6-3:紬の願い
6-3:紬の願い
紬がそれを隠しきれずに持っていたのは、補習が終わったあとのことだった。
外はまだ明るく、教室の中にはまばらに数人が残っていた。恒一は英語の問題集を鞄にしまいながら、ふと隣の列に目をやった。
紬が席に座ったまま、机の上の紙を揃えている。
その中に、見覚えのある大学パンフレットが混じっていた。
地元のものではない。
以前、本屋で視線を止めていた大学と同じ系列のものだった。
前は机の中へ隠すようにしまっていたが、今はもう、完全には隠しきれていない。
見られることを避けきれないところまで、その願いが表に出てきているのかもしれない。
恒一は見て見ぬふりをしようとした。
紬の抱えているものは、軽く触れていい種類のものではないと分かっていたからだ。
けれど席を立ちかけたとき、紬のほうが先に口を開いた。
「……本当は、行ってみたいんだ」
声は小さかった。
独り言のようにも聞こえるくらい静かだった。
でも、その一言は教室の夕方の空気の中ではっきり届いた。
恒一は振り返る。
紬はパンフレットの端を指で押さえたまま、机の上を見ていた。
目を合わせるわけでもなく、言い訳するわけでもなく、ただ秘密を一つだけ差し出したみたいな口調だった。
「遠くの大学?」
紬はゆっくりとうなずいた。
「すごいことじゃないんだけどね。別に、特別な夢があるとかじゃなくて」
その言葉がかえって切実だった。
派手な目標や華やかな未来ではない。ただ、自分の知らない場所へ行って勉強してみたい。そこにしかない空気を吸ってみたい。そういう、ごく静かな願い。
「知らない場所で、一回ちゃんと生活してみたいなって思うことはある」
紬は少しずつ言葉をつないでいく。
考えながら話しているのではなく、ずっと胸の中に置いていたものを、今ようやく外へ出しているようだった。
「地元から出たいとか、家が嫌とか、そういうわけじゃないんだよ。ただ……自分が知らない場所で、自分がどうなるのか見てみたいっていうか」
恒一は黙って聞いていた。
その願いは大げさではない。
けれど、だからこそ真実味があった。
自由になって全部を変えたい、というような激しい願望ではなく、ほんの少しだけ自分の人生を広げてみたいという、静かな欲求。
でもその“それだけ”が、紬にとっては簡単ではないのだ。
「もし本当にそうしたいって考え始めたら、たぶん家のことも全部一緒に考えなきゃいけなくなるから」
紬の指が、パンフレットの端をそっとなぞる。
「母のこととか、弟のこととか。今やってることを誰が代わりにやるのかとか。そういうの全部込みになるじゃない」
その言い方は静かだった。
文句でも悲鳴でもない。ただ、そこにある現実をそのまま並べているだけ。
それなのに、その落ち着きのせいで余計に苦しく聞こえた。
願いを持つこと自体に、罪悪感が入り込んでいるのだと恒一は思った。
本当は行ってみたい。
でもそう思った瞬間、自分だけが家から離れて、家族を置いていくことになる。
願うことそのものが、誰かを裏切ることのように感じられてしまう。
「変だよね」
紬は小さく笑った。
「まだ何も決まってないのに、行きたいって思うだけで、なんか悪いことしてるみたいになるの」
恒一はその言葉に、すぐには返事ができなかった。
変ではない、と思う。
でも“変じゃない”と言うだけでは軽すぎる気もした。
紬が今感じているものは、励まし一つで消えるようなものではない。
「……悪いことじゃないと思う」
結局、恒一はそう言うのが精一杯だった。
紬は少し驚いたようにこちらを見て、それから目を細めるように微笑んだ。
「うん。頭では分かってるんだけどね」
頭では分かっている。
でも感情が追いつかない。
その言い方は、恒一にも痛いほど分かった。
教室の外では、部活帰りの生徒たちの声が遠く聞こえる。
夏の夕方の光が床に長く伸びていた。
紬の願いは、誰かを押しのけて手に入れたいものではない。
ただ、自分の知らない場所で勉強してみたい。
その静かな願いが、家族への責任と結びついた瞬間、ひどく重いものになってしまう。
恒一は、その重さを前に、自分の“決められない”という苦しさとは別の種類の痛みがあるのだと改めて知った。
自由を選べない理由は、一つじゃない。
人によって、その形も重さも違う。
紬はパンフレットをそっと鞄にしまった。
今度は隠すためというより、しまっておかなければ気持ちが揺れすぎるから、という手つきに見えた。




