霊矩関奪還戦
玉閣の威、影遁りて形無し
夜明け前の闇は最も深く、霊矩関の内には血の臭いと絶望が充満していた。
刻晴は崩れ落ちた城壁に背を預け、腕の傷は簡単に包帯で巻かれていたが、毒による痺れは一向に収まらない。甘雨はその傍らに控え、麒麟の角が柔らかな微光を放ち、最も重症の千岩軍兵士たちを癒やし続けていた。
「損害の集計は済んだか?」刻晴の声は嗄れていた。
腕に包帯を巻いた千岩軍の隊長が困難ながら礼を述べる。「刻晴様、戦死六百七十三名、重傷二百一十四名、軽傷は……ほぼ全員に及びます。弩砲は全て破壊され、仕掛けの罠は八成が無効化。穀倉は火災に見舞われ、すぐに鎮火したものの、食糧備蓄の三成を損失しました。」
甘雨は瞳を閉じ、長いまつ毛を微かに震わせた。「璃月を守り続けて以来、これほど多大な損害を受けたことはない……その上、敵はほぼ全員無事に撤退してしまった。」
刻晴は拳を握り締め、爪を掌に食い込ませる。「彼らの戦法は、我々が知るいかなる敵とも全く異なる。魔神でも魔物でもなく、宝盗団や愚人衆のような組織的武装勢力でもない……彼らは専門の暗殺者であり、戦争のために生まれた影だ。」
「援軍が必要です。」甘雨は瞳を開き、決意を宿らせる。「今の戦力のままでは、敵が再び襲来した時……」
言葉が途切れる瞬間、遠方から鋭い風切り音が響いてきた。
生き残った千岩軍の兵士たちは本能的に武器を構えるが、刻晴は手を挙げて制止した。「待て……あれは……」
夜空に、雄大な空中楼閣が雲を割り進んでくる。瑠璃瓦が月光を受けて穏やかな光を放ち、軒先の風鈴が澄んだ音を奏で、血塗られた戦場にあって不釣り合いながらも、心を落ち着かせる存在となっていた。
「玉閣……」甘雨がつぶやき、信じがたい安堵の色を浮かべる。
刻晴の張り詰めた心もようやく緩む。「凝光が来た。」
百里離れた山間のくぼ地で、風魔小太郎は配下の報告を聞いていた。
「頭領、我方は戦死四十六名、重傷十二名、軽傷三十余名。重症者は全員……」報告する忍者は一瞬ためらい、「全員始末いたしました。生け捕りを残さず、行軍の妨げにもなりません。」
風魔は無表情にうなずく。それが風魔一族の掟であり、任務は仲間の命さえも超えるのだ。
「璃月軍の損害は?」
「少なくとも七百人が戦闘不能に陥り、防御体制は完全に崩壊。武田様の計画通り、三日後に大軍は無事霊矩関を通過できます。」
風魔は白み始めた東の空を眺める。「あの二人の女……まだ生きているな。」
「はい、二人の実力は予想をはるかに超えます。特に紫髪の女は、刀に『影蝮の毒』を塗っていなければ、私も無事には戻れなかったでしょう。」
「『影蝮の毒』は一時的に彼女の力を封じるだけだ。」風魔の声は変わらず淡々としている。「次は彼女も警戒する。それに、あの弓使いの遠距離支援能力は脅威だ。専用の対策を練らねばならない。」
偵察任務の忍者が忽然と姿を現す。「頭領、西の空に不明な物体が出現、霊矩関方面へ移動中です。」
風魔の眼光が鋭くなる。「詳しく述べよ。」
「それは……空を飛ぶ楼閣です。極めて巨大で華麗な装飾が施され、速度は緩やかだが安定しています。」
空飛ぶ楼閣?風魔は微かに眉をひそめた。この世界の技術は自らの認識を超えている。だが一流の忍者として、未知は常に危険をはらむことを知っていた。
「全員隠れ、一級警戒態勢。偵察班は接近して観察せよ、ただ安全距離を保て。」
「承知!」
