9-2:綾人の決断
9-2:綾人の決断
綾人が変わったことに、最初に気づいたのは神谷だった。
ある日の放課後、職員室前の掲示板に貼られた面談予定の追加欄に、瀬名綾人の名前がもう一度書かれていた。
一度終えたはずの面談を、綾人のほうから改めて希望したらしい。
それだけでも珍しいことだった。
教室では、そのことが小さく話題になった。
「瀬名が追加面談?」
「珍しくない?」
「志望校変えるのかな」
噂は噂のまま流れていったが、恒一の胸には別の予感があった。
夏の補習の教室で見たノート。
音楽の断片。
五線譜のような線。
そして、あのときの綾人の言葉。
——本気じゃなかったら、こんなに苦しくない。
その言葉は、時間が経っても恒一の中に残っていた。
だから、掲示板に書かれた綾人の名前を見たとき、ただの進路相談ではない気がしたのだ。
その数日後、恒一は下駄箱の前で綾人に呼び止められた。
「朝比奈」
振り返ると、綾人はいつも通り静かな顔をしていた。
制服の着方も、鞄の持ち方も、表情の整え方も変わらない。
けれど、目の奥の硬さが以前より少しだけ弱まっているように見えた。
「この前のこと」
それがノートのことだと、恒一にはすぐに分かった。
「……うん」
綾人は一度だけ周囲を見て、人の少ない廊下の端へ視線を向ける。
そこで二人は並んで立った。
放課後の昇降口には、帰る生徒たちの声が薄く響いていた。
誰かの笑い声。
靴箱を閉める音。
外へ出ていく足音。
その全部が、少し遠く感じられた。
「父に話した」
綾人は、必要以上に前置きをせずそう言った。
恒一は思わず綾人を見る。
「全部じゃないけど」
綾人は続ける。
「音楽のこと。完全に趣味で終わらせたいわけじゃないってこと。今すぐ進路を変えるとかじゃなくても、少なくとも、そういう気持ちがあるってことだけ」
その言い方にはまだ慎重さが残っていた。
まるで、自分が口にした言葉の重さを一つずつ確かめているみたいだった。
でも、それでも十分に大きな一歩だった。
今まで沈黙の中に閉じ込めていたものの一部を、綾人はついに外へ出したのだ。
「どうだった」
恒一がそう聞くと、綾人は少しだけ目を細めた。
「よくはなかった」
その答えに、苦い笑いが混じる。
たぶん、父親は簡単には受け入れなかったのだろう。
綾人が今まで築いてきた“正しい進路”は、そのまま家族の期待の形でもあったはずだ。
医学部志望。
医者の父親。
成績優秀な息子。
その流れの中に、音楽という言葉を置くことは、きっと簡単ではなかった。
「でも、思ってたより全部は壊れなかった」
その一言が、恒一の胸に残る。
全部は壊れなかった。
それは決して明るい成功の言葉ではない。
すべて理解されたわけでも、祝福されたわけでもないのだろう。
話したことで、面倒なことも増えたのかもしれない。
父親の表情や声や、返ってきた言葉の重さを、綾人は今もどこかで抱えているのかもしれない。
それでも、“本音を言うこと”と“全部を失うこと”が、必ずしも同じではないと、その一言は示していた。
綾人は廊下の窓に目を向けたまま言う。
「たぶん、俺の中で勝手に極端になってたんだと思う。言ったら終わる、って」
「でも違った?」
「終わらない代わりに、面倒なことは増える」
綾人はそう言って、小さく笑った。
その笑いは前のような諦めではなく、少しだけ乾いた現実感を含んでいた。
「父は、理解したわけじゃないと思う。たぶん今でも、医者になるのが一番いいって思ってる。音楽なんて不安定だって言われたし、趣味で続ければいいとも言われた」
綾人はそこで一度言葉を切った。
「でも、俺がそう考えてるってことだけは、もう父も知らないふりはできない」
その声は静かだった。
勝った人間の声ではない。
何かを押し通した人間の声でもない。
ただ、自分の中にあるものを、なかったことにはしないと決めた人の声だった。
「神谷にも話したのか」
恒一が聞くと、綾人はうなずいた。
「全部じゃない。でも、進路の候補を少し広げたいって言った。音楽系に行くって決めたわけじゃない。ただ、医学部一本で書くのは違う気がするって」
「神谷先生、何て?」
「驚いてた」
綾人は少しだけ口元を緩めた。
「でも、怒らなかった。現実的に考えるなら、選択肢を調べるところからだって言われた。たぶん、神谷先生らしい言い方だった」
恒一はその様子を想像した。
神谷なら、確かにそう言いそうだった。
感情的に否定するのではなく、条件や情報を整理しようとする。
それでも、綾人にとっては、自分の本音が初めて“検討すべきもの”として扱われた瞬間だったのかもしれない。
「でも、黙ったままでいるよりはマシだった」
綾人は静かに言った。
その言葉を、恒一は胸の奥で受け止めた。
沈黙を破ることは、劇的な解放ではない。
すべてが一気に好転するわけでもない。
むしろ、面倒なことや、対立や、説明しなければならないことが増えるのかもしれない。
それでも、自分の本音を完全に切り捨てたまま進むよりは、まだましだと綾人は言っている。
それは恒一にとって、かなり大きな意味を持った。
今まで、自分の本音を口にすることは、何か決定的なものを壊すことだと思っていた。
母との関係。
教師との関係。
周囲から見られている自分。
そういうものが一度に崩れてしまうのではないかと、どこかで恐れていた。
でも綾人の決断は、壊すことと変わることは同じではないのだと示していた。
全部を失わずに、沈黙だけを破ることもできる。
それは簡単ではないし、楽でもない。
けれど、ゼロか百かではないのだ。
「朝比奈も」
綾人が不意に言った。
「決めきれなくても、何か一つくらいは言ったほうがいいのかもな」
その言葉は励ましの形をしていなかった。
自分に向けても言っているような声だった。
だからこそ、恒一には余計に響いた。
「俺は、まだ決めたわけじゃない」
綾人はそう付け足した。
「音楽を選ぶかどうかも分からない。医学部を完全にやめるかどうかも分からない。でも、分からないなら分からないっていう場所から始めるしかないんだと思う」
分からないなら、分からないところから始める。
その言葉は、恒一の中にゆっくり沈んだ。
自分はずっと、分からないことを恥ずかしいものとして隠してきた。
でも、もしかしたら分からないことを認めることも、選び始める一つの形なのかもしれない。
昇降口の外では、夕方の光が校庭の端に落ちていた。
生徒たちの声はだんだん遠ざかり、廊下の空気は少し冷えている。
綾人は鞄を持ち直した。
「じゃあ、また」
「うん」
それだけ言って、綾人は歩き出した。
その背中は、以前と同じように整っていた。
姿勢も、歩き方も、大きくは変わらない。
けれど恒一には、その背中が前よりほんの少しだけ軽く見えた。
正解を示されたわけではない。
でも、黙ったままでは何も始まらないのだと、綾人の姿そのものが教えていた。
恒一はしばらくその場に立ち、夕方の昇降口の静けさの中で、自分の中の白紙を思い出していた。




