ペトリネットの抵抗戦
最後のフォンテーヌ
ペトリコ町の朝に鳥のさえずりは響かない。
硝煙と塩気、血のにおいが混ざり合った気体が空気に漂い、潮風さえこの死の靄を吹き払うことはできない。町外れのかつて青々と茂った丘陵は砲撃に何度も削り取られ、真っ黒に焦げた大地に砲弾の跡、四肢の破片、兵器の欠片が散乱している。かつて鮮やかな色彩に彩られた民家は崩れ落ちた壁と柱だけを残し、壁面は銃弾の穴と焼け跡に覆われている。
レオスリーは町役場の残った半分の時計台最上段に立ち、血で汚れた包帯で左腕をきつく縛る。三日間、三万の毛利軍と七万の九鬼軍が波のようにペトリコ町の防衛線を襲い続け、六万のフォンテーヌ守備兵——うち四万人は臨時で武装した民間人——は血肉をもって次々と脆い塁壁を築き上げてきた。
港を失い、艦隊を失い、外界とのあらゆる連絡も絶たれた。ペトリコ町は今や十万人に包囲された孤島となり、守備隊の弾薬、薬、食料はすべて底をつきかけていた。
「監獄長!」若い伝令兵が息を切らして時計台を駆け上がる。「東…東側の防衛線が突破されました!九鬼軍の重装甲の武士が職人地区になだれ込んできました!」
レオスリーの表情には一切の変化がない。この三日、防衛線が崩れ、奪還され、また崩れるのは日常茶飯事だ。毎回人命をつぎ込み、家屋を塞ぎ、最後の意志で支え続けてきた。
「マルタ守備官はどこだ?」
「西側で反撃を指揮しています。西側はまだ持ちこたえられますが、援軍が必要だと伝言を預かっています…」
「援軍はもうない」レオスリーが言葉を遮る。「彼女に伝え、防衛線を中央広場まで収縮させろ。外周を放棄し、市街戦に移行せよ」
伝令兵の顔が青ざめる。「ですが職人地区には民間人が残っています…」
「承知している」レオスリーの声は穏やかなままだが、手すりを掴む手の甲に青筋が浮き上がる。「部隊を分けて救助に向かえば、防衛線全体が崩壊する。マルタに伝令、これが命令だ」
伝令兵は唇を噛み締め、最後に敬礼をすると時計台を駆け下りていった。
レオスリーは一人高台に残り、東方を眺める。職人地区は火の海に飲まれ、濃煙の中を進む九鬼軍の旗が見え、断続的な銃声と迫り来る鬨の声が聞こえる。あの地区の道一つ一つ、家一軒一軒でフォンテーヌの人々は最期まで戦った。老人は猟銃を手に、婦人は包丁を握り、子供は弾薬を運び…誰一人降伏する者はいなかった。
だがそれでは足りない。
兵力差はあまりに絶望的だ。敵は十万人の訓練され装備の整った正規軍、対する彼らは疲弊し弾薬の欠乏した六万人の守備兵、半数は銃を握ったことすらない素人だ。
「監獄長!」下からまた声が響く。町の老医師ジベルだ。白衣が暗赤色の血に染まっている。「中央病院が陥落しました…負傷者たちが…」
レオスリーは目を閉じ、深く息を吸う。「わかった。自力で移動できる負傷者を地下倉庫へ運べ、残りは…できる限りの手を尽くせ」
ジベルは立ち去らず、震える声で問う。「我々は…負けるのでしょうか」
レオスリーが目を開け、燃え盛る町を映した氷青の瞳で答える。「我々は最後の一人まで戦う。勝敗など、もう意味はない」
老医師はしばし黙った後、曲がった背筋を伸ばす。「承知いたしました。倉庫で最期まで戦います」
彼は背を向けて去り、硝煙の中に寂しい後ろ姿が消える。
レオスリーは時計台を下り、荒廃した通りを進む。道すがら、兵士たちが家具や瓦礫で塁壁を築き、民衆が残りわずかな食糧を負傷者に分け与え、小さな子供が無言で火縄銃に弾薬を込める姿を目にする。小さな手は装填棒を握ることすらままならない。
十歳ほどの少年が駆け寄ってくる。顔はすすで真っ黒だが瞳は輝いている。「監獄長さん!母さんと三人の悪者を倒しました!父さんの遺した猟銃で!」
