第9章:それでも選ばなければならない 9-1:三者面談の夜
9-1:三者面談の夜
三者面談の日の夜、恒一はいつもより遅くまで自分の部屋に入れなかった。
夕食は普段と同じように用意され、テレビもついていて、食卓の上に並ぶ皿の数も変わらない。
それなのに、家の空気だけが少し違っているように感じられた。
面談のあとだからだろう。
母もそれを意識しているのが分かる。けれど、どう切り出せばいいのか迷っているのも伝わってくる。味噌汁をよそう動きも、皿を置く手つきもいつも通りなのに、言葉だけが少し少なかった。
面談そのものは、大きな衝突もなく終わった。
神谷はいつも通り穏やかに、恒一の成績と今後の見通しについて話した。
強く責めることも、無理に方向を決めさせることもなかった。
「まだ迷いはあるようですが、考える力のある子なので、ここから自分で整理していけると思います」
そんなふうにまとめられ、母は神妙に頷いていた。
恒一も、面談の場では結局、曖昧な受け答えしかできなかった。
はい。
まだ考えています。
いくつか候補はあります。
もう少し整理します。
どれも嘘ではない。
けれど、どれも本当の中心には触れていない言葉だった。
でも、そのまま終わらせるのはもう無理だと、今日は分かっていた。
夕食のあと、母が食器を片づけている背中をしばらく見てから、恒一は小さく声をかけた。
「母さん」
母が振り返る。
「ん?」
「ちょっと、話していい」
それだけ言うのにも、思っていた以上に勇気がいった。
母は少し驚いたような顔をしたが、すぐに手を拭いて椅子に座り直した。
「うん。どうしたの」
恒一も向かいに座る。
テーブルの上には、片づける前の湯飲みが二つ残っていた。
台所の明かりが白く、やけに静かだった。テレビはまだついていたが、音量は小さく、画面の中の人たちの声は遠い場所のものみたいに聞こえた。
最初の言葉がなかなか出てこない。
何から話せばいいのか分からない。
ずっと曖昧にしてきたことを急に言葉にしようとすると、自分の中でも形が定まっていないことが、余計にはっきりしてしまう。
それでも、今日は逃げたくなかった。
旬が、笑顔の裏にある疲れをこぼしたこと。
凛が、自由に見られたかっただけだと言ったこと。
透が、最初から選ばないほうがましだと言ったこと。
紬が、自分の願いを悪いことみたいに感じていたこと。
綾人が、消せないものを抱えながら沈黙していたこと。
そういうものを見てきた今、恒一だけが何も言わないままでいることは、もうできなかった。
「……俺、まだちゃんと決められてない」
母は黙って聞いている。
責める表情ではなかった。だからこそ、恒一は続けることができた。
「大学行くのが嫌とか、そういうんじゃない。勉強したくないわけでもないし、何もしないでいいとも思ってない。でも……何がやりたいのかとか、どこに行きたいのかとか、そういうの、まだうまく分からない」
母の指先が、湯飲みの縁にそっと触れる。
「うん」
その短い相槌に、急かす感じはなかった。
恒一は少しだけ息を吸う。
「たぶん、俺、怖いんだと思う」
言ってしまってから、その言葉が思っていた以上に自分の中へ深く落ちた。
怖い。
ようやく、そこへ辿り着いた気がした。
白紙の理由を、初めて他人に差し出した気がした。
「決めるのが?」
母が静かに聞く。
「うん」
恒一は頷いた。
「自分で決めて、もし違ったらどうしようとか。失敗したらどうしようとか。あと、ちゃんとした道を選ばなきゃって思うのに、それが何かも分からなくて。……だから、ずっと曖昧にしてた」
母はしばらく何も言わなかった。
その沈黙が責めるものではないと分かっていても、恒一の胸は少しだけ苦しくなる。
けれど、ここで黙ってしまえばまた同じことの繰り返しになる気がして、恒一は続けた。
「前に母さん、“普通でいい”って言ってたじゃん」
母は少しだけ目を伏せた。
「うん」
「たぶん、母さんは心配して言ってくれてるの分かる。でも俺、その“普通”が何なのか分からなくて。ちゃんとしてるとか、ちゃんとした大学とか、そういう言葉が、逆にずっと怖かった」
言葉を選びながら話す。
責めたいわけではない。
ただ、自分がどう苦しかったのかを、初めて母にちゃんと伝えたかった。
「外れちゃいけないって思ってた。失敗したらだめだって。……でも、そればっかり気にしてると、自分が何を考えてるのか余計分からなくなって」
母は、そこで初めて小さく息を吐いた。
「ごめんね」
その言葉は、恒一が予想していたものではなかった。
「責めるつもりじゃなかったの。ほんとに、ただ心配で。あんたに苦労してほしくなかっただけ」
恒一は黙って聞く。
「私、自分でいろいろ選べたわけじゃないから。だから余計に、失敗しない道のほうがいいって思っちゃってたのかもしれない」
母は少し笑った。
でもその笑いは、恒一ではなく、自分自身に向けたもののようだった。
「“普通でいい”って、安心してほしくて言ってたつもりだった。でも、あんたには逆に苦しかったんだね」
恒一は何も言えずにいた。
その代わり、小さく頷いた。
母もまた、不安から“普通”を押しつけていたのだ。
それは支配したいからではなく、守りたいからだった。
けれど、守ろうとする言葉が、人を狭い場所へ押し込めることもある。
優しさの形をしているからこそ、拒みにくい檻になることもある。
母は湯飲みを両手で包むように持ち、少しだけ視線を落とした。
「お母さんも、怖かったのかもしれないね」
「え?」
「恒一が失敗することもそうだけど……たぶん、私が安心したかったんだと思う。あんたが普通に、ちゃんとした道に進んでくれたら、大丈夫だって思えるから」
その言葉を聞いたとき、恒一は母の“普通”が少しだけ別のものに見えた。
母が押しつけていたのは、正解そのものではなかったのかもしれない。
母自身の不安を鎮めるための形。
息子がそこに収まってくれれば、自分も安心できると思える形。
そう思うと、少しだけ苦しくて、少しだけ優しかった。
「まだ怖いなら、それでもいいと思う」
母は静かに言った。
「でも、誰かのためだけに決めるのはやめなさい。あんたが後で苦しくなるから」
その言葉は、今までの“普通でいい”とは違って聞こえた。
正解を示す言葉ではなく、恒一の側へ少しだけ近づこうとする言葉に思えた。
「……まだ分からないけど」
恒一は正直に言った。
「でも、自分で考えたい」
それは、今の恒一が言える精一杯の本音だった。
はっきりした進路でも、強い決意でもない。
誰かに胸を張って言えるような夢でもない。
それでも、誰かが決めた安心の中にそのまま逃げるのではなく、自分で考えたいと思っていることだけは、本当だった。
母はゆっくりと頷いた。
「うん」
それ以上、無理に背中を押すことも、具体的な答えを求めることもなかった。
その静けさが、恒一にはありがたかった。
全部が解決したわけではない。
進路が決まったわけでもない。
怖さが消えたわけでもない。
それでも、今まで曖昧にしてきたことの一部を初めて言葉にできたことで、胸の奥に少しだけ風が通るような気がした。
食卓の上の湯飲みは、もうほとんど冷めていた。
けれどその夜の静けさは、いつもの息苦しい静けさとは少し違っていた。
何かを決めた夜ではない。
ただ、決められない自分を初めて隠さずに差し出した夜だった。
それだけで、恒一はほんの少しだけ、白紙の前に立つ自分を許せる気がした。




