離渡谷伏撃戦
離渡谷伏撃
離渡谷は沈玉谷南東部に位置し、オルモス港と沈玉谷奥地を結ぶ必経路である。峡谷両側は切り立った崖となっており、曲がりくねった細い河川が貫き、川辺には通行可能な岩浜が点在している。乾季のため水位は膝程度まで下がり、滑らかな河床の岩肌が広く露出していた。
ディシアは東側の崖の影に身を伏せ、灼砂の金剣を膝の上に横たえ、鋭い視線で谷底を見渡していた。傍らにはセノとティナリ、そしてスメール最精鋭の砂漠傭兵五百名と、訓練を積んだ森林巡視官三十名が控えている。
「情報は確かか?」
ティナリは声を潜めて問いかけ、長い耳を微かに動かし、峡谷内のわずかな音まで捉えていた。
「サミールから届いた最後の報せによると、朝倉義景自ら五千の精鋭を率い、この道を急行し、遺瓏埠の側面を狙っている」ディシアが答える。「浅井長政は鍾離様と夕暮れ時に決闘する約束を結んだが、朝倉義景はこの約束を守る気配はない」
セノは手に持つ赤砂の杖を調整し、杖身に雷気が微かに煌めいた。「鍾離様はこの事態を予見された。そのため我々をここに伏兵として配置し、敵が浅井長政と合流するのを阻止するのだ」
「しかし敵は五千人、我々は五百三十人しかいません」若い巡視官が不安そうに口にする。
ディシアの唇に危うい笑みが浮かぶ。「兵力差は十対一?砂漠ではこれより厳しい状況に幾度も直面してきた。それに、こちらは地形の優位に立っている」
彼女は峡谷の要所を指し示す。「あの河川の屈曲部は水流が激しく、敵の進行速度が落ちる。崖には崩れやすい巨岩があり、わずかな力で落石を引き起こせる。そしてここは川幅が最も狭く、前後を封鎖すれば敵は袋のネズミとなる」
セノが補足する。「さらにティナリがラナラたちに命じ、上流に仮設ダムを築かせた。敵が峡谷内に完全に侵入した瞬間にダムを決壊させ、洪水で敵陣を崩せばよい」
ティナリが頷く。「それに『眠り胞子』を西側の岩浜に散布してもらった。作動させれば麻痺性の気体が広がる」
三人は伏撃計画の細部を念入りに確認した。五百三十名の戦士は六つの部隊に分けられた。両崖に二組の弓兵を潜ませ、一斉射撃で第一波攻撃を行う。河川屈曲部の巨岩裏に二組の近接兵を配置し、敵が混乱した隙に突撃させる。臨機応変に落石を誘発する爆破部隊、そしてディシア、セノ、ティナリ直轄の精鋭部隊は敵将討伐を任務とする。
時が過ぎ、烈日が空高く昇る。峡谷には流水音と鳥のさえずりだけが響き、静寂が支配していた。
突然、ティナリの耳が勢いよく立ち上がる。「来た」
全員が息を潜める。やがて谷の入り口から足音、鎧の擦れ音、馬の鳴き声が微かに届き、軍勢が峡谷へと進軍してきた。
ディシアが片手を挙げ、準備を命じる。
朝倉軍の先鋒部隊が姿を現す。約五百名の軽装歩兵が槍と円盾を手に、慎重に道の状況を探っている。その装束はテイワットの兵士とは大きく異なり、鎧は薄く、武器は長身で、整然とした隊列を保って進む。
「鍛錬された部隊だ」セノが低声で評する。「だが主力ではない」
案の定、偵察を終えた先鋒は後方に安全信号を送り、主力部隊が峡谷へと進入し始めた。黒馬に騎乗した武将が最前線を進み、華やかな黒金の鎧を身にまとい、兜には金色のトビウオが飾られている。朝倉義景その人である。
三人の副将が傍らに従う。左には巨斧を持つ屈強な男、右には細身で双刀を帯びた武者、後方には白馬に乗り槍を構える若き将軍。
「河合吉統、山崎吉家、朝倉景恒だ」ディシアは情報をもとに見極める。「義景が最も信頼する三人の腹心将である」
五千の軍勢は長蛇のようにゆっくり峡谷へと進み、川幅の狭さから隊列は引き伸ばされ、前後一里に及んだ。敵を分断して殲滅しやすくなり、ディシアたちの思惑通りの状況となった。
朝倉軍先鋒が川幅最狭部に到達し、後衛部隊も完全に峡谷内に入り込んだ瞬間、ディシアが勢いよく手を振り下ろす。「攻撃開始!」
上流から重たい轟音が響き、激しい水の奔流音が続く。仮設ダムが決壊し、溜められた水が暴走して下流へ押し寄せた。軍の中央部が直撃を受け、瞬く間に隊列は水に崩され、数十名の兵士が流され、多くの者が水中に転落し、陣形は完全に乱れた。
