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ヴィレットの死

メロペートブルク地下九階は、凶悪な罪人でさえ口にしたがらない禁域である。冷たく湿った空気に鉄錆と塩気が混ざり合い、壁面に十メートルごとに設けられた蒼い水晶灯だけが光源となり、粗い石壁と重厚な鉄扉の輪郭をかろうじて浮かび上がらせていた。


最深部の独房は他と様相を異にする。鉄格子ではなく一枚の黒曜石製の扉で、封印のルーンが彫り込まれ、中央に掌ほどの覗き窓が開けられている。ここ「静寂の間」はメロペートブルクにおいて最も危険な存在を収監する区画で、かつて魔神の残滓や深淵使徒が囚われ、今はフォンテーヌ最高裁判官が身を寄せていた。


ネヴィレットは独房唯一の石床に腰を下ろし、背筋を伸ばし両手を膝の上に置く。以前の戦いで裁き官の法衣は損壊し、質素な灰色の囚人服に着替えていたが、生まれながらに備わる威厳は少しも衰えていない。胸の傷は簡単な処置を施され、白い包帯の下からうっすらと血が滲むものの、その顔に苦痛の色はなく、深海のような穏やかさだけが宿っていた。


廊下の奥から足音が響いてくる。看守の重く規則的な歩調ではなく、落ち着き確かで、揺るぎない権威を帯びた足音だ。扉の前で足音が止まり、次いで鍵が錠穴に差し込まれる金属の擦れる音が鳴る。


黒曜石の扉がゆっくりと内側へ開かれた。


扉外には二人の男が立っていた。先頭には濃い紫に近い黒の着物を身にまとった中年の男。髪を後ろで結い、細面で眼光は刀の如く鋭く、口角に淡い笑みが浮かぶ。腰には大小二本の刀を差し、鞘は質素ながら底知れぬ迫力を放っている。


その後ろには浅井長政が、少し首を垂れ恭しい態度で佇んでいた。


ネヴィレットはまず浅井長政に視線を落とし、続いて前方の男へ目を移す。面識はないが、勘が告げる——この男こそ全てを握る実権者だ。


「最高裁判官ネヴィレット殿、久しくお慕いしておりました。拙者、織田信長」


ネヴィレットは傷のため動作は緩やかながらゆっくりと立ち上がり、佇まいは変わらず端正だ。「織田信長か。ならば浅井長政は貴殿の先鋒に過ぎぬわけだな」


「彼は拙者の刃であり、道を切り開く駒だ」信長は独房へ踏み入り、浅井長政は扉の外に残って扉を閉める。室内には二人だけが残された。


信長は室内を見渡し、冷たい石壁、簡素な石床、隅の水盤へと目を走らせる。「メロペートブルク……フォンテーヌ随一の厳戒監獄。ここに貴様を収めるにはうってつけだ。裁き官が囚人となる、実に皮肉な話」


「正義は場所によって性質を変えぬ」ネヴィレットは穏やかに答える。「この牢の中にあっても、我は変わらずフォンテーヌの最高裁判官。貴殿は侵略人であり、屠殺者、戦争犯罪人であることに違いない」


信長は怒ることなく、上から眺めるような戯れの笑みを浮かべる。「戦争犯罪人?面白い。勝者が裁かれるなど、貴様は考えられるのか?」


「正義は勝敗に左右されない」


「では聞こう、裁判官殿。フォンテーヌの法は誰が定めた?」信長は向かいの石椅子に腰を落とす。


ネヴィレットは質問を避けず応じる。「正義を信じる者が一人でも残る限り、裁きに意味は失われない。たとえ我一人だけだとしても」


「一人で全世界に逆らうのか?」信長は身を翻し、目に賞賛の色が過る。「勇気は称賛に値する、だが愚かだ。貴様は氾濫の中で浮き木にしがみつき、津波に抗えると思い込む者と同じ」


「少なくとも我は浮き木を掴んでいる」ネヴィレットは言う。「貴殿、織田信長こそ、この津波を引き起こした張本人だ。フォンテーヌを戦火に巻き込み、数万の民を無念の死に追いやり、テイワット全土を動乱に陥れた。征服こそ勝利だと思うかもしれぬが、貴殿が支配した土地のあらゆる土壌には恨みが染み込んでいる」


信長は突然高笑い、笑い声が石壁に反響し冷たく虚しく響き渡る。「恨み?拙者が恨みなど気にするとでも?歴史は勝者が記すもの、恨みは時に磨り潰され、新たな秩序に塗り替えられる。百年後、誰がフォンテーヌの抵抗を憶え、ペトリコ町の死者のために涙を流す?人々はただ、織田信長がテイワットを統一し新秩序を築き、平和をもたらしたと記憶するだけだ」


