第6章:夏の境界線 6-1:補習の午後
6-1:補習の午後
夏休みに入ると、学校は同じ場所なのに少し違う顔になる。
朝から部活の声は響いているし、校舎も開いている。けれど教室棟の空気は普段よりずっと静かで、廊下を歩く人影もまばらだった。
教室の窓は半分ほど開けられ、外から入ってくる風はぬるく、時おり蝉の声をそのまま運んでくる。机と椅子が整然と並んだいつもの教室も、人数が減るだけで妙に広く見えた。
夏期補習に来ているのは、限られた生徒だけだった。
推薦を意識して早くから動いている者。
模試の判定が思わしくなく、焦って来ている者。
家にいても落ち着かないからという理由で来ている者。
理由はそれぞれ違うが、普段の教室よりも少ない人数の中には、どこか“自分なりの事情”を抱えた気配があった。
恒一もその一人だった。
家にいても進路のことを考えてしまうし、だからといって学校に来たから急に何かが分かるわけでもない。
それでも、何もせずにいるよりはましだと思って、毎日ではないが補習に顔を出していた。
白紙のままの調査票は、まだ鞄の中にある。
提出期限はもう過ぎていて、今はより具体的な志望調査の時期に移っているのに、自分の中の結び目はまだほどけていなかった。
補習の教室は静かだった。
授業中に先生が板書する音、ページをめくる音、誰かがシャーペンを落とす音。そんな小さな気配が、普段よりずっとはっきり聞こえる。
人数が少ないぶん、一人ひとりの存在が近い。
旬も、凛も、綾人も、紬も、同じ教室にいながら、いつもの教室より少しだけ輪郭が濃く見えた。
昼前の休み時間、恒一が窓際で水筒の水を飲んでいると、旬が後ろから声をかけてきた。
「今日、いつもより死んだ顔してるぞ」
「補習のときのお前にだけは言われたくない」
旬は笑った。
その笑い方は、学期中のように周囲へ向けて整えられたものではなく、もっと小さく、素のままに近い響きだった。
「まあな。夏って、それだけで体力削られるし」
そう言って机にもたれかかる。
教室には他にも何人か残っていたが、皆それぞれ自分の場所で黙っている。ざわめきが少ないぶん、会話の温度も無理に上げなくて済むのかもしれない。
恒一は最近、この“少人数の静けさ”の中では、皆との距離が少しだけ変わるのを感じていた。
いつもの教室では言えないことが、夏の空気の中では少しだけ口にしやすくなる。
目立たない声で話しても、それがちゃんと届く。
大きな輪の中では流れてしまう本音が、少人数の静かな教室では、なぜか落ちずにそこに残る。
凛も、補習のあいだは以前より静かだった。
無理に中心になろうとせず、必要なときだけ話す。教室の後ろでスマホを見る時間は相変わらずあるが、投稿を見せて盛り上がるようなことは減っていた。
透は相変わらず刺々しいが、以前ほど何にでも反発するわけではなく、黙って問題集を解いている時間が長い。
綾人は変わらず整っているように見えるが、補習のあとに教室へ残ることが増えた。
紬はいつものように静かだったが、その静けさの中に以前よりも思考の深さが見える気がした。
季節が変わると、会話の質も変わるのだろうか。
あるいは、皆が少しずつ余裕を失って、飾る力が弱くなっているだけなのかもしれない。
午後の補習が終わり、教室に残った数人がだらだらと帰り支度を始める。
窓の外では蝉の声が急に大きくなり、空は白く眩しい。
そんな中で交わされる言葉は、学期中よりも少しだけ本音に近い。
「推薦、正直しんどい」
「家いると親に何か言われるから、学校のほうがまだ楽」
「勉強してると安心するけど、してるだけで決まるわけじゃないのがきつい」
誰かがそう言うと、誰かが否定せずに頷く。
正解を出そうとする会話ではなく、“分かる”だけが静かに積み重なる。
恒一はその空気の中で、自分だけが取り残されているわけではないのだと、前よりもう少し具体的に感じられるようになっていた。
夏は、何かが大きく変わる季節というより、隠していたものの輪郭が少しずつ滲み出てくる季節なのかもしれない。
その予感が、補習の終わった午後の教室に薄く漂っていた。