「伏兵だ!」
朝倉義景が大声で叫ぶも、怒涛の水音と飛来する矢の風切り音にかき消される。
両崖からスメールの弓兵が一斉に矢を放つ。矢先にはティナリ特製の麻痺薬が塗られ、即死はしないものの、命中した者は瞬時に行動不能に陥る。第一射だけで百名を超える朝倉兵が倒れた。
「慌てるな!盾を構え、崖際に集まれ!」河合吉統が巨斧を振り回し、防御態勢を整えようと号令をかける。
だが第二波の攻撃が襲来する。事前に仕掛けた火薬が炸裂し、両側の崖岩が崩落し、巨岩が落下して多数の兵士を押し潰すと同時に、前後の退路を完全に封鎖した。
「罠だ!伏撃だ!」山崎吉家が双刀を抜き、鋭い眼差しで周囲を警戒する。
朝倉景恒は馬を走らせ義景の元に駆け寄る。「殿、包囲されました!突破しなければなりません」
朝倉義景は顔を青く曇らせながらも冷静さを保つ。「混乱するな。敵の数は多くなく、地形を利用しているだけだ。河合、落石を取り除き前方道を確保せよ。山崎、後方を守備せよ。景恒、共に伏兵の指揮官を討て」
的確な判断と果断な命令だが、ディシアは敵に立て直しの隙を与えない。
「今だ!」
ディシアは隠れ場所から飛び出し、炎を纏う灼砂の金剣で朝倉義景に斬りかかる。
同時にセノは雷光の如く河合吉統に突進し、赤砂の杖を敵の喉元に突きつける。ティナリは西側岩浜に姿を現し、三連の矢を放ち山崎吉家の退路を断つ。
精鋭部隊の兵士たちも四方から殺到し、敵の中級将校を狙う。統率を失った朝倉軍は混乱を極め、個々の戦闘能力は高いものの、伏撃と指揮崩壊の二重の打撃により、バラバラに戦う状況に陥った。
ディシアと朝倉義景の戦いは白熱した。四十歳を超える義景だが、剣術は円熟し経験豊かである。愛刀『トビ切り』の一撃一撃は精密かつ致命的で、ディシアの大剣と激しくぶつかり、鮮やかな火花を散らす。
「貴様が浅井様に敗れた女武者か?」攻防の隙に義景が冷ややかに嗤う。「強者に敗北し、弱者に八つ当たりして面目を繕おうというのか?」
ディシアは言葉を返さず、攻撃の勢いを強める。剣身に炎が立ち昇り、一太刀ごとに砂漠の烈日のような熱気を帯びる。しかし義景の刀法は精密な機械のように、最小限の動きで攻撃を躱し続ける。
「貴様の剣はあまりに単純だ。考えがすべて動作に表れている。浅井様の剣は次の一手が読めぬが、貴様の技は予測容易きわまる」
言いながら体勢を変え、不自然な角度からディシア左肩の古傷に刀を突き刺す。ディシアは辛うじて躱すも、刃先が鎧を切り裂き、鮮血が滲み出た。
「古傷を抱えたまま戦場に出るとは無謀だ」義景が首を振る。「貴様の苦しみを終わらせてやろう」
全力の一撃が風を切り襲い来る。ディシアは剣で受け止めるが、力の差に押され三歩後退し、足元が崩れ転びかける。
その瞬間、雷光が空から降り注いだ。
河合吉統を討ち取ったセノが駆けつけ、赤砂の杖で義景の必殺の一撃を阻む。雷元素と刀気が激突し、目もくらむ閃光が生まれる。
「二対一か?これがスメールの戦士の矜持か?」朝倉義景が冷めた笑みを浮かべる。
「これは試合ではない、戦争だ」セノは淡く答え、杖の雷光がさらに増す。
ディシアは体勢を立て直し、セノと肩を並べる。「共に戦おう」
二人の強敵を前に、義景の表情も引き締まる。それでも怯むことなく刀を胸元に構える。「かかれ。スメール最強の戦士の実力を見せてみよ」
一方、ティナリと山崎吉家の決着もついた。山崎の双刀は幽霊のように速いが、ティナリは地形と遠距離攻撃を活用し距離を保ち続ける。山崎が矢の雨を突破し間近に迫った時、足元の眠り胞子を踏んでしまう。
麻痺気体が一気に広がり、山崎の動きが止まる。この一瞬の隙を突き、ティナリの矢が彼の喉を貫き通した。
「山崎!」
朝倉景恒は仲間の最期を目にし怒号を上げ、槍を龍の如く繰り出しティナリに襲いかかる。
ティナリは備えており、身をかわすと同時に次の矢を番える。矢は景恒の膝を貫き地に跪かせ、三番目の矢は確実に心臓を射抜いた。