レオスリーはしゃがみ、優しく少年の肩を叩く。「勇気があるな。お父さんもきっと誇りに思っているだろう」
「父さんは海軍にいます…母さんによると空から私たちを見守っているそうです」少年は声をひそめる。「監獄長さん、勝てますか?頑張れば璃月の英雄たちが助けに来てくれると母さんは言っています」
レオスリーは喉につかえるものを覚える。璃月の援軍…神里綾人が出発して七日、一切の知らせが届いていない。伝令が包囲を突破できないのか、それとも璃月自身が窮地に立たされているのか。
「勝てる」柔らかな声で告げる。「どんな結果になろうとも、君の父さん、そしてフォンテーヌのすべての英雄は我々を誇りに思うだろう」
少年は力強く頷き、片腕を失った母のもとへ走り戻る。婦人は残った片手で手馴れた手つきで銃に弾を込め、その姿は見る者の胸を締め付ける。
レオスリーはさらに進み、ペトリコ最後の防衛拠点である中央広場へ到着する。広場周辺で生き残った守備兵が陣地を構築し、残った稼働可能な大砲を配置し、わずかな弾薬を要所に集積している。
マルタ守備官が指揮にあたっており、昨日の榴散弾で負傷した左目に包帯が巻かれている。レオスリーを見ると軽く頷き、配備作業を続ける。
「戦闘可能な兵はあとどれほどか?」レオスリーが尋ねる。
「三万人に満たない。一人当たりの弾薬は平均十発にも届かない」マルタの声はすり切れたふいごのようにしゃがれている。「薬はほぼ底をつき、食糧は節約すればあと二日分だ」
「敵の動きは?」
「毛利軍は再編成を進め、九鬼軍は職人地区占拠後一時攻撃を休止している。だが見込むに…」マルタは町外れの果てしなく広がる敵陣を眺める。「次の攻撃が総攻撃となるだろう」
レオスリーは広場を見渡す。三万人は疲労と負傷、絶望に苛まれながらも立ち続けている。正規兵、民兵、老人、婦人、幼い子供まで。全員の顔に疲れが刻まれるが、瞳には消えない闘志の火が宿る。
「マルタ」唐突に彼が言う。「もし俺が降伏を命じたら、兵たちは従うだろうか」
マルタは勢いよく振り向き、残った右目に驚きがあふれる。「降伏?狂ったのか?ここまで血を流し多くの者が命を落とした今、降伏などできるはずがない!」
「多くの犠牲が出たからこそだ」レオスリーは冷静に語る。「このまま戦えば、残った者も全滅する。敵は報復として町を皆殺しにし、ペトリコは地図から消え去る」
「だからといって、ひざまずいて死ぬより立って散る方が劣るとでも?」
「降伏で生き残りと町を守れるのなら…」レオスリーは言葉を飲む。マルタの瞳に燃え上がる怒りを見たからだ。
「レオスリー、我々がなぜ戦うかわかっているの?」マルタは一字一句重ねる。「勝利のためじゃない——最初から勝てないとわかっていた。侵略者にフォンテーヌ人は屈しないと示すため、絶望の淵に立たされても背筋を伸ばした先人の姿を後世に残すために戦うのだ!」
彼女は広場の人々を指す。「見ろ!パン屋のピエールは初日の砲撃で妻子を失ったのに今も剣を取る。教師のアンナは生徒の半数を失ったのに子供たちに弾薬の装填を教え続ける。老医師ジベルはすべての負傷者を救えなくとも、息が続く限り治療をやめないと誓っている!」
マルタの声は高まり、周囲の者は作業を止め黙って耳を傾ける。
「我々はフォンテーヌの民だから戦う!この大地に育てられ、国に守られた我々は、国が必要とする時命をもって報いる!」血と埃にまみれた頬を涙が伝う。「降伏などありえない、レオスリー。最後の一人が残ろうとも、フォンテーヌの旗は倒れない!」
広場を沈黙が包む。その時、片腕を失った婦人の一声が響く。
「フォンテーヌ、断じて屈せず!」
続いて次々と声が重なる。
「屈しない!」
「最期まで戦え!」
「フォンテーヌのために!」