「血で肥やされた平和は、次なる戦乱の伏線に過ぎぬ」


「そうかもしれぬ」信長は気にも留めない。「だがそれは後世の問題。拙者の役目は配下の民に生きる場所を与え、自らの文明の火を絶やさぬこと。そのためならどんな代償も惜しまない」


ネヴィレットが彼を見つめる。「それが全ての理由か?自国の民のためなら他国の民を虐殺し、自文明の存続のためなら他国の文明を滅ぼしても良いと?」


「自然の摂理は弱肉強食だ」信長の声が冷徹に変わる。「拙者の故郷は滅びに瀕し、土地は砂漠化し資源は枯渇、日々無数の人々が苦しみながら命を落としている。テイワットは資源豊かで土地は肥えているのに、安穏な平和に浸り現状に満足する諸国に独占されている。これが公平だと言えるのか?」


「だからといって戦を起こし資源を略奪し、無実の人々を殺す正当な理由にはならない」


「戦争は政治の延長線上にあり、資源の再配分だ」信長はネヴィレットの眼前まで近づき、二人の距離は一メートルに満たない。「貴様ネヴィレットこそ旧秩序の頂点に立つ存在だ。法や手続き、正義や平和……美しい言葉たちは、生き残りを前にすれば何の価値もない。我が子が空腹で泣く力も失い、妻が病を抱え薬も手に入らず、故郷が砂塵の荒野と化した時、貴様は所謂『正義』がどれほど贅沢な空想か悟るだろう」


ネヴィレットは怯まず視線を受け止める。「貴殿の民の苦しみには同情する。だからといって、更なる災厄を他者に強いる理由にはならない。過ちを重ねても正しさにはならない」


「甘ちゃんだ」信長は首を振る。「貴様はまだ理解していない。この世に善悪など存在せず、生きるか滅ぶかの二択だ。拙者は生を選び、あらゆる手段を尽くす。貴様は死を選び、それを正義だと呼ぶ」


一歩下がり、腰の刀の柄に手を添える。「浅井から聞いた。捕縛される前、貴様は彼の親衛三人を負傷させ、浅井自身にも刃を届けんとした。文官の裁き官として、その武勇は称賛に値する」


「正義を守るには力が不可欠だ。成文法の力であれ、剣の力であれ」


「ならば今、貴様の力はどこにある?守り続けた正義は?護った祖国は?」


ネヴィレットは黙り込む。独房に静けさが満ち、遠くの波の音だけが石壁越しに微かに漂ってくる。


しばらくし、信長が再び口を開く。「選択肢を与えよう、ネヴィレット。拙者に臣従し新秩序を認め、その知恵と威光で『織田領』と改名したフォンテーヌの統治を補佐せよ。そうすれば命を繋ぎ、一定の地位と権限を保つことも叶う」


「条件は何か?」


「フォンテーヌの旧法が無効であると公に宣言し、拙者の支配の正当性を認める。抵抗を続ける反乱分子を裁き、何よりも……」信長は言葉を区切る。「フリナを公開処刑せよ。旧時代の終焉を示す象徴として」


初めてネヴィレットの表情に微細な動揺が走る。わずかな変化を信長は見逃さなかった。


「フリナはフォンテーヌの象徴、民衆から慕われる存在。彼女を処刑すれば、フォンテーヌ人の抵抗意欲を根こそぎ断てる」信長は続ける。「最高裁判官である貴様が裁きを執行することで、全人に旧時代の終わりと新時代の始まりを知らしめられる」


「これが貴殿の正義か?無実の人間を生贄にし、裁き官を処刑人に堕とすのが?」ネヴィレットの声は氷のように冷たい。


「政治には犠牲が付き物。旧時代の偶像である彼女は、最適な生贄なのだ」


ネヴィレットはゆっくり首を横に振る。「ならば我の答えは拒絶だ」


信長は意外な様子もなく問う。「死を覚悟の上でか?」


「決意は既に固まっている」ネヴィレットは穏やかに告げる。「裁き官の法衣を身に纏った日より、我はフォンテーヌの憲法と法を守り、全てのフォンテーヌ市民の権利と尊厳を護ると誓った。剣に脅されようと、死に迫られようと、誓いは揺るがない」


「フォンテーヌという国が消え失せたとしてもか?」


「フォンテーヌは正義を信じる者の心の中に生き続ける。一人でも記憶する人がいる限り、国は滅びない」


信長は彼を眺め、惜しみと敬意、そして断固たる決意が入り混じった複雑な感情を瞳に宿す。やがて小さくため息をつく。「惜しい。同じ国に生まれていたなら、友となれたかもしれぬ」