二人の副将が相次いで討ち取られ、朝倉義景の瞳に動揺が宿る。この一瞬の隙をディシアとセノが捉える。
「灼熱斬!」
「滅寂雷光!」
炎と雷が同時に義景に襲いかかる。鎧は二重の攻撃で砕け散り、体は数丈弾き飛ばされ岩壁に激しく叩きつけられた。
血が口から溢れ出すも、義景は刀を支え立ち上がる。「咳…見事だ…想像以上の実力だ」
ディシアとセノがゆっくり近づき、止めの一撃を加えようとする。その時義景は懐から黒い玉を取り出し、地面に強く叩きつけた。
濃い黒煙が一瞬に周囲を覆い、刺激臭で目を開けることもままならなくなる。
「逃亡しようとしている!」セノが杖で煙を払うが、義景の姿は混乱した戦場から消え失せていた。
ディシアが周囲を見渡すと、残存する朝倉軍は下級将校の指揮で、東側の緩やかな坂地から突破を試みていた。伏撃で多大な犠牲が出たものの、軍勢は数が多く訓練も行き届いており、多大な損害を払った末に脱出の道をこじ開けた。
千人余りが逃走した」軽傷を負ったティナリが報告に来る。「三千名余りの敵を撃破し、三人の主力将を討ち取った。だが我方も二百名近くの犠牲が出た」
ディシアは敵の逃走方向を睨む。「追跡せよ。浅井長政と合流させてはならない」
「待て」セノが彼女を止める。「鍾離様の命令は敵を沈玉谷奥地に侵入させないことであり、全滅させることではない。任務は完了した。今は遺瓏埠に戻り、浅井長政に備えねばならない」
ディシアは不服そうに歯を食いしばるが、セノの言葉が正しいと悟る。当初の計画は地形を活かし敵に大打撃を与えた後撤退するもので、残党と泥沼の戦いを続けるものではなかった。
「戦場を整理し、負傷者を連れて遺瓏埠へ撤退せよ」最終的に彼女は命令を下す。
その頃、朝倉義景は千人に満たない残兵を率い、沈玉谷の森を惨めに逃げ惑っていた。ディシアとセノの連撃で重症を負い、意志力だけで意識を保っている状態だ。
「殿、傷の手当てをしてください」側近の兵士が心配そうに訴える。
義景は首を振る。「時間がない…夕暮れまでに浅井様と合流せねば。さもなければ全ての計画が水泡に帰す…」
言葉を途切らせ、突然足を止め部隊に停止を指示する。
森の空き地に一人の少年が立っていた。
金髪に金色の瞳を持ち、異郷風の白い旅人装束を身にまとい、鞘に収めた無刃の長剣を腰に帯びている。表情は穏やかだが、瞳には年齢に似合わぬ深い思慮が宿っている。
「貴様は何者か?」義景は警戒し刀の柄を強く握る。
「旅人、空だ。貴らを阻む者でもある」少年が答える。
朝倉義景は冷めた笑いを浮かべる。「たった一人で千人の軍勢を食い止められると思うのか?」
空は返答せず、ゆっくりと剣を抜き放つ。刃は鋭さを持たないにもかかわらず、脅威的な気勢を放っていた。
「不遜な!討ち取れ!」義景が号令を下す。
数十名の兵士が空に襲いかかる。少年が軽く剣を振ると金色の剣気が広がり、先頭の兵士は見えない壁に弾かれ、一斉に吹き飛んだ。
義景の瞳が収縮する。「この力…貴様は一体何者だ?」
「言った通り、旅人だ。璃月の友であり、スメールの同盟者でもある」
強敵と認識した義景だが、退路は断たれている。後方にはディシアの追っ手、前方には謎の少年。生き残る道はこの相手を打ち負かすしかない。
「ならば、その旅人の腕前を見せてもらおう!」
傷の痛みを堪え、義景は全力で空に斬り込む。生死の境で刀法は最高潮に達し、一撃一撃に必殺の覚悟が込められている。
空は余裕の表情で対応し、質素に見える剣捌きで最小限の動きで攻撃を躱し続ける。森の中で激しい攻防が繰り広げられ、刀剣の光が舞い落ち葉が舞い散る。
十数回合を経て、義景は戦慄を覚える。相手の防御を崩すことができず、反撃は常に自分の技の隙を突いてくる。そしてこの少年はまだ全力を出していない様子だ。
「貴様…本当に何者だ?」激しい運動で傷口が裂け、血が体半分を染め上げ、義景は荒い息を吐きながら問う。