細やかな叫びはやがて大波となり、燃える町の上空に響き渡る。三万人が残る力を振り絞り、フォンテーヌ最後の尊厳を叫ぶ。
レオスリーは光景を眺め、氷青の瞳に初めて感情が揺らぐ。腰に差した儀礼用の剣をゆっくり抜く。切れ味の鈍い儀剣だが、今は全軍の指揮権を意味する。
「ならば最後の決戦を挑む」小さな声が広場を静める。
彼は広場中央の損壊した噴水台座に立ち、全守備兵に向き直る。
「フォンテーヌの同胞よ!敵は武力で我々をひざまずかせ、死で恐怖させられると思い込んでいる。だが彼らは大いに誤っている!」
剣を掲げ、火の光を受けて刀身が冷たく煌めく。
「我々がここに立つのは生き残るためではない——それは叶わぬ望みだ。自由の価値は生命を超え、尊厳の重みは死を凌ぐことを証明するために立つのだ!」
「一軒一軒の家は砦となり、一本一本の道は墓場となる。一人一人のフォンテーヌ人は戦士となる!敵に多大な血代を払わしめ、フォンテーヌの一寸の土地を征服するには命が必要だと刻みつけよ!」
「たとえ今日ペトリコが陥落し、全員が戦死しようとも、フォンテーヌの精神は滅びない。我々の抵抗は火種となり、テイワット全土の反撃に火をつける!」
「今、各自陣地につけ!残るすべての力で、フォンテーヌ史上最も壮絶で、悲惨かつ栄光の一頁を刻め!」
「フォンテーヌのために!」
「フォンテーヌのために!!!」三万人の一斉の声が天地を揺るがす。
その瞬間、町外れから角笛が鳴り響く。弔鐘のように重く長い音色。敵の総攻撃が始まった。
毛利軍と九鬼軍は三方から鉄の奔流のごとく進撃し、最後の防衛線へ迫る。まず大砲が砲弾を雨のように降らせ、一発の爆発ごとに数人の命が散る。続いて歩兵が突撃し、剣戟の森と銃声の雷鳴が広がる。
開戦と同時に戦闘は白熱の極みに達する。
フォンテーヌ守備兵は塁壁、家屋、瓦礫の塊を拠点に抵抗する。一斉銃撃で前衛の敵をなぎ倒し、大砲の轟音で敵陣に突破口を開き、敵が迫れば刀やスコップ、石や木片さえ武器に白兵戦を繰り広げる。
レオスリーは中央防衛線を自ら指揮する。儀剣を捨て、敵兵の死体から拾った戦刀を手に銃弾の飛び交う中を駆け巡り、危機に瀕した箇所へ急行する。三日間の疲労は吹き飛び、一振りごとに敵を斃す正確かつ致命的な太刀さばきを見せる。
だが敵の数はあまりに多い。一人倒しても十人が押し寄せ、一波撃退しても新たな兵が続々と来襲する。防衛線は徐々に縮まり、守備兵の数は減り続ける。
昼時、西側防衛線が崩壊する。マルタ守備官は最後の親衛隊を率いて反撃に出て一時陣地を奪還するも、九鬼嘉隆自ら主力を率い重鎧の武士が壁のように進撃してくる。マルタは敵を三人斃した後、槍に胸を貫かれる。崩れ落ちる瞬間もフォンテーヌの旗を握り締めたままだ。
「マルタ!」レオスリーは目を血走らせるが、東側も危機に迫り救助に向かうことは叶わない。
午後二時、広場外周はすべて陥落。守備兵は百メートルに満たない広場中心部に追い詰められ、残る兵は一万人を下回る。弾薬はほぼ枯渇し、多くの者は白兵武器のみで戦う。
毛利元就は安全な距離から最後の殺戮を眺め、老将の顔に歓びはなく深いため息だけが浮かぶ。
「殿、降伏勧告を差し上げましょうか?」副将が問う。
毛利元就は首を振る。「彼らの瞳を見ろ。死を覚悟した者の目だ。勧告は彼らの誇りを傷つけるだけだ」
「だがこのまま戦えば我方の損害は…」
「これは彼らが選んだ最期だ」毛利元就は言う。「彼らの勇気を尊重し、全力で打ち破れ。全軍突撃、戦を終結させよ」
最後の総攻撃が始まる。四方から押し寄せた敵兵が広場中心を包囲する。フォンテーヌの生き残りは背中合わせの輪を作り、残る力を振り絞って抵抗する。
レオスリーは輪の最前線に立ち、刀には刃こぼれができ、体に新たな傷が増える。傍らの兵は一人また一人と倒れ、輪は縮小し続ける。