玉閣はゆっくりと霊矩関外の平地に降下し、砂塵を巻き上げた。凝光は白い衣装をまとい楼閣から歩み出し、背後には百識・百聞・百暁の三人の秘書と、千岩軍精鋭たちが従っている。
彼女は周囲を見渡し、いつも微笑みをたたえる鳳凰の瞳に、今は冷徹な鋭さだけが宿っていた。
「刻晴、甘雨。」凝光は二人に近づく。「状況は大まかに把握した。詳細を報告せよ。」
刻晴は戦闘の経緯を簡潔に述べ、敵の奇妙な戦法と驚異的な行動効率を強調した。甘雨は敵の戦術的特徴と、考えられる弱点を補足する。
凝光は黙って聞き終え、刻晴の腕の傷に視線を落とす。「毒か?」
「元素力で抑え込んではいるが、完全に払拭することはできない。」刻晴は歯を食いしばる。「相手の武器も戦法も、神の眼の所持者を狙って設計されている。」
凝光はうなずき、百暁に向き直る。「分析の結果は?」
百暁は文書の巻物を手に答える。「刻晴様の述べる敵の特徴と戦法、戦場から回収した武器の破片を照合した結果、これらの敵はテイワットの既知勢力には属さないことが確定しました。武器鍛造の技法は独特、毒の成分は複雑、戦術体制も完備――高度に専門化された暗殺部隊であり、背後に成熟した軍事体制が存在するのは間違いありません。」
「目的は何だ?」凝光が問う。
「霊矩関の防御を破壊し、後続の大軍へ道を開くことです。」刻晴が答える。「彼らは目的を達した。今正規軍が攻め寄せれば、我々は三日も持たない。」
凝光は唇を微かに歪めるが、その笑みには温もりが皆無だ。「守れぬのなら、守る必要はない。」
一同は思わず唖然とする。
凝光は玉閣の方へ振り返る。「百聞、『千眼千尋』大陣を起動せよ。百識、『天星雨降』の符牒を準備せよ。百暁、この一帯のホログラフィック投影を作成、縮尺は五百分の一とせよ。」
三人の秘書は一斉に応じ、即座に行動に移る。
刻晴は合点がいく。「能動的に討って出るつもりか?」
「最良の防御は、敵に隠れ場所を与えぬことだ。」凝光は玉閣へ足を踏み入れる。「彼らが隠れるのを得意とするなら、この一帯の影をすべて照らし出せばよい。」
風魔小太郎は古木の影に身を隠し、木と一体化したかのように佇んでいた。霊矩関上空に浮かぶ楼閣をじっと見つめ、脅威レベルを測り続ける。
「明確な武装システムは見られず、移動は緩慢、体積は膨大……輸送船か?それとも指揮拠点か?」低くつぶやく。
突然、楼閣の頂上に金色の光が煌めいた。
いや、一筋ではない。幾百幾千もの金光が一斉に灯り、夜空に無数の瞳が開いたかのようだ。続いてこれらの金光が無数の光線を放ち、大地・山林・峡谷をなびかせ、通り過ぎる場所はすべて鮮明に照らし出され、最深の影さえ逃れる術はない。
「これは……」風魔の瞳が激しく収縮する。
「頭領!我々は発見されました!」一人の忍者が影から追い出され、金光が実体のように身にまとい、どれほど身をかわしても光線は離れない。
彼だけではない。山林に散らばった三百人の忍者は、今や全員金光に標定され、闇夜の蛍のように目立つ存在となった。
「撤退せよ、即時撤退!」風魔は即断するが、時すでに遅し。
玉閣の内部、凝光はホログラフィック投影の前に立ち、三百余りの光点が一人一人の忍者の位置を鮮明に映し出していた。彼女は精巧な碁石を指で遊ばせ、瞳に冷たい光を宿らせる。
「見つけた。」つぶやき、碁石を置き落とす。
百識の手に持つ符牒が瞬く間に燃え尽きる。「『天星雨降』、起動。」
