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『自由になるのが、怖かった』  作者: Yukiya


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9-4:白紙を終わらせる

9-4:白紙を終わらせる


 その夜、恒一は自分の机に向かっていた。


 久しぶりに、逃げるためではなく、ちゃんと考えるために座った気がした。


 窓の外は静かで、住宅街の遠い音だけがかすかに聞こえる。

 机の上にはノートと筆記用具、それから今まで何度も見ては伏せてきた進路関係の紙が並んでいた。


 以前のように、ただ白紙を見ているだけではない。


 もちろん、まだ怖さはある。

 決めた先に何があるのか分からないし、後悔しない自信もない。

 それでも今日は、少なくとも目を逸らしたままにはしたくなかった。


 旬の爆発。

 凛の告白。

 透の傷。

 綾人の決断。

 紬の涙。


 それぞれが、それぞれの形で何かを言葉にした。

 隠していたものを少しだけ外へ出し、ずっと守ってきた自分の形を、少しだけ崩した。


 その姿を見てきたあとで、まだ白紙のままでいることは、もう“慎重さ”ではないように思えた。


 白紙のままでいることは、自由ではなく猶予にすぎなかった。


 考えないで済む時間を少し延ばすこと。

 選ばないことで、間違える責任を先送りにすること。

 それは安全に見える。


 でも本当は、何も選んでいないわけではない。

 「まだ決めない」という形で、自分は自分の時間を使ってしまっていたのだ。


 恒一はそのことを、ようやく認めようとしていた。


 正解を探していたのだと思う。


 これなら間違いないと言える道。

 母も安心して、先生も納得して、自分も後悔しにくい道。

 誰にも迷惑をかけず、誰にも失望されず、後から自分を責めずに済む道。


 でも、そんなものは最初からなかったのかもしれない。


 綾人は、言ったところですべてが理解されたわけではなかった。

 紬は、行きたい気持ちを認めても、家の問題が消えたわけではなかった。

 旬は、疲れたと口にしても、明日から全ての空気が楽になるわけではない。

 凛も、透も、まだ何かを抱えたままだ。


 それでも、言葉にしたことで始まったものがある。


 大事なのは、正解かどうかではなく、自分が引き受けられるかどうかだった。


 それは、好きなことだけを選ぶという意味ではない。

 楽な道を選ぶことでも、苦しい道を無理に選ぶことでもない。

 あとで迷ったとしても、後悔したとしても、「自分でここから始めた」と思える線を引くこと。


 たぶん、それが今の自分にできる選択なのだ。


 恒一は机の上の紙に視線を落とした。


 大学名の欄。

 学部の欄。

 志望理由の欄。


 どれも、以前と同じように整った線で囲まれている。

 けれど、今夜はその欄がただ自分を問い詰めているようには見えなかった。


 答えを要求する空白ではなく、自分の言葉を置くための場所。

 そう思おうとすれば、少しだけ息がしやすくなった。


 恒一は深く息を吸って、ゆっくりとペンを持った。


 まだ確信はない。

 胸を張って「これだ」とは言えない。

 それでも、今までよりは少しだけ、自分の中に理由のある言葉を書ける気がした。


 何に惹かれているのか。

 何を考え続けてきたのか。

 人や言葉や、見えない空気のことを、どうしてこんなに気にしてしまうのか。


 教室で誰かが笑ったとき、その笑いの奥にある疲れを考えてしまう。

 誰かが「大丈夫」と言ったとき、その言葉が本当に大丈夫なのか気になってしまう。

 正しさが人を追い詰めることも、優しさが人を縛ることも、自由が時に残酷になることも、ずっと見てきた。


 そういうことを一つずつ拾い上げていくと、漠然としていた未来の中に、かすかな輪郭が見え始める。


 自分は、人がどう生きるのかを考えたいのかもしれない。

 人が何に縛られ、何を怖がり、それでも何を選ぼうとするのか。

 そういうものを、もう少しちゃんと知りたいのかもしれない。


 それはまだ、立派な夢と呼べるほどのものではない。

 誰かに胸を張って語れるほど、はっきりした目標でもない。

 けれど、少なくとも今の恒一の中から出てきたものだった。


 白紙を埋めるのは、一気に人生を決めることではない。

 ただ、自分の足で最初の一歩をどこに置くかを決めることなのだと、今は少しだけ思えた。


 ペン先が紙に触れる。


 最初の一文字を書くまでに、少し時間がかかった。

 けれど、書き始めると、手は思っていたよりも静かに動いた。


 大学名を書く。

 学部を書く。

 志望理由の欄には、何度か止まりながらも、自分の言葉で短く書いた。


 人の心や社会の中にある見えない圧力について学びたい。

 自分や他者が、何を怖れ、何を選ぼうとするのかを考えたい。


 書いてから、恒一はしばらくその文字を見つめた。


 少し硬い。

 少し背伸びしている。

 でも、完全な嘘ではない。


 少なくとも、誰かに安心してもらうためだけの言葉ではなかった。

 母が喜びそうだからでも、神谷が納得しそうだからでもない。

 自分がここまで見てきたもの、感じてきたものと、どこかでつながっている言葉だった。


 その瞬間、何か劇的な変化が起きるわけではなかった。


 不安が消えるわけでもない。

 怖さがなくなるわけでもない。

 明日の朝になれば、また迷うかもしれない。

 別の大学名を見れば、本当にこれでいいのかと考えるかもしれない。

 誰かに何かを言われたら、また心が揺れるかもしれない。


 それでも、今までとは違う感覚があった。


 自分で書いた、という感覚。


 誰かに決められた安心ではなく、自分で引き受けるための小さな始まり。

 その小ささが、今の恒一にはかえって信じられるものに思えた。


 白紙のまま逃げることは、もうやめようと思った。


 そのことを認めることで、恒一はようやく一歩だけ前に進んだのだと思う。

 大きな決断ではない。

 けれど、自分の未来に対して初めて“参加した”ような一歩だった。


 部屋の中は静かだった。


 机のライトの下で、書き込まれた文字がまだ少しだけ不安定に見える。

 迷いがそのまま筆跡に残っているようだった。


 でも、それでいいのかもしれないと、恒一は思った。


 未完成のまま、自分で選ぶ。

 怖さが消えないまま、それでも言葉を置いてみる。

 正解ではなく、自分が引き受けられる始まりを探す。


 その始まりが、ようやくここにあった。


 恒一はペンを置き、もう一度だけ書いた文字を見た。

 白紙だった場所には、まだ頼りないけれど、確かに自分の言葉があった。


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