パン屋の息子トマス——レオスリーが名を知る若い兵士——は槍で腹部を貫かれる。絶命の直前、最後の手榴弾を敵陣へ投げ、四五人を吹き飛ばす。
老医師ジベルはメスで敵兵の喉を突くも、複数の刀に同時に刺されて命を落とす。手には血のついた医療鞄を握ったままだ。
片腕を失った婦人は歯で手榴弾の安全ピンを抜き、敵の中へ身を投げ出す。爆発は彼女と周囲の敵を道連れにする。
輪は数十人まで狭まる。レオスリーは周囲を見渡す。三日間共に血を流し、尊厳を守り抜いた馴染みの顔ばかりだ。
「監獄長…」細い声が響く。腹部に銃弾を受けた十五六歳の少女、町の生徒だ。空の拳銃を手に握っている。
「ここにいる」レオスリーは片膝をつく。
「我々…勝てましたか?」少女の視線が霞む。
レオスリーは彼女の手を包み込み柔らかく告げる。「勝った。フォンテーヌの旗は永遠に倒れない」
少女は微笑み、やがて瞳を閉じる。
レオスリーが立ち上がると、傍らに残るのは十人に満たない。鉄壁の如き敵兵が全周を囲んでいる。
九鬼嘉隆が陣前に出、斧を肩に担ぐ。「降伏せよ、監獄長。勇気は示した、全滅する必要はない」
レオスリーは返答せず、ゆっくり刀の切っ先を空へ掲げる。その仕草こそが答えだ。
九鬼嘉隆は嘆息し、号令を下す。「討て」
最後の闘いは束の間で終わる。傍らの戦士は次々と斃れ、ついにレオスリー一人だけが残る。全身傷だらけで血を流しながらも、彼は立ち続ける。
三人の重装武士が一斉に襲いかかる。一刀目を払い、二刀目を躱すも、三刀目が左胸に突き刺さる。
時が止まったかのように。胸の刀を見下ろし、周囲の敵、燃える町、空へと視線を上げる。
フォンテーヌよ…ついに…
彼は崩れ落ちず、残る全生命力を込め刀を目の前の敵の喉に突き立てる。背筋を伸ばし、空へ向けて絶叫する。
「フォンテーヌ——永遠なれ!」
叫びは硝煙に響き渡り、やがて途絶える。レオスリー・ド・フォンテーヌ、メロピデ砦監獄長にしてペトリコ最後の総指揮官は、立ったまま息を引き取った。
戦場に一瞬の静寂が訪れる。攻撃側も残った抵抗兵も、その屹立した遺骸を見つめ、すべての戦闘が止む。
しばらくして、生き残ったフォンテーヌ兵の一人がゆっくり武器を置き、続いて二人、三人…数千人の生き残りの負傷兵たちが次々と武装を解く。
総指揮官の戦死をもって最期の戦いは終わった。
九鬼嘉隆はレオスリーの遺体の前に佇み長く黙祷した後、深く一礼する。
「彼と戦死者全員を厚く葬れ」副将に命じる。「彼らは真の戦士だ」
「捕虜はどう扱いましょう?」
「戦時国際法に従え」毛利元就が駆け寄り、遺体に敬意を込めて眺める。「浅井殿に報告せよ。フォンテーヌ最後の拠点は陥落した、だが我々が打ち負かしたのは屈することを知らぬ民族だ」
夕暮れ時、生き残ったフォンテーヌの民は廃墟と化した中央広場に集う。レオスリーとマルタを含む死者を埋葬し、壊れた噴水台座に簡素な記念碑を建てる。
儀式も演説もなく、ただ沈黙の涙だけが流れる。最後のフォンテーヌ国旗がゆっくり下ろされる時、一人の老婦人が国歌を細やかに歌いだす。やがて次々と歌声が重なり、傷ついた全ての生存者が口ずさむ。
歌声は廃墟の上空を漂い、消えゆく残り火のように細くも揺るぎない。かつて激しく燃えた光を宿して。
フォンテーヌは陥落したが、その魂は歌声の如く生存者の心とテイワットの歴史に永久に生き続ける。
遠く璃月の鍾離はその瞬間、胸に突き刺さる違和感を覚える。西のフォンテーヌの方角を眺め長く沈黙し、やがてつぶやく。
「また一国が最後の火を燃やし尽くした。だがテイワットの闘いは、まだ終わらない」
戦火は続き、フォンテーヌの犠牲は抗うすべての者の心に消えぬ火となる。いつの日か自由の曙光が再びこの大地を照らすその時まで。