空に無数の光点が集まり始める。
最初は夏夜の蛍のように点点としていたが、やがて光はますます強く、密集し、ついに数百の流星となり、長い光の尾を引いて大地へ墜ちていく。
風魔は空を仰ぎ、死の気配が押し寄せてくるのを感じた。
「散れ、極限まで散れ!」怒鳴り、電光の如く最寄りの掩護物へ躍り出る。
だが流星は意思を持ったかのように軌道を変え、金光に標定された全員を的確に追跡する。
最初の流星が地面に着弾。
耳をつんざくような爆発はなく、瑠璃が砕けるような澄んだ音だけが響く。だが着弾点を中心に十丈圏内の空間が瞬く間に固まり、時間が停滞したかのようになり、続いて目に見えぬ衝撃波が拡散。通り過ぎた場所の岩は微塵と化し、木々は真っ二つに折れる。
一人の忍者は分身術で逃れようとするが、本体が十丈先の影に現れた瞬間、二番目の流星が頭上に迫っていた。
「土遁・岩鎧の術!」印を結び怒鳴り、全身を岩で覆う。
しかし流星が岩鎧に触れた瞬間、衝撃も爆発もなく、極限の寒気だけが漂う。岩も内側の忍者も絶対零度の氷結に閉じ込められ、やがて氷塵となって消え去る。
「元素攻撃……これほど大規模で、精度まで高いとは……」風魔は逃れながら観察し、心が沈み続ける。
これは人の業ではない、まさに天災に等しい。
三番目の流星群が襲来、今度は炎だ。普通の火ではなく、純粋な火元素が凝縮した滅びの雨。一つの峡谷が丸ごと炎に包まれ、淡い黄金色の炎は音もなく燃え盛り、岩さえ溶け落ちる高温を誇る。
谷に隠れていた五人の忍者は絶叫する間もなく、灰と化した。
風魔は三里ほど後退していたが、身にまとう金光の標識は依然として離れない。水色の流星が彼をロックオンし、どれほど進路を変え、分身し、身を隠しても逃れることはできない。
「これが……この世界の力なのか?」風魔は足を止め、迫り来る流星に向けて印を結ぶ。
「禁術・影界穿梭!」
体は純粋な影と化し、世界の裏面に溶け込もうとする。これは風魔一族最高の遁術で、代償として寿命を十年失うが、一時的に影の次元に侵入し、あらゆる物理攻撃と大半の元素攻撃を無効化できる。
流星は彼の影の体をすり抜け、傷一つ負わせない。
風魔は安堵するが、次の瞬間激痛が全身を貫く。
その水色の流星は、彼の「背後」にある影の次元で爆発した。放たれたのは衝撃波ではなく、純粋な空間の揺らぎ。影の次元は鏡のように砕け、風魔は無理やり現実世界に引き戻され、七つの穴から血が溢れ出す。
「ありえぬ……影の次元さえも……」片膝をつき、内臓が焼けるように痛む。少なくとも肋骨三本は折れ、左腕も骨折している。
空の流星群は続いているが、密度は明らかに低下した。風魔は激痛を堪えて眺め、生き残った忍者は百人に満たず、大半が負傷していることを知る。
玉閣の一撃は、わずか十分で彼の部隊をほぼ全滅に追い込んだ。
「必ず……情報を持ち帰らねば……」風魔は舌を噛み、激痛で意識を保つ。「この世界には我々の理解を超える力が存在する……氏康様と信玄様に警告せねば……」
黒い呪符を取り出す。北条氏康から賜った命綱の品で、一度限りの超長距離転移が可能だが、行き先はランダムとなる。
「風魔衆、それぞれ撤退せよ、定められた場所で合流せよ!」最後の力を振り絞って命じ、呪符を握り砕く。
黒い渦が彼を飲み込む寸前、最後に空中楼閣を眺めた。楼閣の頂上には白い衣の人影が戦場を静かに見下ろし、まるで神が蟻を見るような眼差しだった。
