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『自由になるのが、怖かった』  作者: Yukiya


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9-3:紬の涙

9-3:紬の涙


 紬が泣いたのは、初めてだった。


 放課後の図書室前の廊下は、いつも人が少ない。

 その日、恒一は借りていた参考書を返しに行った帰りに、窓際の長椅子へ座る紬を見つけた。


 鞄を膝の上に置いたまま、じっと窓の外を見ている。

 最初はただ休んでいるのかと思った。

 けれど近づいたとき、その肩がわずかに強ばっているのが分かった。


 「白石さん?」


 声をかけると、紬は顔を上げた。

 その目がいつもより赤いことに、恒一はすぐ気づいた。


 「……あ、ごめん」


 紬は慌てて笑おうとした。

 でも、その笑顔は途中で崩れる。


 「別に、大丈夫だから」


 大丈夫な人の声ではなかった。


 恒一は隣に座るか少し迷ったが、そのまま離れることもできず、少し間を空けて長椅子の端に腰を下ろした。

 しばらく、二人とも何も言わない。

 廊下の向こうから誰かの足音が聞こえ、すぐに遠ざかる。


 やがて紬が、小さく息を吐くように言った。


 「家で、少し話したの」


 何の話かは聞かなくても分かった。

 進路のことだ。


 「そしたら、母は何も反対しなかった」


 その言い方が少し不自然で、恒一は黙って続きを待った。


 「“行きたいなら考えていいよ”って言ったの。ちゃんとした顔で」


 紬はそこで言葉を切る。

 目を伏せて、鞄の持ち手を強く握る。


 「でも、そう言われた瞬間、逆に苦しくなって」


 その声が、少し震えた。


 「母が無理してるの分かったから」


 恒一は胸の奥を掴まれるような気がした。


 反対されるほうが、ある意味では分かりやすい。

 諦める理由も外側にある。

 けれど、優しく送り出されることは、時にもっと苦しい。

 相手が自分のために無理をしていると分かってしまうからだ。


 紬は俯いたまま続ける。


 「行きたいって思ってるのは本当なの。行けるなら行ってみたい。知らない場所で、ちゃんと勉強して、自分が何者なのか見てみたい。……でも、家のことも本当なの」


 言葉が少しずつ速くなる。


 「弟のこともあるし、母の体調だって日によって違うし、私がいないと回らないこといっぱいあるの分かってる。なのに、自分のことも捨てたくないって思ってる」


 そこで、とうとう声が崩れた。


 「どっちも本物なのに」


 その一言と一緒に、紬の目から涙がこぼれた。


 泣くのを堪えようとしていたのだろう。

 でも一度あふれると、止めきれないみたいに静かに頬を伝っていく。

 声を上げて泣くのではなく、押し込めていたものが限界を越えて流れ出すような涙だった。


 「行きたい。……でも行けない。行けるって言われても、たぶん簡単に行けない」


 紬は泣きながらも、言葉を失わなかった。

 だから余計に、その苦しさがはっきり伝わってくる。


 家族を大切にしたい。

 でも自分の人生も捨てたくない。

 そのどちらも本物だからこそ苦しいのだと、恒一はようやく本当の意味で知った。


 優しさだけでは守れないものがある。


 自分が我慢すれば丸く収まる、という考え方では、もう届かない場所がある。

 紬はたぶん今までずっと、優しさの中で自分を小さくしてきた。

 家族を責めず、状況を恨まず、地元で十分だと静かに笑って、自分の願いが大きくなりすぎないように折り畳んできた。


 でも、その優しさだけでは守れない何かが、今ここで彼女の涙になっている。


 恒一は何か言いたかった。

 「行けばいい」とも、「無理しなくていい」とも簡単には言えない。

 そのどちらも、紬が今抱えている重さを軽く扱う言葉になる気がした。


 行けばいい。

 そう言えば、家族を置いていく痛みを無視することになる。


 無理しなくていい。

 そう言えば、紬の願いそのものをまた小さく畳ませることになる。


 どちらも違う気がした。

 どちらも、今の紬には届かない気がした。


 結局、恒一にできたのは、ただそこにいることだけだった。


 廊下の窓から入る夕方の光が、長椅子の脚を細く照らしていた。

 図書室の中では誰かが本を閉じる音がする。

 その音も、二人のところへ届くころにはひどく遠かった。


 少しして、紬が自分でハンカチを取り出して目元を押さえる。

 泣いてしまったことに恥ずかしさもあるのだろう、小さく笑おうとする。


 「ごめんね」


 「謝らなくていい」


 恒一はそう言った。

 それしか言えなかったが、それだけは本当だった。


 紬は涙の残る目で一度だけ頷いた。


 「私、ちゃんとした答えがほしかったのかもしれない」


 しばらくして、紬がぽつりと言った。


 「行くべきか、行かないべきか。家を優先するべきか、自分を優先するべきか。どっちかが正しいって分かれば、たぶん楽だから」


 恒一は黙って聞いていた。


 「でも、どっちも正しい気がするの。どっちも間違ってない気がする。だから、苦しい」


 その言葉は、恒一の中にも深く入り込んできた。


 選択は、正しいものと間違ったものの間で行うとは限らない。

 どちらも大切で、どちらも捨てたくなくて、どちらを選んでも何かが残る。

 そういう場所で、人はそれでも選ばなければならないのかもしれない。


 紬はハンカチを握ったまま、窓の外を見た。


 「私、家族が大事なのは本当なんだよ」


 「うん」


 「でも、自分の人生も大事にしたいって思うのも、本当なの」


 「うん」


 恒一は同じ返事しかできなかった。

 けれど、今はそれでよかった。

 何か正しい答えを出すことより、その二つがどちらも本物なのだと認めることのほうが、大事な気がした。


 紬は少しだけ息を整えた。


 「たぶん、すぐには決められない。でも、行きたいって思ってることまで、なかったことにするのはやめたい」


 その声はまだ震えていた。

 けれど、さっきまでより少しだけ輪郭があった。


 恒一はその横顔を見ながら、胸の奥が静かに揺れるのを感じた。


 選ぶということは、正しいもの一つを見つけることじゃないのかもしれない。

 どちらも大切で、どちらも捨てたくないもののあいだで、それでもどこかに自分の線を引かなければならない。

 その苦しさを前にして、今まで自分が“まだ決められない”と言っていたことの意味も、少しだけ変わって見えた。


 決められないことは、ただ弱いだけではない。

 でも、決められないまま何も見ないでいることとは違う。

 紬は今、自分の苦しさから逃げずに見ようとしている。


 その姿は、泣いているのに、どこか強かった。


 やがて紬は立ち上がった。

 目元はまだ赤かったが、いつものように鞄を肩にかける。


 「ありがとう」


 「何もしてないよ」


 「いてくれたから」


 その言葉に、恒一は少しだけ返答に困った。


 紬は無理に笑うのではなく、静かに目を伏せた。

 そして、図書室前の廊下をゆっくり歩き出す。


 恒一はその少し後ろを歩きながら思った。


 誰かの自由は、誰かの責任と繋がっている。

 誰かの願いは、誰かへの優しさとぶつかることがある。

 それでも願いを消してしまえば、その人自身も少しずつ消えてしまうのかもしれない。


 廊下の窓から見える空は、淡く暮れ始めていた。

 秋の光は夏よりも短く、気づけばすぐに校舎の影を濃くしていく。


 その影の中で、恒一は紬の涙を忘れられないだろうと思った。

 それは悲しみだけの涙ではなかった。

 自分の願いを、もうなかったことにしないための涙でもあった。


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