空は攻撃を止め、静かに見つめる。「私は見届け人であり、守護者だ。カーンリアの滅亡、稲妻の永遠、スメールの英知を見届けてきた。そして今、貴らが璃月の平和を乱すことは許さない」
義景は自嘲的に笑う。「平和…テイワットの者はいつも平和を口にする。だが知っているか?故郷は滅びつつある。資源枯渇と土地砂漠化で、日々多くの民が苦しみ死んでいく。我々が求めるのは平和ではなく、生きる権利だ」
空の瞳に同情が過るが、手の剣は揺るがない。「苦しみは理解できる。だが侵略を正当化する理由にはならない。どの世界にも苦難は存在するが、自身の痛みを他人に押しつけてはならない」
「綺麗事を並べるな!」義景が怒鳴る。「身内や同胞が死に絶えようとしても、同じことを言えるのか?」
空はしばし沈黙し、柔らかな声で語る。「私はそれ以上の悲劇を経験した。唯一の肉親を失い、故郷への道を閉ざされ、記憶さえも失った。それでも破壊ではなく守護を選んだ」
義景は言葉を失う。少年の瞳に、幾多の時空を渡った深い悲しみと孤独が宿っているのを感じ取った。
「ただ…故郷を救いたかっただけだ」義景の声が沈み、刀を握る手が震え始める。
「間違った手段では、正しい結末は得られない」空が告げる。「武器を捨てよ。戦争は終わった」
義景は空を見つめ、背後に残された兵士たちを眺める。異界を越え共に戦った部下たちは千人にも満たず、全員傷を負っていた。
敗北は決定的だ。ディシアの伏撃に敗れ、突然現れた少年にも及ばなかった。
しかし武士の誇りが、降伏を拒ませる。
「浅井様…後は貴方に託す」
独り言をつぶやき、深く息を吸い込んだ義景は刀を掲げ空に襲いかかる。
命と意志をすべて込めた最後の一撃。流星のような刀光が空を切り、不退の覚悟を纏う。
空は身を躱さず、剣を構えて受け止める。
刀剣が激突した瞬間、時が止まったかのようになる。義景は少年の瞳に、星々のように広大な力を秘めた金色の光を見た。
次の瞬間、胸に冷たい感触が広がった。
いつの間にか空の剣が心臓を貫き通していた。
義景はゆっくりと地に倒れ、視界が霞んでいく。最期の刹那、故郷の桜、待ちわびる妻子の姿が脳裏に浮かんだ。
「申し訳ない…やはり…皆を救うことはできなかった」
その瞳は永遠に閉じられた。
空は剣を抜き取り、遺体を眺めて嘆息する。残された兵士たちに向き直り告げる。「武器を捨て投降せよ。戦いは終結した」
指揮官を失い、空の圧倒的な力を目の当たりにした残兵は抵抗を諦め、次々と武器を手放した。
間もなくディシア、セノ、ティナリが援軍を率いて到着し、眼前の光景に驚きを隠せない。
「旅人?なぜここにいるの?」ディシアが驚いて問う。
空は剣を収める。「璃月に異変が起きたと聞き駆けつけた。逃走する敵軍と偶然遭遇した」
セノは義景の遺体を確認し、絶命したことを認める。「一人で…全員を制圧したのか?」
「大半は投降した。朝倉義景は最後まで戦い抜いた」空は淡く述べる。
ティナリは八百名余りの捕虜を眺め問いかける。「この者たちをどう扱う?」
「遺瓏埠に連行し、璃月の役所に引き渡そう」セノが判断を下す。「敵と浅井長政の合流を阻止する任務は達成された」
西の空に日が傾き始める。「夕暮れが迫ってきた。鍾離様と浅井長政の決闘が始まろうとしている」
空が頷く。「私も天衡古戦場へ向かわねばならない。この決闘の行方が、多くの運命を左右する」
一同は速やかに戦場を整理し、捕虜と負傷者を伴い遺瓏埠へ帰還する。空は一人、天衡古戦場へと足早に進んでいく。
離渡谷の戦いは終結し、朝倉義景の五千精鋭は完全に壊滅し、三名の主力将は全員戦死した。だが真の勝負は、夕暮れに迫る決闘にかかっている。
神と人、守護と救済、過去と未来。すべてが天衡古戦場で激しくぶつかり、最終の答えを出すことだろう。
旅人・空の突然の介入は、複雑な情勢に新たな変数をもたらした。彼の出現は偶然か、それとも必然か。この紛争で彼はどのような役割を担うのか。
夕日が沈み、沈玉谷の山々を黄金色に染め上げる。夕暮れが、今まさに訪れようとしている。