「凝光……」風魔はその名を刻み込み、渦の中に消え去る。
玉閣の内部、凝光はホログラフィック投影で減り続ける光点を眺め、表情は平静を保っていた。
「標的は八十七名に減少、四散して逃走中です。」百暁が報告する。
「追跡いたしますか、凝光様?」百識が問う。
凝光は首を振る。「窮寇を追うな。それに我々の主な目的は、霊矩関の脅威を払拭することだ。百聞、戦果を査定せよ。」
百聞は即座に計算する。「敵の損害は約二百五十名、戦死確認は百九十三名、残りは重傷または逃走。我方に新たな戦死者なし。玉閣のエネルギー消費は三十七パーセント、『天星雨降』符牒の在庫は六十二パーセントを消費。」
「代償は大きいな。」刻晴が楼閣内に入り、複雑な面持ちで言う。「だが効果は……驚異的だ。」
甘雨が続いて入り、投影に映る荒廃した戦況を眺める。「これほどの力……凝光、いつから……」
「玉閣は私の住まいで商業拠点であるだけでなく、璃月最強の移動要塞でもある。」凝光は二人に向き直る。「今までその一面を晒す必要がなかっただけだ。」
窓辺に歩み、白み始めた東の空を眺める。「だが今回の侵攻で悟った。璃月が直面する脅威は、我々の想像をはるかに超えるかもしれぬ。これらの敵はこの世界の外から来て、戦術体制は完備、規律も厳格、背後に強大な勢力が控えているのは確かだ。」
「また戻ってくるとお考えか?」刻晴が問う。
「必ず戻ってくる。そして次は万全の準備を整えて来る。」凝光の声は微かだが揺るぎない。「だから備えを固めねばならない。刻晴、傷は完全に癒やせ。甘雨、直ちに璃月港に戻り、帝君に事の経緯を報告せよ。私は防御施設の再建が完了するまで、しばらく霊矩関に駐留する。」
二人はうなずき、命を受ける。
凝光は二人の去る姿を見送り、百暁を呼ぶ。「敵の遺体と武器の破片を全て回収、全面的に分析せよ。同時に『星見計画』を発動。これらの敵が何処から来て、何を目的とし、そして……背後に誰が立っているかを突き止めよ。」
「承知いたしました、凝光様。」
凝光は一人玉閣の頂上に立ち、朝風が白い衣をなびかせる。眼下では霊矩関の廃墟が整理され、千岩軍の兵士たちが防御施設の再建を始めている。遠方では生き残った忍者が敗走し、まるで丧家の犬のように逃げ惑う。
この戦いは終わった。だが彼女は知っている、これより大きな嵐の前奏曲に過ぎないことを。
異世界の影がテイワットを覆い始めた。そして璃月は、この闇を阻む最前線に立つ。
彼女は手を挙げ、岩元素で生まれた碁石が宙を旋回する。
「貴らしが誰であろうと、何処から来ようと。」凝光はつぶやき、碁石は手の中で金色の光点となり消える。「璃月は、容易に踏み入れられる土地ではない。」
朝日が昇り、第一筋の光が玉閣の瑠璃瓦を照らし、血に染まった大地をも照らし出す。新しい一日が始まったが、平和な日々はもう終わりを告げたのかもしれない。
遥か異世界では、重傷を負った風魔小太郎が転移の渦から崩れ落ち、北条氏康の前に倒れ込んだ。
「殿……」血を吐きながら言う。「あの世界には……我々の想像を超える力が存在する……体制を再評価せねば……」
北条氏康は彼を抱き起こし、深海のように重い眼差しを宿らせる。
「詳しく話せ。」たった三文字の言葉に込められた重圧は、部屋の空気さえ凍らせる。
世界を跨ぐ戦争は、ついに幕を開けた。霊矩関での交戦は、双方の最初の探り合いに過ぎない。真の嵐は、これから訪れる。




