子が笑う。
「でも三年だし。今さらじゃない?」
「え、もう決めてんの?」
「決まってはないけど、一応。親がうるさいし」
別の場所では、「推薦ってやっぱ評定大事?」「専門っていつ頃決めるんだろ」なんて声も上がっていた。冗談っぽく笑いながら話しているのに、その実、誰もが少しだけ本気だ。進学か就職か。どこの大学か。どんな将来か。まだぼんやりしているはずの未来が、教室の中で急に現実味を帯び始めていた。
恒一は紙を見たまま、ペンを持つ指に力を入れた。
名前を書くことはできる。クラスを書くことも、出席番号を書くこともできる。だが、その先で手が止まった。
第一志望。
何を書けばいいのか、分からない。
興味がないわけではなかった。大学に行くことが嫌なわけでもない。勉強だってそれなりに続けてきたし、苦手というほどでもない。教師からは「真面目だな」と言われるし、母にも「恒一はちゃんとしてるから」と言われる。
けれど、“何をしたいか”と問われると、急に何も見えなくなる。
法学部でも、経済学部でも、文学部でも、どこかの大学名をとりあえず書くことはできる。だが、それを自分の希望として書くには、どれも少しずつ違う気がした。違う、というより薄い。どれも他人が納得しそうな言葉には見えても、自分の内側から出てきたものには思えなかった。
ふと顔を上げると、周りではもう何人もペンを動かし始めている。迷いながらでも、欄を埋めている。前の席の女子は友人と顔を見合わせながら笑い、「これでいいかな」と言い合っていた。窓際の男子は机に肘をつきながら、すでに大学名を二つ書いている。
自分だけが、何も決められていない気がした。
焦りが、じわじわと胸の内側に広がる。
取り残される、という言葉が近かった。誰かに置いていかれるわけじゃない。ただ、見えないスタートラインの前で、自分だけがまだ靴ひもを結べていないような感覚だった。
神谷が教卓の前をゆっくり歩きながら、クラス全体に向かって言う。
「別に今ここで人生決めろって話じゃないからな。今の時点の希望でいい。変わっても構わないし、迷ってるなら迷ってるなりに書けばいい」
その声は、責めるようでも急かすようでもなかった。むしろ気を遣ってくれているのが伝わる口調だった。
けれど恒一には、その“今の時点でいい”という言葉すら遠かった。
今の時点の希望。
それがあれば、きっと少しは楽だった。
まだ仮でもいい。途中でもいい。あとで変わってもいい。そう言われても、そもそも出発点に立つための何かが、自分の中に見つからない。
自由に選んでいいと言われるほど、自分の中に何もないことがはっきりしてしまう。
恒一はペン先を紙の上に軽く触れさせたまま、何も書けずにいた。
窓の外では風が吹き、桜の花びらが数枚、校庭の端で舞い上がった。春はまだそこにあるのに、教室の中だけが少しずつ別の季節へ進み始めている気がした。




