8-4:透の傷
8-4:透の傷
透のことを、クラスの多くは“最初からそういうやつ”だと思っていたのかもしれない。
反抗的で、皮肉っぽくて、教師にも噛みつく。
何を言っても素直に受け取らず、先に拒絶する。
そういう性格なのだ、と。
けれど、その“そういう性格”の輪郭が崩れたのは、補習のあとだった。
その日、恒一は職員室へ提出物を持っていく途中で、廊下の角で立ち止まった。
少し先の階段の踊り場から、低い声が聞こえてきたからだ。
最初は教師と誰かが話しているのかと思った。
だが、よく聞くと片方は透の声だった。
「……だから、無理だって言ってるだろ」
いつもの教室での刺々しい声とは少し違う。
怒りというより、追いつめられた人間が防御のために出す硬さに近かった。
もう一つの声は大人の男のものだった。
携帯越しなのか、内容までははっきり聞こえない。
ただ、透が短く言い返していることだけが分かる。
「どうせやっても文句言うくせに」
「……分かってるよ」
「だから、もういいって」
最後の言葉には、怒鳴る寸前の震えが混じっていた。
次の瞬間、通話は切れたらしい。
沈黙が落ちる。
恒一は動けなかった。
盗み聞きするつもりはなかったのに、そのまま足を止めてしまう。
やがて透が階段の陰から出てきて、そこで初めて恒一の存在に気づいた。
視線が合う。
透の顔には、露骨な苛立ちと、それを見られたくなかった悔しさの両方があった。
「……何」
低い声で言う。
「いや、別に」
恒一がそう返すと、透は鼻で笑うように視線を逸らした。
それで会話は終わるはずだった。
でも、その日は違った。
透は階段の手すりに片手を置いたまま、しばらく動かなかった。
逃げるように去ることも、いつものように突っぱねることもせず、ただそこに立っている。
やがて、吐き捨てるみたいに言った。
「何やっても否定されると、最初からやらないほうがマシになるんだよ」
その言葉に、恒一はすぐには返せなかった。
透は前を見たまま続ける。
「頑張れって言うくせに、やっても足りないって言われる。選べって言うくせに、選んだらそれじゃダメだって言われる。だったら最初から選ばないほうがいいだろ」
その口調には、教室で見せるような挑発はなかった。
ただ、長いあいだ積もった諦めが、形だけ言葉になって出てきたような声だった。
何をしても否定されてきた経験。
それが、透に「最初から選ばない」という防御を覚えさせたのだと、そのとき初めて恒一ははっきり理解した。
進路を決めないのではない。
決められないのでもない。
決めた先で否定される苦しさを知っているからこそ、自分から手を伸ばさないようにしているのだ。
透の反抗は、強さではなかった。
生き延びるための形だった。
「期待されるのも、もう面倒なんだよ」
透は小さく言った。
「どうせ勝手に期待して、勝手に失望するだけなんだから」
その言葉の裏にある家庭の景色を、恒一は想像するしかなかった。
厳しい父親なのかもしれない。
何をしても認めず、もっと上を求めるような人なのかもしれない。
あるいは、直接怒鳴るわけではなくても、ため息や比較や無言の失望で、ずっと透を追いつめてきたのかもしれない。
詳しいことは語られなかった。
でも、それで十分だった。
透がなぜあんなに先回りして拒絶するのか。
なぜ“自由”や“選択”という言葉に、あれほど鋭く反応するのか。
その理由が、今ようやく現実の手触りを持った気がした。
「……悪い」
なぜそう言ったのか、自分でも分からないまま恒一は口にしていた。
透は眉をしかめる。
「何が」
「いや……見たから」
透はしばらく黙っていたが、やがて小さく舌打ちをした。
「別に、お前に謝られても」
そう言いながらも、その声にはさっきまでの棘が少しだけ減っていた。
階段の窓から差し込む夕方の光が、壁の白さをぼんやり照らしている。
透はそのまま背を向け、階段を下りていった。
恒一はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥が静かに重くなるのを感じていた。
教室で見えていた透は、反抗することで自分を保っているように見えた。
でも本当は、反抗しなければ潰れてしまう場所に立っていただけなのかもしれない。
選ばないこと。
拒絶すること。
先に否定してしまうこと。
そのすべてが、彼にとっては“強さ”ではなく、“傷つかないための最低限の形”だった。
教室の均衡は、もう前のようには戻らない。
旬の明るさも、凛の自由さも、透の反抗も、ただの性格として片づけられなくなってしまった。
それぞれの奥にあるものを、恒一は少しずつ見てしまっている。
そのことが、この教室を前よりずっと近く、前よりずっと苦しい場所に変えていく気がした。




