6-2:綾人のノート
6-2:綾人のノート
それを見てしまったのは、本当に偶然だった。
補習が終わったあとの教室で、恒一は自分のノートを机の中に置き忘れたことに気づいて戻った。廊下にはもう人影が少なく、教室の中には誰もいないように見えた。
窓から差し込む西日のせいで、黒板も机も橙色に染まっている。
自分の席へ向かう途中、前方の列の机の上に一冊のノートが開いたまま置かれているのが見えた。
綾人の席だった。
最初はただ閉じようと思っただけだった。
風でページがめくれそうになっていたし、誰かのノートをそのままにしておくのも落ち着かなかった。
だから深く考えずに近づいて、手を伸ばした。
そのとき、視界に入った文字に、恒一の手が止まった。
授業のメモではなかった。
五線譜のような線。
その横に書かれた短い単語の断片。
切れ切れの歌詞のような言葉。
音の強弱を示す記号らしきもの。
旋律の流れを組み立てているような書き込み。
そこには数学の公式も英単語もなく、かわりに誰にも見せるつもりのない何かが、そのままの形で残されていた。
恒一は息を止めた。
綾人が本当に向かいたい場所は、医学部とは別のところにある。
そのことが、言葉ではなくページそのもので目の前に突きつけられた気がした。
ノートの端には、短いフレーズが書かれていた。
“言えない音は、消えない”
その一文だけで、胸の奥が少し痛くなる。
それが歌詞なのか、単なるメモなのかは分からない。
けれど綾人の中にあるものが、ただの気まぐれではなく、長く続いてきた切実な何かだということだけは分かった。
「……何してる」
背後から低い声がして、恒一は反射的に振り返った。
綾人が教室の入り口に立っていた。
表情はいつも通り落ち着いているように見えたが、その目だけがわずかに鋭かった。
「ごめん。風でめくれそうだったから、閉じようとして」
言い訳のように聞こえるのが、自分でも分かった。
綾人はすぐには近づいてこなかった。
数秒の沈黙が、教室の夕方の空気をさらに重くする。
やがて綾人は席まで来て、ノートを閉じた。
その手つきは静かだったが、指先には少しだけ力が入っているように見えた。
「見た?」
「……少し」
綾人はそれ以上責めなかった。
代わりに、小さく息を吐く。
「別に、隠しきれてなかった俺が悪いだけだから」
その声には怒りよりも、諦めに近いものが混じっていた。
恒一は何を言えばいいのか分からず、ただ立ち尽くす。
綾人はノートを鞄に入れ、それから窓のほうへ視線を向けた。
「誰にも言うつもりはない」
それは念押しというより、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
言わない。言えない。
その二つの言葉の境目が、綾人の中ではもう曖昧になっているのかもしれない。
恒一はゆっくりと口を開いた。
「……ずっと、やってたの」
綾人は少しだけ目を伏せた。
「中学くらいから」
「本気で?」
その問いは、口にした瞬間、自分でも少し残酷だと思った。
綾人は苦くも笑わず、ただ静かに答える。
「本気じゃなかったら、こんなに苦しくない」
その言葉に、恒一は何も返せなかった。
夢があることは、外から見れば救いのように思える。
やりたいことがある。向かいたい場所がある。
それならあとは、それを目指せばいいだけだと。
でも綾人の前では、その考えはあまりにも単純すぎた。
夢があることが救いではなく、むしろそれを選べない現実のほうが彼を苦しめていた。
医学部という“正しい進路”が、ただの噂ではなく、家庭や期待や積み重なった時間の上にできているものだからこそ、その外にあるものは簡単に選べない。
「言ったら終わる気がするんだよ」
綾人は窓の外を見たまま、そう言った。
「親にも、先生にも、たぶん自分にも。そういうのは趣味でやればいいって、結局そこに戻るのが分かってる」
それは愚痴っぽくはなかった。
もう何度も自分の中で反芻して、感情を削ったあとの言葉だった。
“正しい進路”の裏にある本音が、そのとき初めて具体的な形を持って恒一の前に現れた。
音楽は綾人にとって、憧れではなく、現実的な進路でもなく、ただ“消せないもの”としてそこにある。
だからこそ苦しいのだ。
教室の中には西日が残っていた。
その光の中で、綾人の横顔はいつもより少しだけ幼く見えた。
整った優等生の輪郭の内側に、ようやく一人の高校生としての迷いが見えた気がして、恒一は胸の奥が静かに揺れるのを感じた。