「我々が友となることは永遠にない」ネヴィレットは言う。「貴殿は力こそ真実と信じ、我は真実を守るための力を信じるからだ」


「ならば、ここが最期だ」信長は腰の刀をゆっくりと抜く。蒼い灯りの下で刀身が冷ややかな光を放ち、刃紋は水波のように躍る、幾多の命を奪った名刀である。


ネヴィレットは身構えることなく腰を落ち着け直し、囚人服の襟元を整え、まるで正式な裁判に臨むかのようだ。顔を上げ真っ直ぐ信長の瞳を捉える。


「臨終の前に一つ問う」


「問え」


「貴殿は本気で、恐怖と暴力、虚言で築かれた秩序が長続きすると信じているのか?民を恐怖で支配し、反発を武力で弾圧し、真実を嘘で塗り隠す帝国が、いつまで存続できると?」


信長はしばし沈黙してから答える。「存続期間は知らぬ。だが拙者がこの手を打たなければ、自らの文明は百年も経たず消滅する。二害のうち軽き方を選び、他国に代償を負わせるだけだ」


「ならば貴殿もまた被害者なのだな」ネヴィレットが静かに呟く。運命に迫られ、責任に駆り立てられ、残酷な道を選んだ。だが被害者が加害者となっても、罪が償われるわけではない」


「そうかもしれぬ」信長は刀を振り上げる。「最後に遺言はあるか?」


ネヴィレットは目を閉じ、遠くの潮騒に耳を澄ますようだ。再び瞼を開けた時、瞳に恐怖はなく、変わらぬ深海の静寂があった。


「我、フォンテーヌ最高裁判官ネヴィレットは、臨終の刻にあっても判決を貫く。織田信長、貴殿は侵略罪・戦争犯罪・反人類罪に問われる。今日我が刑を執行できずとも、いつの日か正義が貴殿を追い詰める」


言葉を一度切り、声に確固たる意志が宿る。


「フォンテーヌの魂は滅びない。貴様は一人の裁き官を殺しても正義を滅ぼせず、一片の土地を征服しても人々の心を奪えず、我の命を絶ってもフォンテーヌの志は抵抗者一人一人の胸中で受け継がれる。これが我の遺言だ。さあ、執行せよ」


信長は頷き両手で刀を構え、刀先をネヴィレットの心臓に向ける。


「貴様は敬うに値する好敵手だ、ネヴィレット。貴様の神のもとで、求め続けた正義に巡り合えるように」


刀閃一闪。


ネヴィレットは痛みを感じる間もなく胸に冷たさが走り、命の温もりが失われていく。体を崩すことなく、裁き席に座る時と同じく背筋を伸ばしたまま座り続けた。


信長は刀を鞘に収め、刃に一滴の血も残らない。最後まで尊厳を守り通した裁き官を眺め、心底からの敬意が顔に浮かぶ。


「最高の格式で厚葬せよ」扉外の浅井長政へ命じる。「真の戦士だ」


「承知いたしました」浅井長政は頭を垂れる。


信長は最後にネヴィレットを一瞥し独房を後にする。黒曜石の扉がゆっくり閉まり、全てを静寂の中に閉ざす。


独房に残されたネヴィレットの遺体は端坐し、瞼を少し開け遠方を見つめているかのよう。口角には殉教者の安らぎ、信念を守り抜いた者の満足の笑みが仄かに浮かぶ。


メロペートブルク地下九階は再び死のような静けさに包まれる。だがその静寂の裏には、正義の残響、抵抗の叫び、一つの文明が遺した最後の尊厳が、音もなく空気に響いていた。


信長は監獄を出て地上へ上がる。空は曇り、潮風がうなり、まるで死者を悼むかのようだ。


「殿、フリナの処遇は?」浅井長政が後を追い問う。


「暫く収監し、刑は加えるな」信長は遠方を眺める。「ネヴィレットの死だけでフォンテーヌ残存勢力は十分に震え上がる。あの偶像は、残しておけばまだ利用価値がある」


「だが彼女が抵抗の象徴となる恐れが……」


「国を失い牢に囚われた役者如き、どれほどの波乱を起こせよう?」信長は冷ややかに嗤う。「本当に脅威なのは生き残り権力を握る抵抗者たち。レオスリーもネヴィレットも死に、フォンテーヌの柱は折れた」


浅井長政に向き直り告げる。「次の手を整えろ。璃月は抵抗を続け、ナタとスネージナヤの援軍は集結中、稲妻まで戦に加わりつつある。本格的な死闘はこれからだ」


「かしこまりました」


二人はメロペートブルクを離れ、暗闇と静寂を背後に残す。監獄の最深部では、フォンテーヌという沈んだ国の最後の記念碑の如く、ネヴィレットの遺体が尊厳を保ったまま佇んでいた。


正義は一時的に沈黙することはあっても、決して滅びはしない。深海の底流のように、水面は穏やかでも水底では世界を変える力が渦巻いている。


そしてテイワットの戦火は、まだ燃え続けている。

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